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第三十六話 先生からお休みをもらいました

第三十六話 先生からお休みをもらいました


 翌朝。


 鏡の前で、前髪を指先で整える。


 少し右へ流す。


 違う気がして元へ戻す。


 もう一度だけ形を整えたところで、頭の中に声が響いた。


『それ、三回目』


「何が?」


『髪』


 アレイシアだった。


『さっきから前髪を右にやって、戻して、また右にやってる』


「寝癖が直らないんだよ」


『へえ』


「なんだよ」


『別に』


 妙に含みのある声だった。


 鏡の中の自分を見る。


 別に、格好をつけているわけではない。


 これから医療区画へ行くのだから、最低限、身だしなみを整えているだけだ。


『今日は何かあるの?』


「診察と訓練」


『医者に診てもらうだけなのに、なんでカッコつけてんの?』


「つけてない」


『つけてるじゃん』


「うるさい」


『あー……』


 アレイシアの声から、急に笑いが消えた。


『わかった』


「何が?」


『いや……あんたが鏡の前で男出してるの見るの、普通にキツいなって』


「ただの担当官だよ」


『女?』


「…………」


『女なんだ』


「生体調整官のリーネ。昨日から訓練を見てもらってる」


『ふーん。リーネ』


「その復唱、前にも聞いたぞ」


『別に?』


 絶対ニヤニヤしてる。


 姿は見えないのに分かる。


「切るぞ」


 もう一度、鏡を見る。


 前髪へ手を伸ばしかけて、やめた。


 ◇


 医療区画へ向かう途中、壁面に貼られた広告が目に入った。


《ヴェイル・グループ主催 企業連合フェア》


《各企業の食品、技術、娯楽を一堂に展示》


《開催は明日まで!》


 色鮮やかな屋台。


 人工海岸。


 異国風の料理。


 体験型の映像施設。


 グラディエンの無骨な広告に混じって、それだけが妙に華やかだった。


 少し楽しそうだ。


 その瞬間、リーネの顔が浮かんだ。


「いや、患者が担当医を休日に誘うってなんだよ」


 普通に迷惑だろ。


 そもそも、明日が休みなのかも分からない。


 休みだったとしても、予定くらいあるはずだ。


 友達と会うとか。


 買い物に行くとか。


 ……恋人とか。


「…………」


 勝手に考えて、勝手に少し傷ついた。


 いや、別に二人で行く必要はないよな。


 俺はヴェイル側から来たのだから、案内役にはなれる。


 期間限定の催しだし、リーネも興味を持つかもしれない。


 ずっと仕事をしているようだから、気分転換にもなる。


 ほかにも誰か誘えばいい。


 誰を?


 シアーダ?


 絶対に楽しくない。


 初等候補生たち?


 引率になる。


 そもそも、俺が一緒に行けそうな人間は、ほかにいなかった。


「いや、だからって二人で行くのは……」


『誘えばいいじゃん』


「うわっ」


 突然、アレイシアの声が戻ってきた。


「勝手に接続してくるなよ!」


『ずっと一人でブツブツ言ってるから、何してるのかと思って』


「聞いてたのか?」


『患者が担当医を催しに誘うのは迷惑かな、でも案内役にはなれるし、期間限定だし、ほかに誘う人もいないし――』


「全部聞いてるじゃねえか!」


『面倒くさ。行きたいなら誘えば?』


「断られるのが嫌なんじゃないんだよ」


『じゃあ、何が嫌なの?』


「誘った瞬間に、“この人、私のことをそういう目で見てたんだ”って思われること」


『そういう目で見てるじゃん』


「だから困ってるんだよ」


 断られるだけなら、まだいい。


 だが、その後も訓練は続く。


 診察のたびに、「休日に誘ってきた患者」として見られる。


 優しくしてくれるたびに、気を遣わせているのではないかと考えてしまう。


 想像しただけで、今すぐ別の医療区画へ転院したくなった。


「そういえば、鑑定なら勤務予定くらい――いや、それは駄目なやつだな」


『あんたにも倫理観が残ってたんだ』


「でも、好きな食べ物くらいなら――」


『もっと駄目になってる』


「分かってる。言ってみただけだ」


『前に紹介したスキル、取っておけばよかったのに』


 視界の隅に、色鮮やかな文字が現れた。


《森羅万象の美女を虜にする王者の魔眼――オール・ガールズ・ラブ・ミー》


「いらない」


『まあ、今回は違うか』


 アレイシアが、あっさり広告を消した。


「何が?」


『それを使って“いいですよ”って言われても、あんたが欲しい返事じゃないでしょ』


「…………」


『自分で誘いなよ』


 そこで接続が切れた。


 言うだけ言って、また逃げやがった。


 ◇


 診察は、いつもどおり始まった。


 リーネが俺の瞳孔、脈拍、神経反応を順番に確認していく。


「昨日より、光への過敏反応が減っているわね」


「はい」


「頭痛は?」


「ありません」


「吐き気は?」


「大丈夫です」


 今か?


 いや、もっと違うタイミングがあるだろ。


 訓練中に休日の予定を聞く患者は怖い。


 休憩中。


 水を飲んでいると、リーネが端末に何かを書き込んでいた。


 今なら自然か?


 いや、何が自然なんだ。


「…………」


「エイユ?」


「はい」


「どうしたの?」


「いや」


 怪しまれた。


 まずい。


 もう聞くしかない。


「あの」


「なに?」


「明日って、何か予定ありますか?」


 言った。


 言ってしまった。


 しかも文脈がない。


 唐突すぎる。


 リーネが一度瞬きをする。


「明日?」


「はい」


「誰の?」


「先生の」


「午前中は用事があって……午後なら空いてるけど」


「そうですか」


 空いている。


 ここからだ。


「あの、ヴェイル・グループが、企業連合フェアをやってるらしくて」


「企業連合フェア?」


「いろんな会社の食品とか、技術とか、そういうのが集まる催しです。俺はヴェイル側から来たので、多少は案内できると思うんです」


「へえ」


「それで……」


 言え。


 行きませんか。


 たった六文字だ。


「もし興味があればですけど」


 違う。


「別に無理なら全然」


 違う。


「俺も一人で行くつもりだったんで」


 最悪だ。


 なんで逃げ道を三つも作った。


 これでは誘っているのか誘っていないのか分からない。


「だから、その……よかったら、一緒に行きませんか」


 ようやく言えた。


 リーネは何度か瞬きをした。


 終わった。


 絶対怪しまれた。


 気持ち悪い。


 せめて普通に誘えばよかった。


「いいわね」


「……え?」


 リーネは少し笑った。


「私、ああいうイベントあまり行ったことないの。行ってみたい」


「でも、俺は訓練が」


「今日の訓練が順調に進めば、明日の午後は、身体を休める予定にしてあるの。訓練もお休みよ」


「休み……」


 十日間、一度も聞けないと思っていた言葉だった。


 それだけ返した。


「明日の午後ね。」


「はい」


 平静。


 完璧だ。


 声も裏返っていない。


 顔にも出ていないはずだ。

 

 心の中では、完全勝利だった。


『うわ』


 アレイシアの声がした。


『めっちゃ喜んでる』


「…………」


『あれ?』


 アレイシアが何かを思い出した。


『前に、赤い髪のシスターも街へ誘ってなかった?』


「あれはスキルが発動して、成り行きでそうなっただけだ」


『ふうん』


「それに、ミリアを口説こうとしたわけじゃない。別に二人にいい顔をしてるとか、そういうんじゃ――」


『そこまで言ってないけど』


「…………」


『自分から言い訳を増やすほど怪しくなるよ』


「だから、フェアの案内役として――」


『はいはい。今回は、ちょっと違うのね』


「切るぞ」


 返事はなかった。


 すでに向こうから切られていた。


 俺は、緩みそうになる口元を必死に引き締めた。


 ◇



 その日の午前は、《高重力下身体再構成》だった。


《重力負荷:2.5G》


「次、お願いします!」


 俺は勢いよく立ち上がった。


「ええ。では、あと十回ね」


「二十回いけます!」


「昨日は五回目で、もう二度と立ちたくないと言っていたけれど」


「昨日の俺と今日の俺は違います」


「何があったの?」


「何もありません!」


 明日の午後には、リーネと企業連合フェアへ行く。


 それだけだ。


 別にデートではない。


 ただ、今日の俺は何でもできる気がした。


《重力負荷:2.8G》


「もう一回!」


《重力負荷:3.0G》


「まだいけます!」


《警告:規定訓練量を超過しました》


「警告は出ていますけど、身体は大丈夫ですよね?」


「大丈夫だけど……今日は随分やる気があるのね」


「はい!」


 返事だけは、初等候補生より立派だった。


「では、あと三回だけにしましょう」


「十回でも!」


「三回よ」


「はい!」


 回数を減らされても元気だった。


 ◇


 午後は、仮想空間で格闘、回避、射撃訓練を行った。


《主観速度:百分の一 痛覚 20%》


 拳をかわす。


 蹴りを避ける。


 掴みに来た腕を振り払い、背後から振り下ろされた棒を紙一重で回避する。


《成功》


《成功》


《難易度を上昇します》


《主観速度:十分の一 痛覚 30%》


「来い!」


 体感速度はだいぶ早くなっている。


 一撃一撃も今までより痛い。


《失敗》


 床へ転がされた。


「もう一回!」


《失敗》


「もう一回!」


《失敗》


「まだまだ!」


《精神的高揚を検出》


《鎮静処置を推奨します》


「そこまで?」


 回避訓練の次は射撃だった。


 静止標的。


 移動標的。


 障害物の隙間から一瞬だけ姿を見せる標的。


 人質へ重なるように移動する敵。


《命中》


《誤射》


《命中》


《訓練終了条件を満たしました》


「追加で百体!」


《規定課程は終了しています》


「五十体!」


《…………》


「じゃあ十体!」


 訓練装置に値切り交渉を始めたところで、強制的に現実へ戻された。


 ◇


「最近、エイユは訓練への意欲が高いのよ」


 リーネが、うれしそうに訓練記録を見せた。


「今日は規定回数を終えても、自分から追加を申し出てくれたの」


 様子を見に来ていたシアーダは、記録へ目を通した。


 次に、妙に姿勢よく訓練椅子へ座っている俺を見る。


「…………」


「自分から目標を持つようになったのね。いい傾向だと思わない?」


 シアーダが俺を見る。


 俺は目をそらした。


 続いて、シアーダは何も分かっていないリーネを見た。


「……お前、本当に分からないのか?」


「何が?」


「いや」


 シアーダは一瞬だけ、気の毒そうな目を俺へ向けた。


「本人が哀れになってきた」


「どうして?」


「お前は知らなくていい」


 シアーダは再び、訓練記録へ目を落とした。


「そうだな。明日以降も同じ意欲が続くことを祈っている」


「続きますよ!」


 俺は反射的に答えた。


 シアーダの視線が、さらに哀れなものへ変わった。


 ◇


 深夜、司令室に短い警報が鳴った。


《認識信号を受信》


 当直の兵士が顔を上げる。


「大佐。第四要塞から、行方不明者の信号です」


 撤退できなかった兵士の一人だった。


「生存者か」


「分かりません。信号は……動いています」


 地図の上で、小さな点が要塞の中を歩いていた。


 演習場から、食料庫へ。


 食料庫から、生物の死骸が集められた区画へ。


 十二分後、信号は再び途絶えた。


 シアーダは、その名を作戦資料へ書き加えた。


 救出対象の欄には、書かなかった。


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