第三十五話 優しい先生は訓練を終わらせない
第三十五話 優しい先生は訓練を終わらせない
翌朝。
あれだけ起立と歩行を繰り返したのだから、全身が筋肉痛になっていると思っていた。
ところが、目覚めは驚くほどよかった。
身体に痛みはない。
試しに立ち上がってみる。
昨日のように、右手と右足が一緒に出ることもなかった。
姿勢を正し、医療区画へ向かう。
予定より少し早い。
別に理由はない。
早く目が覚めただけだ。
◇
医務室には、消毒液に混じって、かすかに甘い香りが漂っていた。
窓際には、小さな白い花。
リーネの机には、整然と並べられた医療端末と、角の欠けた陶器のカップ。
その横には、子供が描いたらしい不格好な女性兵士の絵が飾られている。
無機質な要塞の中で、そこだけには少し生活の気配があった。
「おはようございます!」
思ったより大きな声が出た。
端末を見ていたリーネが顔を上げる。
「あら。早いのね」
「目が覚めたので」
「よく眠れた?」
「驚くほど」
「それなら、再生剤は正常に働いていると思うわ。確認させてね」
診察台へ腰掛ける。
リーネは空腹感、吐き気、頭痛、光や音への過敏さを一つずつ確認した。
それから、俺の首筋へ手を当てる。
指先は少し冷たかった。
一瞬、身体がこわばる。
「力を抜いて。痛くしないから」
かすかな圧迫感。
モニターへ血流や代謝、神経活動の数値が表示される。
次に胸元へ手を当てられた。
近い距離にある横顔を意識しないよう、俺は画面へ目を向けた。
「心拍が少し速いわね」
「診察されるのに慣れてなくて」
「そうなの? でも、危険な変化ではなさそうね」
リーネは俺の言葉を疑うこともなく、記録を続けた。
「疲労は少し残っているけれど、許容範囲内。今日も訓練できると思うわ」
リーネが診察記録を保存した。
「じゃあ、昨日の続きから始めましょう。まずは起立動作ね」
椅子に座り、身体を前へ傾けながら立ち上がる。
重心を足の上へ移し、そのまま背筋を伸ばした。
昨夜、部屋へ戻ってから練習した動作だ。
身体は、ほとんど揺れなかった。
リーネが驚いたように目を見開く。
「すごい。前より、ずっとよくなってる」
ちょっと誇らしくなる。
「もしかして、あのあと一人で練習した?」
「少しだけ」
リーネはすぐには褒めなかった。
俺の姿勢と神経反応を確認してから、少し困ったように眉を下げる。
「あなたが頑張っていることは、ちゃんと知ってる」
「じゃあ――」
「でも、次からは教えてね。今のあなたは、自分で疲労の限界を正しく判断できないの」
叱る口調ではなかった。
「あなたが隠れて頑張ったせいで倒れたら、私はきっと、もっと注意して見ていればよかったって後悔すると思う」
「……すみません」
「謝ることではないわ。それに、誰も見ていないところでも頑張れるのは、私は立派だと思う」
リーネは俺の目を見た。
「でも、一人で無理をしない。約束してくれる?」
「はい」
「うん」
そこでようやく、リーネは嬉しそうに笑った。
「本当に上手になったわね。今の、ちょっと格好よかった」
「…………」
その一言で、昨日の疲労が三割くらいどうでもよくなった。
リーネは端末へ目を戻す。
「これなら、今日の負荷は予定より十二パーセント上げてもよさそうね」
「……今なんて?」
◇
全身へ《可変重力負荷スーツ》を装着された。
《重力負荷:1.1G》
歩行。起立。屈伸。
「調子はどう?」
「これくらいなら余裕ですよ」
「本当に?」
「……多少強がりました。でも、まだできます」
リーネは計測値と俺の顔を見比べて、納得したように頷いた。
「じゃあ、もう少し強度強めでいきましょうか」
「……ん?」
《重力負荷:1.3G》
そこから、負荷は少しずつ上がっていった。
《重力負荷:3.0G》
一度立ち上がっただけで、膝から力が抜けそうになった。
「もう無理だ……」
「そうね。つらいわね」
リーネは俺の手首へ指を当て、計測器へ目を落とした。
「でも、身体のほうはまだ大丈夫」
「いや、俺が大丈夫じゃないんですけど」
「うん。だから、あと三分だけ頑張りましょうか」
声はどこまでも優しかった。
残り三分。
最後の起立動作を終えた瞬間、俺は床へ倒れ込んだ。
「先生……もう、身体が動かない……」
リーネはすぐに重力負荷を解除し、呼吸と脈を確認した。
「ええ。よく頑張ったわね。もう力を抜いていいわよ」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れた。
床へ身体を預ける。
汗で額に張りついた髪を、冷たい布で拭ってくれる。
「今日は、もう終わり?」
「身体を使う訓練は、ここまでにしましょう」
「よかった……」
「次は、寝たままでできる訓練にしましょうね」
「……マジで?」
どうやらこの人にとって、動けないことと訓練できないことは別問題らしい。
◇
「ほら、肩につかまって」
リーネの肩へ腕を回す。
近くにある身体の温かさ。
髪から漂う清潔な香り。
増幅された神経が、必要以上に細かく拾ってしまう。
全身は疲れ切っているのに、心臓だけが妙に速くなった。
俺は身体を包み込む、傾斜式の訓練椅子へ移された。
「ここからは、仮想空間で基礎動作を学んでもらいます」
「先生も一緒に?」
「私は現実側で、ほかの患者を診なければならないの」
「ああ……そうですか」
思ったより、残念だった。
ただ、あと少しくらい一緒に来てくれてもいいのにと思っただけだ。
リーネは、俺のわずかな落胆に気づいた様子もなく、接続器具を確認している。
「仮想空間と現実では、時間の流れが違うでしょう? ずっと付き添うことはできないけれど、異常を感じたら呼んで。訓練はすぐに止められるから」
「呼んだら、本当に来てくれる?」
「もちろん」
リーネは、何を当たり前のことを聞くのだろうという顔をした。
「あなたが呼んでいるのに、放っておくわけないでしょう?」
リーネは俺の手元にある緊急停止装置の使い方を教えた。
「我慢できることと、我慢すべきことは違うの。そこを間違えないでね」
頭部へ接続器具が下りてくる。
「では、行ってらっしゃい」
視界が反転した。
◇
何もない灰色の空間。
正面には、特徴のない人型が立っている。
《主観速度:百分の一》
《痛覚再現率:25%》
《基礎回避動作》
《合格条件:規定動作百回成功》
「百回?」
人型が、ゆっくりと拳を繰り出した。
百分の一の速度。
簡単に避けられると思った。
《失敗》
《右足位置:基準から三・二センチ逸脱》
《重心:左方向へ偏位》
《視線:対象の拳へ集中》
《成功回数:0/100》
「判定、厳しすぎない?」
最初の位置へ戻される。
足の位置。
重心。
関節角度。
視線。
呼吸。
手の震え。
すべてを正しく制御しなければ、成功にはならない。
一回の攻防に、仮想時間で数十分。
何度もやり直し、ようやく一度だけ成功した。
《成功回数:1/100》
「これを、あと九十九回……?」
灰色の人型が、再び構えた。
リーネはここにはいない。
ただし、彼女は何でも我慢しろとは言わなかった。
危険なら止める。
苦しいだけなら、できる方法を一緒に考える。
そして、安全に続けられるかぎり、俺が諦めるまで付き合ってくれる。
俺ならできると信じて、ここへ送り出してくれた。
「……やるか」
足の位置を直す。
重心を整える。
灰色の人型へ視線を戻した。
規定回数を成功させるまで、この訓練は終わらない。
◇
「あと一回……!」
やっと完璧に避ける。
《成功回数:100/100》
「終わった……!」
《現在の状態から、安全に追加可能な訓練回数を算出します》
目の前に選択肢が現れた。
《本日の訓練を終了する》
《27回追加する》
《41回追加する》
もちろん、一番上を選んでもいい。
リーネは言っていた。
我慢できることと、我慢すべきことは違う。
規定回数は終わった。
ここでやめても、誰にも怒られない。
そのはずなのだが。
《担当官からのメッセージがあります》
リーネの声が流れた。
『百回、お疲れさま。ここまでできたなら十分よ』
「そうですよね」
『追加分は、あなたの状態を確認して、安全にできる範囲だけ表示されるようにしてあるわ』
「…………」
『無理にやらなくても大丈夫。自分で決めてね』
優しい声だった。
本当に、どちらを選んでも怒らないのだろう。
だから困る。
俺は三つの選択肢を見つめた。
《終了する》
《27回追加する》
《41回追加する》
「……二十七回で」
《選択を確認》
《追加訓練:27回》
灰色の人型が構えた。
『うん。頑張ってね』
「見てるんですか!?」
『バイタルは見てるわよ』
逃げられなかった。
◇
同じ夜。
司令室の壁面に、第四要塞の映像が映し出されていた。
高高度の無人偵察機が送ってきた、熱源映像だった。
崩れた外壁の内側で、黒い人影が等間隔に並んでいる。
百体近く。
どの個体も動かない。
武器を下げ、頭を垂れ、同じ方向を向いて膝をついている。
「……何をしている」
シアーダが呟いた。
警戒でも、休息でもない。
まるで何かに祈っているかのような姿勢だった。
黒い人影たちが向いている先には、何もない。
ただ、要塞の地下へ続く、崩れた昇降路があるだけだった。




