第二十九話 金で買えないもの
『皆さんに、お話ししなければならないことがあります』
『事故は、私の判断によって起きました』
言い訳から始まると思っていたのだろう。
群衆の声が、わずかに弱まった。
『三か月前、忌避剤の効果が低下しているという報告を受けました。しかし、原因は限定的な環境変化であり、直ちに大規模な侵入が起きる危険は低いと判断しました』
アマラは目を伏せなかった。
『防護区域を全面閉鎖すれば、数万人が住居と職場を失う。供給を止めれば、別の地域が無防備になる。私は販売と運用を継続しながら、改良を進めることを選びました』
広場のあちこちから、罵声が飛ぶ。
「結局、金のためだろ!」
「俺たちを実験台にしたんだ!」
『そう思われても、否定はできません』
アマラの指先が、わずかに震えていた。
『結果として、私の判断は間違っていました』
その一言を口にした瞬間、彼女の顔から、ほんの一瞬だけ表情が消えた。
自分が正しく、価値のある人間だと証明するために、彼女はここまで登ってきたのだから。
『私には責任があります。ですが、皆さんに許しを乞うつもりはありません』
再び、群衆がざわめいた。
『許しとは、被害を受けた者だけが与えられるものだからです。私が要求してよいものではありません』
アマラは広場を見渡した。
『亡くなった方は戻りません。負傷した方の苦痛も、遺族の悲しみも、金で消すことはできません』
そこで、彼女は一度だけ言葉を止めた。
『それでも私は、金で償います』
怒号が上がる。
「やっぱり金か!」
「それしか知らないのか!」
『はい』
アマラは否定しなかった。
『私は、それ以外に人を守る方法を知りません』
その声に、初めて小さな揺らぎが混じった。
『言葉で死者を生き返らせることはできない。謝罪で家を建て直すことも、子供を学校へ戻すこともできない。だから私は支払います。治療費を、所得を、失われた住居を、残された家族の生活を』
『それで足りないと言われても、支払い続けます』
それでも、群衆の怒りは収まらない。
今の言葉だけでは、すべてが計算された危機対応に聞こえる。
アマラ自身も、それを分かっていた。
俺は彼女の隣へ歩み出た。
「アマラ」
「……何かしら」
「本当に伝えたいのは、それだけか?」
彼女は答えなかった。
俺は手を差し出した。
アマラの顔に、初めて明確な恐怖が浮かんだ。
「やっぱりだめよ」
「私の記憶は、商品ではないわ」
「分かってる」
「あなたにも、あの人たちにも渡さない」
広場から罵声が飛んでくる。
アマラはそれを聞きながら、俺の手を見つめていた。
死者の映像よりも。
迫り来る群衆よりも。
自分の過去を見られることを恐れている。
やがて彼女は、震える指で俺の手を取った。
「……これが、私に残された支払いだというの?」
「たぶん、一番高いやつだ」
アマラは目を閉じた。
「最低ね」
「よく言われる」
俺は息を吸い込んだ。
そして、広場全体に響く声で叫んだ。
「《我が魂景を遍く世界に映し出す万象共鳴劇場――アカシック・ソウル・シアター》!」
光が弾けた。
巨大なスクリーンが現れたわけではない。
映像は、そこにいる全員の心へ直接流れ込んだ。
◇
孤児院の、暗く冷たい夜。
薄い毛布にくるまり、眠れずに天井を見つめる幼い少女。
隣の寝台では、別の子供が母親の名前を呼んで泣いている。
少女は耳を塞ぐ。
自分には、呼ぶ名前すらなかった。
◇
身なりのよい子供たちが、柵の外から指を差して笑っている。
「捨てられた子だ」
「お母さんもいないんだって」
幼いアマラは、唇を噛んだ。
泣けば、負けたことになる。
だから笑った。
何でもないふりをして、背筋を伸ばした。
◇
裕福な夫婦が孤児院を訪れた。
子供たちに菓子を配り、慈愛に満ちた笑顔で頭を撫でていく。
アマラも、練習したとおりに笑った。
「ありがとうございます」
「まあ、礼儀正しい子ね」
夫人の手が、アマラの髪を優しく撫でる。
その手は温かかった。
だからアマラは、夫婦が帰るまで笑い続けた。
二人は最後まで、彼女の名前を尋ねなかった。
◇
少し成長したアマラが、欠けた鏡の前に立っていた。
笑う。
首を傾ける。
声の高さを変える。
何度も、何度も繰り返す。
どの角度なら、美しく見えるのか。
どんな声なら、人は足を止めるのか。
どんな言葉なら、自分に価値があると信じてもらえるのか。
誰かが自分を見つけてくれる日を、待つのはやめた。
愛されることは、偶然ではない。
獲得するものなのだ。
◇
安酒場の片隅。
アマラが歌っている。
誰も聴いていない。
客たちは酒を飲み、笑い、彼女の声を雑音のように聞き流している。
それでも彼女は笑顔を崩さなかった。
初めて受け取った出演料。
支配人は、約束した額の半分しか渡さなかった。
「嫌なら辞めろ。代わりはいくらでもいる」
アマラは反論しなかった。
硬貨を握りしめ、店を出た。
帰りの列車。
窓に映った自分に向かって、少女は誓う。
――もう二度と、貧しい少女には戻らない。
――誰にも、代わりがいるなどと言わせない。
◇
映像が切り替わる。
歓声に包まれるアマラ。
豪華な衣装を身にまとい、大勢の観客へ手を振っている。
巨大な邸宅。
次々と建設される工場。
彼女の名前を冠した診療所。
夜の街に灯る電灯。
新しい制服を抱きしめる子供たち。
アマラは富を得た。
力を得た。
そして、人々から名前を呼ばれるようになった。
――アマラ。
――アマラ。
――私たちのアマラ。
歓声を聞くたび、胸の奥が満たされた。
何者でもなかった少女が、人々に必要とされている。
もう、名前すら尋ねられなかった子供ではない。
彼女は、愛されることで力を得た。
力によって貧しい者を救った。
人々を救うことで、さらに愛された。
その循環こそが、アマラのすべてだった。
だから今、彼女は恐れていた。
富を失うことではない。
会社を失うことでもない。
人々が、二度と自分の名前を呼んでくれなくなることを。
やがて映像は消えた。
広場を、長い沈黙が満たした。
アマラは立っていた。
何万人もの人間に、最も隠したかった過去を見られながら。
それでも逃げずに、顔を上げた。
『私は富を愛しています。それを否定するつもりはありません』
今度は誰も叫ばなかった。
『けれど、黄金の塔からあなた方を見下ろすためだけに、ここまで来たのではありません』
アマラの声が、かすかに震える。
『あなた方は、私が貧しい人々を利用していると言う』
『そのとおりです。私は、あなた方の力を借りて富を築きました』
『ですが、あなた方もまた、私の資金と技術を利用してきた』
『働く場所が生まれ、賃金が支払われた。暗かった街に電気が灯り、診療所が建ち、学校へ通える子供が増えた』
『私はそれで、あなた方に必要とされているのだと思っていました』
『あなた方が働き、私が支払う。私が投資し、あなた方が明日の富を生み出す。それが、私たちの間にある関係なのだと』
アマラは自嘲するように、ほんの少し笑った。
『けれど、それは私の独りよがりだったのでしょうか』
『私は、皆が同じだけ豊かになれるとは約束しません。そんなものは嘘だからです』
『けれど、昨日より温かい部屋で眠らせることはできる』
『昨日は買えなかった薬を、今日は子供に与えられる』
『そして明日は、その子供が親とは違う仕事を選べるようにする』
『私が約束するのは、平等ではありません』
『昨日より豊かな明日です』
続いて、アマラの記憶とは異なる映像が流れ始めた。
広報部の記録庫に保存されていた、彼女と関わった人々の証言。
俺はそれを《アカシック・ソウル・シアター》へ取り込み、言葉に込められた感情とともに広場へ投影した。
顔に傷のある、グラサンとターバン姿の男が映った。
『勘違いすんな。俺は、あの女が嫌いだ』
男は露骨に顔をしかめた。
『俺たちの名前も覚えちゃいねえ。金で何でも解決できると思ってやがる』
広場の一部から、乾いた笑いが漏れた。
『でも、俺が16のころ、あのふざけたロボットで死にかけたとき、おかしなことが起こった』
『俺たちに払える金なんてなかったのに、有料の防護壁が起動してた』
男は少し黙った。
『どこの会社の金かは言わねえ。そういう約束だ』
『だが、俺が今も生きているのは、その金のおかげだ』
次の映像。
孤児院の院長。
『アマラは、自分がここの出身であることを公表しないよう求めました』
老女は、困ったように笑った。
『ですが、支援を止めたことは一度もありません』
最後に、幼い少女を抱いた母親が映った。
『あの人が優しいかどうかなんて、私には分かりません』
母親は腕の中の娘を見た。
『でも、私の娘を救った人ではあります』
誰も、アマラを聖女とは呼ばなかった。
誰も、彼女を無罪だとは言わなかった。
ただ、知らなかった事実だけが、広場へ積み重なっていった。
アマラが搾取した者たち。
アマラを利用した者たち。
アマラの金によって生き延びた者たち。
それは美しい慈善の物語ではなかった。
富と労働を交換し、互いを利用しながら生きてきた人間たちの記録だった。
アマラが再び口を開いた。
『あなた方に愛されたいなどとは、一度も口にできませんでした』
広場が静まり返る。
『しかし私は、それ以外の愛し方を知りませんでした』
『私は言葉だけで、あなた方を守る方法を知りません』
『だから金を払い、街を造り、あなた方が生きていける場所を残そうとした』
『そのために私が必要なら、いくらでも利用してください』
『私もまた、あなた方の力を借ります』
『それは、心の通った関係とは違うのかもしれません』
アマラは、映像の中にいた幼い自分を見つめた。
『それでも私は――それを愛と呼んではいけないのでしょうか』
誰も答えなかった。
だが、先ほどまで防護障壁へ石を投げていた男が、握っていた瓶をゆっくりと下ろした。
別の女が、《人殺し》と書かれた看板を地面へ置く。
群衆の後方から、誰かが叫んだ。
「だったら、最後まで責任を取れ!」
別の声が続いた。
「逃げるなよ、アマラ!」
「死んだ奴らを忘れるな!」
それは歓声ではなかった。
許しでもなかった。
だが、もう処刑を求める声でもなかった。
アマラは、目に浮かんだものを隠すように深く頭を下げた。
『私は逃げません』
『この都市で働く者を、利益のために死なせることは二度としません』
『安全監査を独立機関へ移管します。欠陥を報告した者には、経営陣を越えて公表できる権限を与えます。補償基金には、私の個人資産を充てます』
『それが、私から皆さんに提示する新しい契約です』
アマラは顔を上げた。
『私を愛する必要はありません』
『ですが、私が皆さんを見捨てるとは思わないでください』
沈黙の中、一人の労働者が拳を上げた。
賛美のためではない。
要求を突きつけるための拳だった。
「見てるからな、アマラ!」
やがて、別の拳が上がった。
さらにもう一つ。
人々は彼女を許していない。
信用も取り戻していない。
それでも、彼女を引きずり下ろすのではなく、責任を果たさせることを選び始めていた。
広場に、アマラの名が上がった。
それは以前のような、無条件の歓声ではなかった。
怒りも、疑念も、期待も混じっていた。
それでも彼女は、その声を聞いていた。
名前を尋ねられなかった少女の名を、今度は何万人もの人間が呼んでいた。
◇
「おめでとう。みんな、あんたのことが好きになったみたいだ」
「当然よ」
アマラはそう答え、俺の目を見た。
その瞬間。
まだ切れていなかった《アカシック・ソウル・シアター》が、彼女の心に浮かんだ情景を拾った。
そして、言葉にならなかった思いが、一瞬だけ俺の中へ流れ込んだ。
――ありがとう。
――あなたがいてくれて、よかった。
「え?」
思わずアマラを見る。
「今のも、演説の一部か? いや、でも……」
「…………」
「アマラ?」
彼女は微笑んだまま、手にしていた端末を俺の顎へ押し当てた。
「その記憶、いくらなら売ってくださる?」
「売らない」
「そう」
彼女の笑みが、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「では、あなたごと買うしかないわね」




