第二十八話 塔から降りる女王
第二十八話 塔から降りる女王
負傷者のうち数名が死亡し、被害者への補償が始まったあとも、事態は収まらなかった。
側近たちが、次々と執務室へ集まってくる。
「治安維持部隊を主要区画へ展開すべきです」
「鎮静剤の広域散布を提案します」
「通信網を遮断し、扇動者の発信を止めましょう」
「港湾地区のギャングと契約できます。彼らなら、警察が動けない地域でも――」
「却下」
アマラが言った。
「通信遮断も、ギャングの投入も認めない」
「しかし、このままでは生産活動そのものが停止します」
「鎮静剤も使わないで。群衆の規模が大きすぎる。事故が起きれば、さらに死者が出るわ」
「では、どうやって事態を収束させるのです?」
「考えている」
アマラの表情は冷静だった。
いや。
異様なほど、冷静なのだ。
《ソウル・シナプス・ハーモナイズ》を通じて、表情の下に隠された感情が伝わってくる。
動揺。
恐怖。
罪悪感。
意地。
そして、もう一つ。
愛されたいという、渇望。
彼女は、十分な対価さえ支払えば、安全も、名声も、愛情さえも手に入ると考えていた。
では、一度失われた愛情は、いくらで買い戻せるのか。
その問いにだけ、アマラは値段をつけられなかった。
彼女は揺らいでいた。
民衆から愛されなくなった瞬間、自分が再び――何者でもない孤児へ戻ってしまう。
そんな恐怖を感じているのだ。
それでもアマラは、最高経営責任者として逃げるつもりはなかった。
補償金を提示すれば、「金で黙らせる気か」と罵られる。
謝罪すれば、「演技だ」と嘲笑される。
治安部隊を下げれば、施設を襲撃される。
投入すれば、今度は虐殺者になる。
何を選んでも、誰かを傷つける。
何を語っても、すでに信じてもらえない。
責任から逃げないことと、責任がないことは違う。
この街の豊かさは、莫大な利益を求め、惜しみなく投資を続けた結果として生まれた。
アマラの事業が、多くの仕事を作った。
彼女の技術が、多くの命を救った。
それでも、利益を守るために危険を公表しなかった。
その判断によって、人が死んだ。
アマラは、民衆が想像するような、血も涙もない搾取者ではない。
だが、無実でもなかった。
◇
側近たちが退出すると、執務室には俺とアマラだけが残った。
窓の外では、街のあちこちから黒い煙が上がっている。
巨大な広告が倒され、路上で彼女の顔が燃えていた。
「あなたも、私を軽蔑したでしょう」
アマラが、窓の外を見たまま言った。
「前からしてるよ」
彼女が顔を上げた。
「でも、あんたは嫌われたんじゃない」
「……何?」
「誰も、本当のあんたを知らないんだ」
アマラの表情が止まった。
「金持ちで、強くて、何でも買えて、絶対に間違えないアマラ・ヴェイル。あんたは愛されるために、そんな自分を作った」
「それの何が悪いの?」
「悪くない。でも、都合が悪くなった途端に、その姿を信じていた連中は離れていった」
窓の下を、怒号を上げる群衆が流れていく。
「あんたが隠してきたものを、あいつらは何も知らない」
腹を空かせていたこと。
一人では眠れなかったこと。
誰かの後ろを、置いていかれないようについて歩いていたこと。
そして、金がなければ誰も守れないと信じるようになったこと。
「同情を買えというの?」
「違う」
「では、泣きながら謝罪しろと?」
アマラの声に、わずかな苛立ちが混じる。
「そのような安い演出で民衆が動くなら、広報部がとっくに提案してる」
「今まで金で買えなかったものを、自分の言葉で買うんだ」
「同じことじゃない」
「違う」
俺は、窓の外で燃える広告を見た。
「値段を決めるのが、あんたじゃない」
アマラは俺を見つめた。
その瞬間。
視界の端で、金色の文字が弾けた。
《既存スキルの複合進化を開始します》
《万象を見通す深淵の叡眼――アカシック・アナライザー》
+
《乙女に捧ぐ我が魂の絶唱――マイ・ソウル・フォー・ユー》
+
《魂魄を束ねし神経共鳴――ソウル・シナプス・ハーモナイズ》
《複合スキルを習得しました》
《我が魂景を遍く世界に映し出す万象共鳴劇場――アカシック・ソウル・シアター》
「……また、とんでもなく長い名前が来たな」
能力の効果が、頭の中へ流れ込んでくる。
自分の記憶。
対象の感情。
言葉にならない心象。
それらを一つの映像へ組み上げ、接続した人々の意識へ投影する。
アマラが、これまで誰にも見せなかったもの。
彼女自身が、必死に隠してきたもの。
金でも、広告でも、広報部の演出でも作れなかったもの。
それを、街全体へ伝えられる。
「アマラ」
「何?」
俺は彼女を見た。
「俺に考えがある」
◇
作戦を聞き終えたアマラは、しばらく何も言わなかった。
「本気なの?」
「たぶん」
「そこは言い切りなさい」
「初めて使うスキルなんだよ」
アマラは小さく息を吐き、燃え続ける街を見下ろした。
そして、側近たちへ振り返る。
「市民に告知して。これから私が直接、説明します」
「会見場を用意します。警備上、映像配信のみで――」
「いいえ。正面広場を開放して」
側近たちの顔色が変わった。
「危険です。現在、広場には数万人規模の群衆が――」
「だから、そこへ行くのよ」
◇
しばらくして、俺たちはビル正面のバルコニーに立っていた。
眼下の広場は、人で埋め尽くされている。
労働者。商人。学生。子供を抱いた母親。
怪我人の写真を掲げる者もいれば、焼け焦げたヴェイル社の商品を投げつける者もいた。
「人殺し!」
「金で命を買えると思うな!」
「塔から降りてこい、アマラ・ヴェイル!」
怒号が、建物そのものを揺らしていた。
アマラの巨大広告は引き裂かれ、その顔には赤い塗料が浴びせられている。
隣を見る。
アマラはいつもと同じように、背筋を伸ばしていた。
金色の髪も、衣装も、化粧も完璧だ。
けれど、組んだ指先だけが、わずかに震えている。
「逃げるなら、今のうちだぞ」
「誰に言っているの?」
声は強気だった。
眼下から罵声が飛ぶ。
物が投げられ、透明な防壁にぶつかって落ちた。
アマラは群衆を見渡した。
愛されたくて築き上げた街。
今、そのすべてから憎まれている。
それでも彼女は逃げなかった。
拡声装置が起動する。
ざわめきが、少しずつ静まっていく。
アマラは一歩、前へ出た。
『皆さんに、お話ししなければならないことがあります』




