第十五話 古代人、大学生活を満喫する
第十五話 古代人、大学生活を満喫する
学院での生活は、恐ろしいほど規則正しかった。
朝八時、起床。
睡眠状態の確認。
朝食。
排泄。
認知機能試験。
そして、栄養サプリメントの投与。
こうして並べると、健康的な大学生活に見えなくもない。
ただし、一つだけ重大な問題があった。
排泄である。
「今日も生物棟の第三採取区画を使ってね」
朝食を終えた俺に、ARIAが明るく告げた。
「第三採取区画って、あの巨大トカゲの檻の隣だよな?」
「昨日、清掃したばかりだから大丈夫」
「俺が気にしてるの、そこじゃないんだけど」
学院に来て以来、俺は毎朝、生物棟まで歩いて用を足していた。
そこにあるのは、原生生物の排泄物を回収するための設備だ。
床には用途不明の溝。壁には用途を知りたくない吸引口。そして座るたびに、何かを測定するような青い光が尻の下を往復する。
まさかとは思うが――。
「俺の便、採取してないよな?」
「え?」
ARIAは、きょとんとした顔をした。
「……してないよ?」
「今の間はなんだ」
「通信の遅延」
「お前、この距離で通信してないだろ」
追及しようとしたが、ARIAは鼻歌を歌いながら去っていった。
怪しい。
非常に怪しい。
とはいえ、それ以外の扱いは思ったより悪くなかった。
解剖されることもなければ、鎖につながれることもない。投与されるサプリメントも、こっそり《アカシック・アナライザー》で調べた限り、普通の栄養剤だった。
よくて治験。
少なくとも、今のところは人体実験ではない。
……被験体として安心していい基準なのかは分からないが。
◇
学院について、以前ミリアから聞かされた話を思い出すことがある。
神の存在を否定する者たち。
天地創造の本質を理解したと称し、複雑怪奇な理論を積み上げて世界を説明しようとする傲慢な知識人。
人の手で偽りの神を造り、それに人類を支配させようとする異端者。
そして、数えきれないほどの禁忌に手を染める者たち。
当時は、ずいぶん恐ろしい場所なのだと思った。
だが実際に暮らしてみると、研究者たちは大抵、寝不足で、話が長く、食事中にも専門用語を使うだけの人々だった。
今になって思えば、ミリアから聞いた話は少しばかり――いや、かなり一方的だったのかもしれない。
もっとも、学院側も神々の僕を好意的に見ているわけではない。
それでもソフィヤは、ミリアの名を聞いたとき、意外にも悪くは言わなかった。
「あの聖女は、信仰さえ絡まなければ優秀だ。特性化学の分野では、私も何本か論文を読んでいる」
それはソフィヤなりの、最大級の賛辞らしかった。
◇
ある日、検査室に呼び出されると、ソフィヤは大量の資料を机に広げて待っていた。
「エイユ。君の遺伝情報について、興味深い結果が出た」
「俺、人間でした?」
「その質問に即答できない結果だ」
「怖い言い方するなよ」
ソフィヤは気にした様子もなく、空中に複雑な図を表示した。
「現代人に広く見られる人工配列が、君にはほとんど存在しない。一方で、初期開拓民の保存試料との一致率は極めて高い。したがって君は、この星への入植が始まった初期に生まれた人間である可能性が高い」
「じゃあ、俺はものすごいおじいちゃんってことか?」
「年齢の話ではない。おそらく長期休眠設備に収容され、何らかの事故によって最近になって目覚めたのだろう」
どうやら、それが現時点でのソフィヤの仮説らしい。
もっとも、俺と同じ遺伝配列をシミュレーション上で再現しても、魔物に干渉する能力は発現しなかったという。
「問題は神経系だ。特に辺縁系と前頭前野の相互作用、それに未知の場を介した非局所的位相同期が――」
「待って」
「何だ?」
「一文字も分からない」
ソフィヤは口を閉じた。
困ったように眉間へしわを寄せ、しばらく考える。
「君の理解水準に合わせて説明すると……」
「その前置き、ちょっと傷つくな」
「細胞が、こう……たくさん集まる」
両手で丸を作る。
「一つ刺激しても、大したことは起きない。だが、何度も刺激を加えていくと、中にどんどん溜まっていく」
「何が?」
「興奮が」
「うん」
「それで、限界まで溜まると――」
ソフィヤは両手を勢いよく開いた。
「一気に放出される」
「……」
「刺激を重ねて、興奮を溜めて、最後に一気に放出するんだ」
「完全に下ネタになったじゃん」
「神経活動の話だ」
「その言い訳、もう無理だろ」
「専門用語を禁止したのは君だ!」
どうやら、普段から専門家としか話していないせいで、一般人向けに説明する能力が壊滅しているらしい。
いくつか質問を重ね、どうにか理解できたのは一つだけだった。
俺の能力は、感情の高まりによって引き起こされている可能性が高い。
だから大声で叫ぶ必要があり、情熱が足りないと《アカシック・アナライザー》にまで駄目出しされる。
あの恥ずかしい発動条件にも、いちおう科学的な理由があったのだ。
分かったところで、恥ずかしさは一つも減らなかった。
◇
栓抜きの一件以来、学生たちとの距離もずいぶん近くなった。
「エイユさん、これは何に使う古代遺物ですか?」
「これは……爪切りだ」
「おお……! この湾曲した二枚の刃で、対象を挟断するわけですね!」
「まあ、そうだな」
「携帯用処刑器具でしょうか?」
「爪を切るんだよ」
俺はいつしか、学院公認の古代遺物専門家のような扱いを受けていた。
授業に顔を出し、意味も分からず講義を聞き、遊戯室では学生たちとビデオゲームをした。
古代の生活用品が持ち込まれれば、もっともらしい顔で用途を解説する。
俺にもようやく、異世界人らしい活躍の場ができたのだ。
「ねえ、あなた、最近明るくなってきたね」
対戦ゲームで俺を完膚なきまでに叩きのめしながら、ARIAが言った。
「そうか?」
「うん。最初はいつも、捨てられた小動物みたいな顔してた」
「もう少しましな例えはないのか」
「今は、餌をくれる家を見つけた小動物」
「あまり変わってないな」
ARIAは楽しそうに笑った。
「今度、学生たちと天体観測に行くんだけど、あなたも来ない?」
「天体観測?」
「ここの天文台から見る星は、本当にきれいなの」
特に断る理由もなかった。
それに、ARIAがあまりにうれしそうに誘うので、俺は参加することにした。
◇
その夜、学院の天文台から見た空は、想像をはるかに超えていた。
大学で見た天体模型も大したものだった。
だが、本物はまるで違う。
黒い天蓋を埋め尽くす無数の光。
青白い星雲が薄絹のようにたなびき、その奥で、赤や金の星々が瞬いている。
空というより、巨大な海を下から見上げているようだった。
「今、私たちが見ている星の中には、もう存在しないものもあります」
観測装置を調整しながら、ARIAが言った。
「星が放った光がここへ届くまでには、長い時間がかかるから。今見えているのは、その星が生きていたころの姿かもしれない」
「死んだあとも、光だけが届くのか」
「うん。ずっと遅れてね」
望遠鏡の中で、二つの星が寄り添うように輝いていた。
「あれは兄弟星。二つの星が、互いの周りを回ってるの」
「兄弟なのに、ずっと一緒にいるのか」
「近づいたり、離れたりしながらね。影響を与え合って、ときには相手から物質を奪ったりもする」
「生々しいな。リアルな妹みたいだ」
「妹がいるの?」
「いや……」
なぜか、あの女神の顔が浮かんだ。
勝手に能力へ変な名前をつけ、人が宗教へ入ったと聞けば不機嫌になり、ろくに説明もしないまま電話を切る女。
あいつは、今もどこかで眠っているのだろうか。
「片方が死んだら、もう片方はどうなるんだ?」
「星の重さや距離によるよ。一つに重なることもあるし、相手を失って、単独の星として残ることもある」
「一つになるか、ひとりになるか、か」
どちらも、少し寂しい気がした。
俺は再び、満天の星を見上げた。
この無数の光のどこかに、俺がいた星もあるのだろうか。
名前も、自分が何者だったのかも思い出せない。
それなのに、夜空を見ていると、胸の奥が妙に締めつけられた。
懐かしい。
理由も分からないまま、そう思った。
「なあ、ARIA」
「なに?」
「元いた星にも、この星にも、俺の知り合いはもう誰もいないんだろうな」
ARIAは、何も言わなかった。
ただ俺の隣で、遠い星の光を見上げていた。
もし俺が、この惑星へ渡ってきた初期移住者の一人だったのなら。
ともに移住してきた仲間も、元いた星に残してきた友も、何百年も前にいなくなってしまったのだろう。
夜空はあれほど賑やかに彩られているのに、俺はなぜか、自分だけが一人ぼっちになったような気がした。




