第十四話 現代の科学知識?を使って、無双しました
腰が痛い。
原因は明白だった。
俺は現在、使われていないラボの準備室で寝泊まりしている。
部屋自体は広い。
机も椅子も棚もある。正体不明の実験器具も大量に置かれている。
しかし、ベッドだけがなかった。
仕方なく、昨夜は椅子を三脚並べて、その上に横になった。
寝返りを打つたびに椅子が離れ、二度ほど床へ落ちた。
「大学って、泊まり込みで研究する人とかいないのかよ……」
八時。
ほとんど眠れないまま、生物棟へ呼び出された。
◇
生物棟は、建物そのものが巨大な飼育施設になっていた。
透明な水槽や培養槽が何十列も並んでいる。
赤い菌糸を伸ばす植物。
岩のような甲殻を持つ虫。
水中で青白く発光する長い生物。
遠くの大型区画には、見上げるほど大きな原生生物まで収容されていた。
「ずいぶん集めましたね」
「生態系を理解するには、可能な限り多くの標本が必要だからね」
ソフィヤは楽しそうに答えた。
俺にとっては、危険な怪物の収容所にしか見えない。
まず、椅子へ座らされた。
腕を固定され、血液、唾液、髪、皮膚片を順番に採取される。
機械の先端には、やけに太い針がついていた。
「あの、これって本当に人間用ですか?」
「採取対象の体組成を自動判定する汎用機だよ」
「あの部屋で甲殻虫の血を抜いてませんでした?」
「よく見ているね」
否定してほしかった。
「これ、針は交換してますよね?」
「洗浄はされている」
交換しているとは言わなかった。
◇
次は能力の試験だった。
頭、胸、両腕へ何十個ものセンサーを取りつけられる。
目の前にある巨大な水槽には、銀色の光が無数に漂っていた。
ソウル・フライだ。
軍のキャンプで兵士たちを発狂させた、あの原生生物。
分厚い透明壁の中にいるとはいえ、落ち着かない。
「まずは、意思疎通の能力を使って」
ソフィヤが観測機器の前で指示する。
俺は水槽へ手を向けた。
「魂魄を束ねし神経共鳴――ソウル・シナプス・ハーモナイズ!」
銀色の群れが、一斉に動きを止めた。
次いで、俺の手の動きに合わせるように、水槽の中を左右へ移動する。
頭の中へ、単純な感情が流れ込んできた。
「興味深い」
ソフィヤが猛烈な速度で操作盤へ入力する。
「音声に反応した形跡がない。電磁波、熱、通常の化学信号でもない。神経活動だけが、発動時に外部へ拡張されている」
完全に楽しんでいる。
「次。威圧能力」
「これも正式名称を?」
「条件を揃えたい。完全詠唱で頼む」
研究のためなら、俺の羞恥心など存在しないらしい。
「万物を跪かせし絶対王者の威圧――キング・オブ・プレッシャー!」
水槽内のソウル・フライが、一斉に反対側へ逃げた。
銀色の群れが壁際へ折り重なり、小さく固まっている。
『それ、全部読み終える前に襲われない?』
ARIAが横から口を挟んだ。
短い髪を揺らしながら、面白そうにこちらを見ている。
「俺も最初からそう思ってる」
『短縮できないの?』
「情熱が足りないって怒られる」
『面倒くさい能力だね』
能力を作った本人に聞かせたい。
「ほかには?」
ソフィヤが尋ねた。
「対象を即死させる能力があります」
研究員たちの手が止まった。
「ほう」
ソフィヤの目が輝く。
「ただ、危険なので使えません」
「正式名称は?」
「デッド・エンド――」
そこまで言って、慌てて口を閉じた。
「おっと。この先は言わせない方がいい。今ここで全部読むと、何が起きるか分からない」
実際に危険だから言わなかっただけなのだが、周囲の研究員から生温かい目を向けられている。
「では、対象を用意しよう」
「使うんですか?」
「即死という現象を観測できる機会だ。見逃す理由がない」
ARIAが水槽へ手を向ける。
隔壁の一部が開き、ソウル・フライが一匹だけ細い管へ吸い込まれた。
それは机の上に置かれた小型ケースへ移される。
銀色の虫が、透明な壁へ何度も身体をぶつけていた。
「本当にやるんですか?」
「嫌なら中止してもいい」
ソフィヤは淡々と言った。
だが、俺自身も確かめたかった。
俺はケースの中のソウル・フライへ意識を集中させた。
「因果を断ち命脈を絶つ終焉魔眼――デッド・エンド・オブ・デス」
《対象を確認》
《生命活動へ干渉します》
銀色の光が消えた。
ソウル・フライは、ケースの底へ落ちた。
研究員たちが一斉に機器へ群がった。
「本当に死んだ……」
能力は機能している。
ヴェレスティンだけが、殺せなかった。
その事実は、安心材料にはならなかった。
「ほかには?」
ソフィヤだけは、もう次の実験へ進もうとしている。
「詩を読むだけの、しょうもない能力がありますけど」
「使って」
即答だった。
「研究価値はないと思います」
「それを判断するのは私だ」
正論だが、使いたくない。
『まあまあ。詩なら安全でしょ』
ARIAが笑う。
『聞いてあげるよ』
「後悔するぞ」
俺は小さく息を吸った。
「乙女に捧ぐ我が魂の絶唱――マイ・ソウル・フォー・ユー」
言葉があふれてくる。勝手に口が開いた。
「この手は何ひとつ救えぬというのに、なぜ人を救おうなどと思ったのだろう。
他人にかけられた鎖を断つこともできず、閉ざされた錠を外すこともできず、ただその前に立ち尽くすばかりの、この無力な手よ。
あの人を助けたいと願っていた。
それなのに今になって思えば――その扉に鍵をかけたのは、ほかならぬ私自身ではなかったか。
ああ、どうか。
ただ一度、誰かを信じただけの人を。
ただ一度、誰かを救おうとしただけの、善き人を。
どうか、その罪に数えないでください。
もしそのために閉ざされた扉があるのなら、その錠も、その咎も、すべて私にお与えください。
この世の形あるものが、いつかはすべて影となり、名も、姿も、記憶さえも、遠い幻のように失われてゆくというのなら――
どうか私も、その中へ。
この名を。
この記憶を。
この身を。
私というものを、何ひとつ残らぬほどに消し去ってください。
けれど。
もし消えずに残るものが、たったひとつでもあるのなら。
それだけは、どうかあなたのもとへ。
私が最後まで願っていたという、その祈りだけは。
たとえ私自身が、もうどこにもいなくなったとしても――」
悲しいわけじゃないのに、俺の頬を涙が一滴だけ流れた。
ARIAは、すっかり笑顔を失っていた。
俺の肩へ、そっと手を置く。
『もういいよ……エイユ。そんなに自分を責めなくても』
「俺が考えた文章じゃないからな?」
『わかってる』
信じていない。
「興味深い。発動中、記憶に関係する領域と、外部接続時に反応する領域が同時に活性化している」
ソフィヤは、ただ観測結果だけを見つめていた。
◇
実験が終わると、することがなくなった。
次の検査は翌朝。
それまで自由にしていいと言われたので、学院都市を歩いてみることにした。
中央図書館。
遊戯室。
食堂。
生物棟以外にも、天文、化学、機械、情報通信など、それぞれの分野に巨大な研究施設がある。
設備がすごいことだけは分かる。
何に使うのかは、一つも分からない。
回廊を歩いていると、白熱した声が聞こえてきた。
「この曲率には、明確な用途があるはずだ」
「携帯型の締結器具では?」
「いや。応力集中の位置がおかしい」
「宗教的な象徴物の可能性もある。古代の祭祀用具かもしれない」
喧嘩かと思ったが、研究者たちが議論しているだけだった。
机の中央には、錆びた金属片が置かれている。
俺も横からのぞき込んだ。
平たい金属板。
持ち手。
先端には丸い穴と、小さな突起。
「これは……」
見覚えがある。
研究者たちが一斉に俺を見る。
「何か知っているのか?」
「栓抜きです」
「センヌキ?」
「瓶の蓋を開ける道具」
沈黙。
誰も理解していない。
なるほど。
この世界には栓抜きがないのか。
ついに来た。
「まあ、見ていてください」
俺は得意げに金属片を持ち上げた。
机の上にあった瓶らしき遺物へ先端を引っかける。
軽く力を入れた。
ポンッ。
小気味よい音とともに、蓋が外れた。
研究者たちが沈黙する。
「…………」
「…………」
俺は瓶と栓抜きを掲げた。
「こう使うんです」
「すごい……」
女性研究員が、感嘆の声を漏らした。
「この突起を支点として、蓋の縁へ力を集中させるのか」
「極めて単純だ。だからこそ無駄がない」
「携帯性にも優れている」
「古代人は、これほど洗練された器具を日常的に使っていたのか……!」
周囲の学生たちが、きらきらした目で俺を見ている。
尊敬。
感嘆。
知識ある異邦人へ向けられる、純粋な憧れ。
来た。
これだ。
俺が異世界転生に求めていたやつだ。
「え? これ、そんなに珍しいものなんですか?」
「珍しいどころではありません!」
女性研究員の視線が、さらに熱を帯びた。
「構造は簡潔。量産も容易。日常生活への影響まで考えれば――」
「いや、そこまでのものでは」
「はぁ……もういいです。今からソフィヤ教授に報告して、特例研究者に登録してきます」
まずい。
話が大きくなってきた。
「待ってください。俺の名前は出さなくていいですから」
「では、ほかにも用途の分かる遺物はありますか?」
学生たちも、期待に満ちた目で俺を見ていた。
「まあ……いくつかなら」
この世界へ来てから、怪物に襲われ、異端扱いされ、命がけで逃げ続けてきた。
一度くらい、素直に褒められても罰は当たらない。
俺は集まった学生たちを前に、栓抜きを高く掲げた。
掲げてから、ふと気づいた。
――古代人?




