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第二話 話し合えば分かる相手ではない

死ぬほど恥ずかしい正式名称を叫んだ結果、頭の中に流れ込んできたのは言葉ではなかった。


飢え。


敵意。


そして――目の前にいる柔らかそうな生き物を、今すぐ引き裂いて食べたいという強烈な衝動。


あえて言葉にするなら、


〈コロス〉


〈クウ〉


〈コロス、クウ〉


そんなところだ。


「意思疎通って、会話できるわけじゃないのかよ……!」


もっとも、言葉が通じたところで状況は変わらない。


――こんにちは。俺を食べないでください。


――嫌です。食べます。


会話終了である。


巨大ヤドカリの一匹が鋏を振り上げた瞬間、頭の中に鋭い殺意が走った。


俺は反射的に地面へ伏せた。頭上を大鋏が通過し、風圧だけで髪が激しく揺れる。


あと一瞬遅ければ、俺の首は胴体と永遠の別れを迎えていた。


「ひっ……!」


俺は地面を這い、近くにあった岩の裂け目へ身体を滑り込ませた。


ガンッ!


背後で鋏が岩に叩きつけられ、赤い破片が頬をかすめる。


しかし、巨大な甲殻が邪魔をして、怪物は細い裂け目まで入ってこられないらしい。


息を殺していると、巨大ヤドカリたちはやがて興味を失い、一匹ずつ離れていった。


俺は岩陰から顔だけを出し、小声で唱えた。


「万象を見通す深淵の叡眼――アカシック・アナライザー」


言ってから、誰も聞いていないのに恥ずかしくなった。


視界の中央に、青白い文字が浮かぶ。


《命を刈り取る処刑鋏 デス・ハンド》


レベル:16

攻撃力:115

防御力:105

素早さ:4


岩石に似た甲殻と、巨大な鋏を持つ肉食生物。

縄張り意識が強く、非常に獰猛。


名前までダサい。


女神が命名したのだろうか。


比較のため、俺は鑑定の対象を自分に切り替えた。


《名前未設定》


レベル:1

攻撃力:5 (+0)

防御力:3 (+0)

素早さ:7 (+0)


保有恩寵:

《万象を見通す深淵の叡眼――アカシック・アナライザー》

《魂魄を束ねし神経共鳴――ソウル・シナプス・ハーモナイズ》


状態:脱水傾向/軽度の裂傷/著しい混乱


俺の攻撃力は五。相手の防御力は百五。


殴っても手が痛いだけだ。


どう考えても無理ゲーだった。


ただ、素早さだけは俺が七で、相手が四。足なら俺の方が速いらしい。


俺は岩陰から飛び出し、一目散に走った。


背後で鋏を打ち鳴らす音が響いたが、次第に遠ざかっていく。


どうやら、逃げ足だけは勝っていたらしい。


◇


まずは安全な場所を探すことにした。


この世界には仲間になってくれる存在がいると、女神は言っていた。


人間だとは、一言も言っていなかった気もするが。


俺は岩陰を縫うように進んだ。


地面には半透明の巨大な卵が群れ、その中で何かが動いていた。


見なかったことにする。


何時間歩いたのか分からない。


やがて荒野に枯れ木やまばらな草が現れ始め、空も少しずつ暗くなってきた。


喉が痛い。舌が上顎に張りつく。


鑑定結果の状態も、《脱水傾向》から《中度の脱水》へ変わっていた。


このままでは、怪物に殺される前に水不足で死ぬ。


そのとき、遠くに小さな明かりが見えた。


誰かがいる。


「……人か?」


期待した直後だった。


バババンッ!


乾いた破裂音が、荒野に響き渡った。


銃声だ。


怖い。


だが、怪物だらけの荒野を一人でさまようより、銃を持った相手に助けを求めた方が、まだ生存率は高い。


たぶん。


俺は姿勢を低くし、岩や枯れ木に隠れながら明かりへ近づいていった。


「くそっ! 汚らわしい怪物どもが!」


暗がりの中で、銃口が激しく光る。


黒っぽい装甲服の兵士たちが、長いダンゴムシのような怪物へ銃弾を浴びせていた。発砲のたび、銃身から青白い蒸気が噴き出している。


人間だ。


少なくとも、見た目はそう見える。


そう思った瞬間、横手の暗闇から何かが飛び出した。


犬とも狐ともつかない獣。全身を黒い棘に覆われ、口は耳元まで裂けている。


群れが兵士たちを左右から挟み込む。だが兵士たちは統率された動きで、一匹ずつ正確に撃ち抜いていった。


呆然と見つめていた俺の頭の中へ、獣じみた殺意が流れ込んできた。


一匹が包囲を抜け、こちらへ向かって走っている。


「万象を見通す……!」


正式名称を最後まで言う余裕はなかった。


《ヘル・デス・ドッグ 絶命魔犬》


レベル:23

攻撃力:70

防御力:42

素早さ:86


獲物を集団で追い詰める肉食生物。

現在の標的:あなた。


最後の一文はいらない。


分かっている。


逃げても追いつかれる。戦っても勝てない。


「あ、死んだか?」


デス・ドッグが地面を蹴り、棘に覆われた巨体が宙を舞う。


その瞬間。


遠くにいた一人の女性が、こちらを見た。


長い髪を一つに束ね、ほかの兵士より軽装の装甲服を身につけている。


彼女が静かに目を閉じた次の瞬間、その姿が消えた。


銀色の光が、俺の目の前を横切った。


宙にあったデス・ドッグの首が、音もなく胴体から離れる。


先ほどまで遠くにいたはずの彼女が、長いブレードを手に、俺の目の前に立っていた。


――あ。


これ、知ってる。


《刹那を超越せし虚空渡航――ゼロ・ディメンション》だ。


女性は切っ先を下げると、鋭い目で俺を見た。


「こんな場所で何をしている」


「えっと……迷子というか……」


自分でも驚くほど怪しい答えが出た。


女性の目が、さらに細くなる。


「名前は?」


名前。


当然、分かるはずだった。


だが、思い出そうとした瞬間、頭の中が真っ白になった。


「…………」


「名前を聞いている」


 答えられない。


 助けを求めるように、俺は自分のステータスを開いた。


《名前未設定》


 ……そうだった。


「えっと……」


 ブレードの切っ先が、喉元へ触れる。


「み、未設定です」


 女性の目から、表情が消えた。


「――拘束しろ」

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