第十二話 世界なんて救わない
雨は、いつまで経ってもやまなかった。
大粒の雫が木々の葉を叩き、赤い土を黒く濡らしていく。
服はとうに水を吸いきっていた。靴の中まで泥水が入り込み、一歩踏み出すたびに不快な音を立てる。
寒い。
転生した直後は、あれほど暑かったはずなのに。
今は指先の感覚すらなくなりかけていた。
俺は振り返らなかった。
振り返れば、まだ見える気がした。
雨に打たれたまま、木にもたれかかっているシアーダの姿が。
死体は仲間が回収する。土には埋めるな。
彼女はそう言った。だから置いてきた。
俺には、彼女を運ぶ力もない。
頭では分かっている。
それでも、見捨てたという感覚だけが消えなかった。
ぬかるみに足を取られ、俺は膝をついた。
両手を地面につく。泥水が指の間に入り込んだ。
立ち上がらなければ。
アカデミア統合理院。
ソフィヤという教授。
そこへ行けば、この力を調べてもらえる。
制御できるかもしれない。
あるいは、消せるかもしれない。
シアーダはそう言った。
もう誰にも利用されたくない。
だから俺は、ミリアに教えられた合流地点を捨てた。
セレスタには会わない。
緑環同盟にも行かない。
これでよかったはずだ。
なのに、歩き始めてからずっと、一人の顔が頭から離れなかった。
ミリア。
あの国では、機械を身体に入れただけで人が連行されていた。
そんな国で、聖女が異端者を逃がしたのだ。
無事でいられるとは思えない。
やめろ。
考えるな。
俺は頭を振り、無理やり立ち上がった。
別れ際のミリアの顔が浮かぶ。
必ず戻る。
俺はそう約束した。
彼女は、少し困ったように笑っていた。
戻れる保証なんて、どこにもなかったのに。
そのとき、ようやく思い出した。
俺には、聞ける相手がいる。
この世界へ俺を送り込んだ、自称女神。
この世界のどこかを見ているかもしれない存在が。
俺は足を止めた。
大きく息を吸う。
脳の奥には、まだ焼けるような痛みが残っていた。さっき限界を超えて力を使ったばかりだ。もう一度接続すれば、どうなるか分からない。
それでも構わなかった。
「《魂魄を束ねし神経共鳴――ソウル・シナプス・ハーモナイズ》」
雨音が遠のいた。
意識の奥へ、細い糸を伸ばす。
暗闇の中を探り、以前つながった場所へ手を伸ばす。
何かに触れた。
しばらくして、ひどく気の抜けた声が頭の中に響いた。
『なにー? またなんか用?』
寝起きのような、面倒くさそうな声。
いつもなら、少しくらい腹が立ったかもしれない。
だが今は、そんなことを気にする余裕もなかった。
「あのさ、頼みがある」
俺の声に何かを感じたのか、アレイシアが黙った。
『……なに?』
「ミリアが、あれからどうなっているか教えてくれ」
『ミリア?』
一拍の間。
それから、わずかに不機嫌そうな声が返ってくる。
『ああ。また、あの子の話?』
いつもの俺なら、ひょっとして妬いているのか、などと馬鹿なことを考えたかもしれない。
今はただ、その軽さがつらかった。
「頼む」
『……そんな声出されても』
「知ってるんだろ。お前、この世界の女神なんだから」
アレイシアは答えなかった。
いつもなら、聞いてもいないことまで喋るくせに。
能力の名前を自慢し、次に取るならこれがおすすめだと押し売りしてくるくせに。
その沈黙が、何より嫌な答えに思えた。
「ミリアは無事なのか」
『正直に言うと、分からない』
「分からない?」
『私は、この世界のすべてをいつでも見られるわけじゃない。分かることも、できることも限られてる』
「あんた、神なんだよな?」
『そう呼ぶなら、そうだけど』
「だったら、ミリアを助けてやってくれ」
また沈黙が落ちた。
雨の音だけが戻ってくる。
『……残念だけど、それはできない』
「なんでだよ」
『私が世界へ直接干渉できるのは、ごく限られた部分だけだから。っていうか、基本的には、あんたに関係するところだけ』
「なら、俺に関係してる。ミリアは俺を逃がして捕まったんだ」
『そういう意味じゃなくて』
「じゃあ、どういう意味だよ」
『私が何でもできるなら、最初から自分でやってる。わざわざあんたをこの世界へ送ったりしない』
もっともな話だった。
最初に会ったときも、彼女は世界を救ってほしいと言った。
自分で救えるなら、俺なんて必要ない。
分かっている。
それでも、納得なんてできなかった。
「ミリアは、生まれてからずっと、お前のために祈ってきたんだぞ」
『……は? 私のため?』
アレイシアの声が変わった。
困惑している。
本当に、何を言われたのか分からないようだった。
「あの国の人たちは、毎日祈ってた。ミリアだってそうだ。お前が本物の女神かもしれないって、俺の話を信じようとしてた。自分が危険になるのに、俺を助けたんだ」
『私は、何も約束してない』
「何?」
『私は、その子に祈ってほしいなんて頼んでない。人間は私のことなんてろくに知らないくせに、勝手に名前をつけて、勝手に性格を決めて、勝手に祈ってきただけでしょ』
その言葉には、悪意がなかった。
だからこそ、ぞっとした。
『だいたい私、そのミリアって子を知らないし。会ったこともない。親しくもない。知らない人に一方的に慕われたからって、何をしてほしいの?』
「助けてほしいに決まってるだろ」
『だから、できないって言ってるの』
「千個もスキルを作ったのに?」
『千三十二個』
「どうでもいい!」
思わず叫んだ。
鳥のような生き物が、雨の森から飛び立っていく。
「それだけ力があるのに、自分を慕って、心からすがってる人間のために使おうともしない。無事かどうか気にかけることすらしない」
『使える力と、できることは違う』
「やっぱり、神って人間の心が分からないんだな」
『……何それ』
初めて、アレイシアの声に傷ついたような響きが混じった。
『だから言ったでしょ。私は、人間が思ってるほど何でもできるわけじゃない。全員を救うことだってできないの』
「全員じゃない」
俺は両手を握り締めた。
爪が手のひらに食い込む。
「ミリア一人だ」
『一人なら救えて、千人なら救えないなんて話じゃないの。私には――』
「俺のせいなんだよ!」
声が震えた。
怒鳴ったはずなのに、最後の方は情けないほど弱くなった。
「俺が、ミリアについていったからだ。わけの分からない力を使って、ソウル・フライを追い払ったから。あの国で馬鹿みたいなスキルを使ったから。だから、何も知らないあの子を巻き込んだ」
喉が詰まる。
雨なのか涙なのか、自分でも分からないものが頬を伝っていた。
「怖いんだ」
『……エイユ』
「今、ミリアが部屋でどんな顔をしてるのか。ひどいことをされてないか。あいつらに殴られてるんじゃないか。拷問されてるんじゃないか。ひょっとしたら、もう処刑されてるんじゃないかって考えると……」
息がうまく吸えない。
頭の奥の痛みが強くなる。
視界の隅に、蜂蜜菓子を頬張るミリアが浮かんだ。
幸せそうに目を細めていた。
また一緒に食べに行けると思っていた。
「なんで、全部教えてくれなかったんだ」
『何を?』
「俺のことも、スキルのことも、この世界のこともだよ!」
何も思い出せない俺。
原生生物に通じる力。
ヴェレスティンには効かなかった即死能力。
「最初から全部教えてくれてたら、もっとましな結果になったかもしれない。俺だって、こんな行き当たりばったりで動かなくて済んだ。ミリアを巻き込まずに済んだかもしれない」
『それは……』
「お前は何も教えてくれなかった」
『あんただって、わかってるふりして、何も聞かなかった――』
「もう、うんざりだ」
力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。
泥の上に座り込み、顔を覆う。
「元の世界に帰りたい」
自分の口から出た言葉なのに、ひどく空虚に聞こえた。
元の世界。
それがどんな場所だったのかはおぼろげながらわかる。
しかし、誰が待っているのか。
そもそも存在する場所なのか。
思い出せない。
「なんでここなんだよ。なんで、元の世界じゃないんだよ……」
長い沈黙のあと、小さな声が聞こえた。
『……ごめん』
初めて聞く声だった。
女神でも、偉そうな妹でもない。
ただ、途方に暮れた誰かの声。
けれど、その一言で許せるほど、俺は立派ではなかった。
「この能力、何なんだよ」
血と雨に濡れた自分の手を見る。
「馬鹿みたいな名前して、叫ばなきゃまともに動かなくて。勝手に魔物を呼んで、大勢死なせて……それで、大切な人一人守ることもできない」
『それは……スキルのせいじゃないじゃない』
その言葉は正しかった。
分かっていた。
あのとき、ミリアの手をつかんで、強引にでも連れ出すことはできた。
教団へ残ると言った彼女を置いていくと決めたのは、俺だ。
安全な場所へ逃げてから助けに戻ればいい。
あのときは、そんな都合のいいことを考えていた。
ミリアの意志を尊重したつもりだった。
けれど本当は、彼女を連れて逃げる覚悟がなかっただけかもしれない。
分かっているからこそ、誰かのせいにしたかった。
「もういい」
『エイユ』
「俺は世界なんて救わない」
アレイシアが息を呑んだ気配がした。
「この馬鹿な能力も捨ててやる」
『待って。今のあんたは混乱してる。少し休んでから――』
「お前も、もうかけてくるな」
俺は、意識をつないでいた糸を切った。
『エイ――』
声が途切れる。
残ったのは、雨音だけだった。
しばらく、その場から動けなかった。
謝罪も、言い訳も、能力の押し売りも聞こえてこない。
頭の中は、驚くほど静かだった。
やがて俺は木の幹につかまり、立ち上がった。
アカデミア統合理院へ行く。
世界を救うためではない。
自分が何者なのかを、知るためだ。
◇
夕暮れの神殿は、いつもより静かだった。
少女は一人、大理石の上で膝を抱えていた。
「……知らないよ、そんなの」
答える者はいない。
しばらくして、少女は半透明の板を開いた。
千三十二の恩寵が並ぶ一覧。その一番下に、新しい項目を書き足しかけて、指が止まる。
名前の欄には、まだ何も書かれていない。
「ミリア、か」




