第八話 聖女様に愛の詩を捧げたら、異端認定されました
それからしばらく、俺は中央聖堂で暮らした。
食事を与えられ、信仰を学び、この世界について教わる。
軟禁生活とはいえ、荒野で怪物に食われかけていた頃と比べれば天国だ。
この世界の大半は、魔物の領域らしい。
種同士で殺し合うかと思えば、まるで違う種が群れを組む。一夜で大量発生したかと思えば、翌日には跡形もなく消えている。
要するに、予測不能。
人類も、いくつもの勢力に分かれ、協力と敵対を繰り返していた。
訓練と規律と武器で生き延びることを掲げる 軍事勢力グラディエン。
知識の拡大と、宇宙の原理の解明を追い求める アカデミア統合理院。
富と対価があれば、何でも手に入ると考える 企業連合。
この星の生態系を保護し、人類をその一員として組み込もうとする 緑環同盟。
個人という境界を捨て、人類を一つの生命へ統合しようとする 人民秩序共同体。
《神々の僕》は、人の尊厳と神々の秩序を重んじる勢力だった。
人間に代わる知性を創造すること。
精神を機械へ移すこと。
自らの肉体や遺伝子を、人のあるべき姿から大きく変えること。
そうした行為を、神の領域を侵すものとして禁じている。
それだけ聞けば、倫理を重視する穏健な思想にも思える。
ただし、違反した人間がどうなるのかについては、すでに一度見ていた。
その点は、なるべく深く考えないことにした。
◇
そうした話を教えてくれるのは、主にミリアだった。
聖典を開き、子供へ絵本を読み聞かせるような声で、古い聖人たちの受難や献身を語る。宗教の勉強など退屈だと思っていたが、彼女から聞く物語は不思議と嫌ではなかった。
「昔は、子供たちへ教えていたんです。子供は、分からないことがあると素直に聞いてくれますから」
「俺も結構聞いてると思うけど」
「エイユさんの場合、半分くらいは揚げ足取りです」
見抜かれていた。
異端や処刑について語るときの冷たい目を思い出すことはある。それでも、楽しそうに物語を読む彼女も、間違いなく本当のミリアなのだと思った。
◇
その日も、図書室で聖典を読んでいた。
夕暮れの光が高い窓から差し込み、長机の上を赤く染めている。
俺は開かれた頁の一節を、声に出して読んだ。
「たとえ灯が消えようとも、人の瞳に光があるなら、私はその傍らを聖堂と呼ぼう」
読み終えると、向かいに座っていたミリアが、わずかに目を見開いた。
「……それ、どういう意味か分かって言っています?」
「え? 神様はどこにでもいる、みたいな話じゃないのか」
「それは恋の歌です」
「恋の歌?」
「『あなたのそばにいられるなら、そこが私の居場所だ』という意味です」
知らなかった。
聖典に、そんなものまで載っているのか。
何気なくミリアを見る。
夕暮れの光が、彼女の柔らかな赤い髪を淡く透かしていた。
その瞬間、視界の端で文字が弾けた。
《新たなスキルを習得しました》
《乙女に捧ぐ我が魂の絶唱――マイ・ソウル・フォー・ユー》
「……また、ろくでもなさそうなのが来たな」
「何かあったのですか?」
「なにか覚えたみたいだ。ええっと、名前は――」
視界に浮かんだ文字を、そのまま読み上げる。
「《乙女に捧ぐ我が魂の絶唱――マイ・ソウル・フォー・ユー》だってさ。ダサいよな」
《対象の瞳を見つめ、魂を解放してください》
「待て。今のは説明しただけで――」
身体が勝手にミリアへ向き直った。
そして、俺の意思とは関係なく、口が開いた。
彼女の瞳を見つめると、魂から言葉があふれてくる。
「ああ、懐かしきかな。この聖なる殿堂を満たす、柔らかな黄昏の光よ。
名も知らぬ地に迷い、希望の雫だけをすすって生きる、甘く痩せ細った恋心よ。どうか今こそ、この胸を固くつかんで離さないでくれ。
粗末な壁も、古びた机も、祈りの跡が刻まれた床さえも、あなたがいるだけで満ち足りて見える。
この貧しさの中に、なんという豊かさがあるのだろう。
この閉ざされた聖堂の中に、なんという安らぎがあるのだろう。
たとえここが牢獄であったとしても――あなたが扉の内側にいるのなら、私はそれを祝福と呼ぼう。
ああ、聖なる人よ。
神の名を借りなければ、あなたを見つめることさえ許されぬというのなら、私は夜ごと祈りを捧げよう。
その祈りのすべてが、ただ一人――あなたに届くように」
図書室に沈黙が落ちた。
途中で止めようとした。
本当に止めようとした。
だが、口は最後まで朗々と愛の詩を読み上げ、その間、俺の目はずっとミリアを見つめ続けていた。
ミリアは、耳まで真っ赤になっている。
「待ってくれ。今のは俺じゃない。スキルだ」
「最後まで、ずっと私を見ていましたけど」
「発動条件だったんじゃないかな」
「そんな都合のよい発動条件がありますか」
ミリアは顔を隠すように聖典を持ち上げた。
いつもなら、ここで「その馬鹿馬鹿しい名前は何ですか」と言われるところだ。
今日は何も言わない。
聖典からのぞく耳だけが、まだ赤かった。
◇
しばらくして、ミリアはようやく聖典を下ろした。
「そういえば、エイユさんにお伝えすることがあります」
話題を変えたいらしい。
俺としても助かった。
「短い時間であれば、聖堂の外へ出てもよいと許可が下りました」
「本当に?」
「ただし、私が同行します。立ち入りを許されているのも、中央区画だけです」
それでも十分だった。
久しぶりに外を歩ける。
酒場や市場を見て回り、この世界の食べ物も試してみたい。
そこで、ふと思い出す。
鑑定で見たミリアの好物。
蜂蜜をかけた焼き菓子。
普通に誘えばよかった。
だが、愛の詩を朗読した直後の俺には、まだ妙な勢いが残っていた。
俺は椅子から立ち上がり、少し格好をつけて片手を差し出した。
「では聖なる人よ。あなたのために、この町で最も美味なる蜂蜜菓子を調べておこう」
ミリアが、ぽかんと俺を見る。
「我とともに、甘美なる祝福を味わいに行かないか?」
「…………」
急速に冷静になった。
「すみません。今のは忘れてください」
差し出した手を引っ込めようとする。
その前に、ミリアの指先がそっと触れた。
「……仕方ありませんね」
彼女はまだ赤い顔のまま、小さく笑った。
「そこまでおっしゃるのでしたら、お付き合いします」
「本当に?」
「ただし、妙な詩を読み始めたら置いて帰ります」
「気をつけます」
「それから、一つ訂正があります」
ミリアは俺の手から指を離すと、聖典を抱えて立ち上がった。
「町で一番おいしい蜂蜜菓子のお店なら、私が知っています」
その声は、ほんの少しだけ弾んでいた。
◇
外出の日。
ミリアと二人で、町の焼き菓子を食べに行く。
言い換えれば、デートである。
ただし、聖女が見知らぬ男と二人で歩いているところを見られれば、妙な噂が立つ。
最終的に、俺たちは別々に聖堂を出て、町で偶然出会ったことにした。
計画的な偶然である。
◇
待ち合わせ場所へ向かう途中、回廊でナディアと鉢合わせた。
「今日は外出の日でしたね」
その手には、鋼鉄製のケースがある。
ケースには半円の上に三本の尖塔を並べた、王冠のような紋章が刻まれている。
「その荷物は、何ですか?」
「新しい設備です。中央聖堂のものが古くなって、調整を任されていて」
「それで最近、忙しかったんですね」
「ええ。とても」
ナディアはケースを背後へ隠すように抱えた。
「それでは、楽しんできてください。ミリアにもよろしく」
笑顔だったが、どうも以前より少し冷たい気がした。
◇
城門近くの噴水広場で待っていると、しばらくしてミリアが現れた。
今日は白い法衣ではない。
淡い緑色の長衣に、赤い髪を隠すための白い布を巻いている。
「お待たせしました」
「いや、今来たところです」
言ってみたかった台詞だ。
「では、偶然お会いしましたね」
「そうですね。ものすごく偶然に」
二人で焼き菓子の店へ向かう。
少し離れたところでは、ギデオンとボアズがこちらを見張っていた。
尾行のつもりなのだろう。
二人とも巨大な体格に銀の甲冑なので、死ぬほど目立っている。
「あれ、護衛の意味あります?」
「私たちが襲われないという意味はあります」
尾行ではなく、単なる護衛だった。
◇
店に入ると、蜂蜜と焼けた小麦の甘い香りに包まれた。
注文したのは、丸い焼き菓子に蜂蜜をたっぷりとかけ、砕いた木の実を散らしたもの。
一口食べたミリアの目が、大きく見開かれる。
「おいしい……」
聖女らしい口調が消えた。
菓子を食べながら、ミリアは自分のことを少し話してくれた。
田舎の教区で生まれた彼女は、《特性化学》の才能を見出され、中央の研究機関へ進んだらしい。
「気づいたら研究員になって、気づいたら聖女になっていました」
「そんな軽い流れで聖女になるんですか?」
「私も、もう少し厳かなものだと思っていました」
「もしかして、転送ゲートも《特性化学》?」
「転送膜の安定化には、私の研究成果が使われています」
転送ゲート。
三万人を救った浄水技術。
目の前で蜂蜜菓子を頬張っている小柄な女性が、全部作ったらしい。
「どうかしてる」
「褒めています?」
「最大限に」
ミリアは少し照れたように笑った。
◇
店を出る頃には、空が夕暮れの色に染まっていた。
今日は楽しかった。
何かお礼をしたい。
そう思ったが、俺には金がない。
そもそも焼き菓子代もミリアが払った。
完全に奢られている。
「あの、楽しかったお礼に何か――」
視界の端に、見覚えのあるスキル名が浮かぶ。
《乙女に捧ぐ我が魂の絶唱――マイ・ソウル・フォー・ユー》
金がなくても、詩なら贈れる。
「詩はいりません」
先に断られた。
「では、次に外出するときは、俺が何か用意します」
「それでしたら、楽しみにしておきます」
次があるらしい。
その一言だけで、少しうれしくなった。
◇
中央聖堂へ戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
正面入口に新しい門型の装置が設置されている。
柱の表面では、青い光が上下に走っていた。
「これが、ナディアの言っていた検査機器かな」
「異端技術を検出する装置です。新しい機器は若干派手ですね。」
ミリアが答えた。
「機械式神経接続や、禁じられた遺伝子改変の反応を調べます。何もなければ、通るだけで――」
俺が門をくぐる。
ビーッ!
耳をつんざく警報が鳴った。
青かった光が、真っ赤に変わる。
《重大な異端反応を検出》
《対象を隔離してください》
「…………」
「…………」
俺とミリアは、顔を見合わせた。




