51✤昔みたいに
この川の水は、ただの水ではなかったのかもしれない。
息苦しさはない。
それでも、冷たくて、身を切るような孤独というのか、薄暗いものに押し潰されそうな感覚がした。
私をここへ閉じ込めたかったと言ったカーディフは、これで満たされるのだろうか。
暗い。
上では兄様が戦っているのに、静かだ。
こうして私がここに沈んでいても、舟で漂うロドリックとは会えないままなのだろうか。
どこまで行っても、独りだ。
『――いる――からね』
何かが聞こえた。
気のせいでなければ。
『――を――呼んで』
聞こえる。
そばにいてくれる。
私を、見守っている。
その名を、私は水底から呼んだ。
「サディアス!」
その途端に、大きな泡が私の体を押し上げるように浮かび上がってきた。
目を開けていられないくらいの眩しさで、固くまぶたを閉じると、浮き上がった私の体を横抱きにする腕があった。
「サディアス?」
今の兄様によく似た、整いすぎた顔でサディアスはにこりと微笑む。
「ミシェル、もう大丈夫だからね」
――ひどいことを言ってしまったのに、怒っていないのだろうか。
こうしてまた助けに来てくれた。
「サディアス! ごめんなさい、私……」
「うん、また僕の名前を呼んでくれて嬉しい」
美青年には似つかわしくない、無邪気すぎる笑顔を見せてくれた。
ここは水の中なのか、水面に出たのかよくわからなかった。私たちは泡の中にいる。
その泡の中から兄様とカーディフが見えた。私のせいで兄様は集中できなくて押されていたのかもしれない。
兄様は私が無事なことを認め、ようやく正面のカーディフに向き直った。
サディアスは私を下ろさず、そのまま兄様たちの戦いに目を向ける。
「――ミシェル、そろそろこの世界は終わるよ。そうしたらミシェルはもとの世界に戻れるから。でもね……」
私の方を見ないまま、サディアスは言った。
「帰っても、ぼくのことを覚えていて」
それは本当にささやかな願いだった。
サディアスが目を向けた先に、小さな舟が漂う。そこには人影があった。
そして、空に浮かぶ赤い月が突如砕けた。
飴細工のように、赤い欠片を降らせる。
そんな中、サディアスは私を舟に乗せ、大きく手を振って離れた。
――私が覚えているこの世界での記憶はそれが最後だった。
「――おい、ミシェル!」
再び私が目覚めたのは、あのオーズリー家の庭園だった。
私を揺さぶって起こしたのは、キリアンだった。目を開けると、ほっとしたような彼の顔が目に入った。
「キ、キリアン?」
「通りかかったらミシェルが倒れていたから驚いたよ。……ああ、急に起きない方がいい。具合が悪いなら運ぶから」
空を見上げると、青い月が昇っている。
ここは間違いなく私たちの世界だ。
私は売り払ったはずのドレスや装飾品をそのまま身に着けていた。
――あれは全部夢だったのではないか。
目覚めると、そんなふうに感じてしまう。
だって、すべて馬鹿げている。
私が魔法使いで、使い魔がいて、兄様が王様で、それから――ロドリックと和解して、お互いを愛しく思って。
あり得ないことだらけではないのか。
それでも、私の胸の中にある気持ちだけは変わらずに残っている。
「ロドリックは?」
座り込んだままの私から、彼の名前が飛び出したことにキリアンも戸惑っているふうだった。
「え? ロドリック?」
あの世界が終わったのなら、ロドリックも戻っているはずなのだ。
呪いに囚われていなければ。
顔を見るまで絶対とは言えない。
それが怖くなる。早く顔を見なくては。
キリアンの手を借りず、自力で立ち上がる。
その時、向こうから誰かが駆けてくる足音がした。
「ミシェル!」
余裕のない表情で髪を乱しているロドリックは、私と旅をした記憶を持つ彼なのだとすぐにわかった。
私は、自分の心が命じるまま彼の胸に飛び込んだ。
ロドリックは躊躇いなく私を抱き留めてくれた。
「ねえ、あなたは本物のロドリックなんでしょう? 私と旅をしたことを覚えている?」
「うん。言ったろ、ミシェルが忘れても俺は忘れないって」
耳元でささやく。その声は労りに満ちていた。
「――あの後、呪いを受けて舟で漂っていたら、鳥になったサディアスが来たんだ。ずっとうるさくて、でもそうじゃなかったら、あんな何もないところを漂っておかしくなってたかもしれない」
私がサディアスを拒絶した後、サディアスはそれでもずっとロドリックについていてくれたのだ。
私のために――。
サディアスにとって、私と兄様と、どちらの絆も確かなものだったのだ。
忘れないでと言ったサディアスの気持ちを、私はずっと抱えていこう。感謝と共に。
――犬猿の仲であるはずの私とロドリックが人目もはばからず抱き合い、私は涙まで流している。
この状況を説明できる人はほとんどいない。ただ皆が驚き、好奇の目を向けてくるばかりだった。
それでも、この時の私たちにはどうでもいいことだった。
「こっちに帰ったら大事な話があるっていうのは――つまり、俺と婚約してほしいって言いたかったんだけど。それから、昔みたいに呼んでほしい」
「喜んで。ロディ、これでいいかしら?」
懐かしい愛称を、気持ちを込めて呼ぶ。
そうしたら、彼も満足そうに笑った。
「ありがとう、ミシェル。この世界でもミシェルのことを全力で守るから」
抱き合う二人に拍手を送ったのは、兄様だった。
いつになく堂々と、穏やかな目をした兄様がそこにいる。
もう、私が心配することは何もないのだと思った。




