44✤インクが滲むように
しばらく抱き合ったままでいた。
そんな二人を変わらずに舟は運んでくれている。波もない水面の上で漕ぎもしないのに進んでいくのが不思議だった。
こうして舟に乗っていて思う。
この世界に二人で来たのは、嵐の中でひとつの舟に乗っているのと同じことだ。二人、協力し合って嵐を乗り越えなければ生きられない。
だから、そんな困難に見舞われた者同士が惹かれないはずもない。
この世界に来た時点で私たちが惹かれ合うことは定まっていたのかもしれない。
どんな因果でこうなったのかは知らないけれど。
「あのさ、元の世界に戻ったらミシェルに話があるんだけど」
私の顔を見ないまま、ロドリックが言った。
「今言えばいいじゃない」
まだ時間はある。むしろ、ここは静かで邪魔が入らないのに。
それでも、ロドリックは納得しなかった。
「いや、ちゃんと帰ってからにしたい。大事なことだから」
「……わかったわ。じゃあ、向こうで話して」
「うん」
あまりにも長くこうしていたから、多分サディアスは怒っているだろう。
気を利かせてあげたけれど、それにしても長いと。
いい加減にしないといけない。
私は名残惜しい気分にもなりつつロドリックの腕を解いた。
そんな時、水面が揺れた。
「えっ?」
かなり大きく舟が揺られたのだ。風もないこの水辺で。
そして、薄紅色をしていた水面からインクが滲むようにしてじわじわと黒色が浮いてくる。美しかった理想郷が濁っていく。
それは私たちの不安もかき立てた。
「なんだ、これ……」
水は闇に染まり、空も暗かった。急に暗雲が垂れ込める。
そんな私たちの舟からそう遠くないところに暗い影が浮かんでいた。
水面の上に足をつけずに立ち、不思議と沈むことがない。黒いローブがふわりと翻る。
私はロドリックの肩越しに黒い影――カーディフを見つけ、悲鳴を上げそうになった口を押えた。
ロドリックも機敏に振り返り、私を背に庇う。
魔物を作り出すカーディフは、彼自身も人ではないのだろうか。
それとも魔法使いは、魔法の力で水面に立てるものなのか。
カーディフは暗い中で白抜きになったように見える口元を綻ばせた。
「ここまで来てしまったんだね」
私はサディアスを呼ぼうとしたけれど、その前にカーディフが続けた。
「君が王に会うのを防ぎたいと言ったのに。仕方がないね、この水辺に眠ってもらおうか」
元の世界にも戻れず、この暗い水の底に沈めと。
そんなことを受け入れるわけにはいかない。絶対に嫌だ。
私はロドリックと一緒に帰る。
強い意志を持って私はカーディフを睨みつけた。
「嫌よ。私は王に会って元の世界に戻るの。邪魔をしないで」
カーディフは虚無そのもののようにしばらく私たちをぼうっと見ていた。
本当に、彼の中には何もない。そう感じてしまう。
人である以上、育った過去や人との繋がりから来る感情があるはずなのに、彼の中にはそれを感じない。
ただそこに、物のようにして存在する。彼をそうさせるのはなんなのだろう。
「駄目だよ。僕は王の敵だと言ったはずだ」
王の敵。
人々を害する敵を作り出す。
けれど、なんのために?
王を困らせるためなのか、王座を奪いたいがためなのか。
そのところが伝わらない。カーディフには欲が見えない。
どう表現するのが適当なのだろうか。
王が光なら彼は闇、王が希望なら彼は絶望。
相反する存在なのだろう。
カーディフが手をかざす。私は力いっぱいサディアスを呼んだ。
「サディアス! 来て‼」
けれど、サディアスが戻る前に黒く濁った水は私たちの舟を押し上げる。
舟は転覆するのではないかと思うほど大きく揺れ、そんな中でロドリックは私を抱きしめながら舟縁につかまっていた。
そこで鳶ほどの大きさの白い鳥になったサディアスが飛来した。
「ミシェル! このまま舟で逃げるよ!」
「お願い、サディアス!」
速度を上げた舟は大きな手のようになって襲いかかる水から逃れ、靄の切れ間が見えて光が差した。
「あそこが出口か……!」
ロドリックのほっとしたような声がした。
――けれど、安心するのは早かったのだ。
私たちの舟をカーディフは完全に捕えた。水が私たちを引きずり込むように船の中に入ってくる。
その色を見た途端、否応なしに恐怖心が増す。そんな私をサディアスが励ましてくれた。
「しっかりして、ミシェル! 大丈夫だから、振り払って!」
この闇色に負けないよう心を強く持とうとした。私に触れる黒い水は弾かれ、消える。
ただし、それは私に限ったことだった。
近くでゴホッと咳き込む音がする。




