43✤ふたりの舟
私たちを乗せた舟は静かに、押し出されるように進んでいく。
相変わらず靄はかかったままだけれど、ぼんやりとした風景が変わっているのはわかった。ちゃんと動いている。
谷間の岩壁が切れると、その先に広がっていたのは広い湖のような場所だった。あまりにも広いからそう思えるだけで、ここも川なのだろうか。
ただ、不思議なことに水面が薄紅色をして見える。空はほんの少しの青味を足して薄紫色に。昼間でもうっすらと見える月のせいだろうか。とても幻想的な眺めだった。
ロドリックも私と対面で座りながら空を眺めている。
そよ風も吹かない。暑くも寒くもない。本当に夢の中にいるような気分だった。
「本当にここは不思議なところだな」
「ええ、そうね」
私も風景に見惚れていて気の利いた言葉も出なかった。
けれど、気がついた時にはロドリックは空ではなくまっすぐに私を見ていた。それは戸惑うほど真剣に。
「……どうかした?」
ごまかすように言ったけれど、ロドリックの表情が切ない。
ドキドキと私の鼓動が速まる。
すると、ロドリックは小さく笑ってからつぶやいた。
「いや……。もうすぐこの旅も終わるんだろうなって」
それを残念そうに言う。まるで終わらせたくないみたいに。
「だって、帰れなかったら困るでしょう?」
私は何を緊張しているのだろう。自分でもよくわからなかった。
ロドリックの方が落ち着いて語っている気がした。
「うん。俺は跡取り息子だから、絶対に帰らないといけない」
彼の家は旧家で、ロドリックは一人息子だ。つまり、彼がいなければ家が絶えてしまうことを意味する。
ロドリックが絶対にと感じているのは当然だろう。
この時私は、ロドリックに期待しすぎていると思った。彼が私の期待通りのことを言ってくれるとは限らないのに。
帰りたくないと、ミシェルともっと一緒にいたいとでも言ってほしかったような。その落胆を自分でも馬鹿だと自嘲した。
彼は、それがどんなに苦しくても私と離れようとも、帰る方を選択しなくてはならない人なのに。
「お父様がお待ちでしょうね」
当たり障りのない言葉を返すと、ロドリックは目を伏せてうなずいた。そこには何か私の知らない想いがあるようだ。
「母が死んで、父には後添えをもらう話がいくつも上がっていたんだ。……でも、その時の俺はまだ子供だったから、何も考えないで感情のまま、他の母親なんて要らないって言ってしまったんだ。そうしたら、父は本当にすべての話を断って今も独り身だ。成長するにつれて、俺も自分の言ったことの責任を取らないといけないってわかった」
「それは……」
「父が後添えをもらわなかったから、俺には兄弟がいない。俺一人に家と領地がかかってる。父にも寂しい思いをさせた分、期待外れの息子でいちゃいけないし」
子供だったから仕方がないとか、そんなふうには言えないものなのだろうか。
ロドリックは変なところで融通が利かない。
戸惑う私に向けてふわりと微笑む。
「ミシェルを傷つけたあの発言だってそうだ。いつでも、言葉は自分に返る。過去の誤った行いを正すのは未来の自分だからな」
――とんでもなく嫌なヤツだったはずの彼は、裏を返してみればこんなにも誠実だった。
何か急に泣きたいような気分になった。
「もういいの。あの発言に関しては許してる。……この世界に来て、あなたはいつでも私のことを守ろうとしてくれたから」
私の肩が震えているせいか、ずっと黙っていたサディアスが急に鳥になって飛び立った。
「あー、もう! ちょっと飛んでるね!」
二人の空気に耐えられなくなったのだろうか。サディアスは靄に紛れてしまった。
そんなサディアスを見送り、ロドリックは声を立てて笑った。
「いても気にしないけどな」
「……私が気にするからでしょ」
ぼやいたら、ロドリックは柔らかい表情で私を見つめた。
「この世界でミシェルと一緒に過ごせてすごく楽しいんだけど、俺はどうしても帰らなくちゃいけないから。ミシェルだって元の世界に帰るんだろ?」
「当たり前でしょう? 私にだって家族はいるの。この世界に残るつもりはないわ」
「兄さんのため?」
これを言った時だけ、以前の少し皮肉な表情を見せた。けれどそれは妬いているようにも感じられた。
「それだけじゃないけど」
ロドリックがいるところに私もいたい。
なかなか言葉に出して言えないから、目で気持ちを伝えるように彼の目を見つめた。
気持ちの欠片くらいは伝わっただろうか。
「……なあ、ミシェル」
「何?」
精いっぱい、目を逸らさないようにしていると力が籠る。そんな私は不格好なのだろう。
ロドリックは出し抜けに言った。
「俺はもう、今までミシェルに感じていたような気持ちではいられないんだ。ごめん」
目を見開き、言葉を失う。
この様子をロドリックはどう思っただろう。
――意地ばかり張って、素直に心を開かなかったのだから、こんな言葉に傷つくのが勝手だとわかっている。
それなのに、胸が痛くなった。
ちゃんと応えない私に、いつまでも気持ちを向けてくれるわけがなかったのだ。
急に目の前が暗くなって、雨粒みたいな涙が零れそうになるけれど、平気なふりをしたかった。泣くのは私らしくない。
そう思ったのに、ロドリックは優しく続けた。
「嫌われていてもいいなんて思えない。好かれたいし、見守るだけでいいとか言えない。ミシェルのことを諦めるなんて、もう考えられないってことなんだけど、いいかな?」
この男はわざとやっているのではないのか――。
腹立たしさも感じつつ、それでもほっとしたのと、嬉しいのと、いろんな感情が入り乱れてやっぱり涙が零れてしまった。
「何よ、それ……っ」
「ごめん、泣かせるつもりじゃなかったのに」
ロドリックが動いたら舟が揺れた。
それでも私に近づき、大きな手で私の顔を包み込むと零れた涙を親指で拭った。
「泣いてない」
これはびっくりしたから零れたのであって、泣きたいわけではない。
素直に認めない私に、ロドリックは苦笑していた。
許可を取らずに私に触れる。
もうこの時点で私の気持ちは隠せていないのだとわかった。
「……私があなたを好きだって言ったら、信じる?」
「もちろん。ミシェルは嘘がつけないから」
憎らしい笑顔で言われた。
私も、ここまで来たら腹をくくって微笑んでみせた。
その途端にロドリックが私を抱きしめる。不安定な舟がグラグラと揺れた。
「愛してる」
耳元でささやくその声が全身に染み入る。私自身がこの人を求めているせいだ。
好きでも嫌いでも、どんな時でも、ロドリックは私にとって誰よりも特別だった。
「私も」
そう答えてロドリックの背に腕を回す。それからキスをした。
想いを確かめ合うにはそれが必要なことだと思えたから。
私は目を閉じながらも、直前に見た水面に映る月をぼんやりと思い浮かべた。




