34✤忘れられない
この時は私も疲れていて、休めるところがいいとだけ思っていた。
けれど、転移後の着地に失敗したらしい。
不幸中の幸いで倒れ込んだ場所は柔らかく、背中が痛むことはなかった。ただし、一緒に飛んだロドリックが私の上に重なるように落ちてきた。
「っ!」
潰されはしなかったものの、また顔がとても近くにあって、さっきのことを思い出してしまった。
多分ロドリックも同じだ。私から目を逸らし、慌てて起き上った。
――どうやらここは馬小屋のようだ。
藁がたっぷり敷かれていて、その上に落ちた。
サディアスはどこだろう。もう鳥は嫌だとばかりに違うものになっているのかもしれない。
私がゆっくり起き上ると、ロドリックは何か言いたげにしつつも私が姿勢を正すのを待っていた。それはいつもの彼と変わりないように見えた。
「……あなた、あのレクシーって人に暗示をかけられていたんでしょう?」
私が彼の顔を見ずに問うと、ロドリックが藁を踏みしめる小さな音がした。
「暗示というか、頭の中をかき回されているみたいな状態で……」
それに抗っていたと。
ぼうっと座っているように見えたけれど、ロドリックなりに必死だったのかもしれない。
「頭の中でずっと彼女の声がするとか?」
「それもあるけど、これまで俺がずっと彼女と愛し合って過ごしていたみたいな、経験してもないことが実体験とすり替えられる感覚で。……ミシェルといた時間が消えてしまいそうだった」
それをロドリックが実感していたのなら、いきなり全部を塗り替えられたわけではないようだ。
こうして話している分にはロドリックは何も忘れていないように見える。
彼なりに自分の記憶を守ったということなのだろうか。
不意にロドリックが顔を上げた。馬小屋には明かりはないけれど、互いの顔はよく見える。
だから、ロドリックがどれほど真剣な目を私に向けているのかがわからないわけではなかった。
「でも、俺が好きなのはミシェルで、あの女じゃない。だから、ずっとミシェルのことを考えて抵抗していた」
「……さっきのアレは私とレクシーを間違えたわけじゃないのね?」
これを言ったら、ロドリックが目を見張った。
「間違えるわけない! あの時はミシェルが今、俺の目の前にいるわけがないと思ったんだ。だからこれは現実じゃなくて夢なんだなって、その……」
ここで私が赤面したのを、ロドリックはどう思っただろう。
夢の中で行ったつもりのことなら、それは彼が抱えている願望だ。
自分よりも私の心を尊重してくれているだけで、本当はもっと私に触れたいと考えているということ。
こんなふうに男性に求められたことがないから、その重みに戸惑うしかない。
そんな私の様子は、ロドリックから見て嫌がっているように感じられるのだろう。
「もうこれ以上嫌われたくないのに。泣かせるつもりなんてなくて……ごめん。その、代わりと言ってはなんだけど殴っていいから」
殴っていいらしい。
多分、ロドリックは真面目にこれを言っている。
――昔。
子供だった頃に、泣いている女の子を慰めるロドリックを見かけてしまった日。
私はなかなか寝つけなかった。どういうわけだか、あの女の子が傷ついていないといいなんて優しい気持ちにはなれなくて、そんな自分が嫌で眠れなかった。
だから、私はあの日見かけたことを忘れるように努めた。そして、そうこうしているうちにロドリックとの仲は拗れた。
子供だった私は、多分少しくらいは期待していたのだ。ロドリックが私を好きでいてくれるのではないかと。
それが、ロドリックは私を悪し様に言うほど嫌いだったのだと思い込み、どうしようもなく傷ついた。
どうしてそんなことを言ったのだと問い詰めれば、ロドリックはきっとすぐに謝ってくれた。これほど仲違いが長引くことはなかったはずなのだ。意固地な私が長引かせた。
幼い私の心はズタズタになっていて、もう一度ロドリックを信じる勇気を奮い起こせなかった。簡単に許せないほど私の悲しみは深かった。
私にとってもあれは初めての恋だった。それをずっと認めなかったけれど。
「……目を瞑って」
歯を食いしばれとまでは言っていないのに、ロドリックは目を閉じると歯を食いしばった。次に来る打撃に備えている。
その様子には少し笑ってしまった。
今の私は、子供の頃と同じように彼のことを好きなのだろうか。
そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。
まだこの曖昧な気持ちを深堀するのは避けたいと思ってしまう。せめてこの旅が終わる頃には結論を出したいとは思うけれど。
ロドリックの形の良い額をぴしゃりと軽く叩いた。
するとロドリックが恐る恐る目を開けた。拳か平手かのどちらかが飛んでくるはずだったのに、この程度で済んでしまったのだ。
あまりにもロドリックが戸惑っていて可笑しい。彼をこんなふうに慌てさせるのは楽しかった。
「……次が本番?」
「あなた、そんなに私に殴られたいの?」
「い、いや、だって……」
「あれは正気じゃなかったんでしょう? もういいから、お互い忘れましょう」
そういうことにしておいた方がいい。
でないと私の方が困る。
今はまだ結論を出せない私が。
多分、この取り決めをロドリックは不服とした。それが顔に出ている。ただため息をついた。
「俺が悪いんだし何も言えないけど、ミシェルが忘れても俺が忘れるのは無理だ」
「無理って言わないで」
「言うよ。だって忘れたくないし」
そんなことを言ったかと思うと、ロドリックは私の耳の辺りに大きな手を伸ばした。私がギクリとしても、手を引かない。
「好きな子とキスして、どうやってそのことを忘れられるんだ?」
目を逸らさずに、まっすぐに想いを伝える。
この人は本気で私のことが好きなのだ。ロドリックが変わらずこちらに向いていることに私は甘えている。
素直になれない私でも、ロドリックは好きでいてくれるのか。
「調子に乗らない!」
その手をパチンと叩いて怒ってみるけれど、どうせ赤面している私に迫力なんてない。ロドリックは嬉しそうに声を立てて笑った。
「ごめん。でも、好きなんだ」
「……っ」
「今まで、言えなくて拗れたんだ。もう気持ちは隠さない」
優しい目が微笑んで、愛しげに私を見ている。
それが落ち着かなくて、私は助けを求めたくなった。
「……サディアスはどこかしら?」
目を逸らし、自分の心音を落ち着けようと努める。長い髪がカーテンのように私の顔を隠してくれてよかったと思った。
「さあ。鳥だったし飛んでるんじゃないか?」
私があからさまに話を逸らしたことに気づきつつも指摘しない。
追い詰めてはいけないと思っていてくれるのだろうか。少しほっとした。
「いないと困るでしょ」
「だよね!」
藁の間から白いネズミがズボンと音を立てて出てきて、私はのけ反りそうになった。
「サ、サディアス……」
「お前、いつからいたんだ?」
ロドリックの問いかけに、サディアスはネズミなのにニヤリと笑ったような顔をした。
「さあねぇ。いつからだと思う?」
ずっとだとか言われたら恥ずかしい。慌ててサディアスを止めた。
「もう言わなくていいわ。ねえ、ここはどこ?」
「馬小屋」
「そうじゃなくて、どこにある馬小屋?」
「アップルヤードよりも東だね。王都までの距離はあんまり縮んでないかも」
そこでロドリックは少し考え込んだ。
「あのベリスって領主やレクシーは、いなくなった俺たちを追ってくるんだろうか?」
ベリスは私が王の客人だから丁重に送り届けると言った。その客人が急にいなくなったのならやはり探しているだろうか。レクシー嬢もロドリックに執着するなら追いかけてくる可能性もある。
「どうかなぁ? ぼくたちの進み方ってかなり不規則だから、追いかけるの難しいかもよ」
「ああ、本当ね……」
あちこち転移していて、こんなふうに進んだり戻ったりしている。まっすぐな道を行っているわけではないのだ。追う方としても厄介だろう。
そうしていると、馬の蹄の音がした。私たちはハッとして顔を見合わせる。この馬小屋の持ち主が帰ってきたのかもしれない。




