第92話 『壱天』
それはイディ山越えを開始してしばらくが経ち、休憩のために設置させた天幕で一息ついた時のことだった。
ドドドン、と僅かな地揺れと共に、低く響く大きな音が聞こえた。
「な、何事だ!」
父上の慌てた声が天幕で響く。
くっ。父上は鍛錬を怠っておられる。
バウティスタ家の者として恥ずかしいとは思わないのか。
敵襲の可能性のあるこの状況で”身体強化”も使わず、サングラスをかける様子すらない。
近くにいる数人もそうだ。
他の者は全員、不審な音が聞こえた瞬間には臨戦態勢になっているというのに。
当然私もすでに"身体強化"と"思考強化"をかけ、サングラスを身につけている。
「「「敵襲! 敵襲ー!!」」」
すぐに、あちらこちらから敵襲を告げる声が聞こえる。
「お早く、せめて身体強化を。これでは様子を見に外へ出向くこともできません」
『壱天』フランシス・バシラシビリが、溜め息をつきながら首脳陣に声をかける。
そのとおりだ。
即座に戦闘態勢をとった者が首脳陣を囲み護衛している形だが、首脳陣が戦闘態勢を整えてくれれば数人は外の様子を見に外れることができるだろう。
数人が様子を見に行っている間、我々も外に出て警戒をしつつ、手早く天幕を片付けた。
片付けられる余裕が、なぜかあった。
バタバタしているのは我が兵だけで、襲撃があったにしては静か過ぎる。
索敵にも何も引っかからない。
少なくとも、敵は近くにはいないのだ。
報告は、様子を見に行った者が帰ってくる前に、すぐに来た。
「報告! 兵糧が…、兵糧が…、焼かれました!!」
大の大人が、泣きそうな表情で報告を行う。
何ということだ…。
2万の兵を養う兵糧だぞ。
「索敵は何をしていたぁぁ!!」
父上が額に青筋を浮かべて伝令兵を叱りつける。
「ま、魔力索敵の範囲外から、魔法を撃たれました。圧倒的な速度と貫通力に、探知してからの防御魔法では、容易に貫かれて…」
伝令兵は項垂れながら、仔細を語った。
魔力索敵で魔法を感知した後すぐに必死に守り抜こうとしたようだが、そこにいた者が僅かな時間で作り出した防御魔法でどうにかなるような魔法ではなかったらしい。
しかし、いったいなぜ、索敵の外という遠い距離から正確に兵糧の位置が分かったのだ?
魔力索敵でも生物索敵でもない広範囲の索敵を、敵は持っているのか?
「大きな痛手ですが、兵糧の運搬を3つに分散させておいて幸いでしたな…」
軍師が苦々しい顔でそう口にした時、私はふと嫌なことを思い出した。
最初の大きな音は、ほぼ同時に3つ聞こえた気がする。
「ほ、報告…!! 兵糧が…」
私がまさかと思ったその時、嫌な予感を裏付ける2つ目の伝令が駆けつけて来た。
「ひょ、兵糧が、戦ってもいないうちから、全滅…」
その後すぐに3つ目の伝令もやってきて、さらに様子を見に行った者が帰ってきたことで、首脳部には重々しい空気が流れていた。
誰が呟いたかは分からないが、心の内は全員同じだろう。
兵糧なしで戦う? 無理だ。無謀すぎる。
「父上、撤退いたしましょう。この状況で戦うのは無理です」
私は将軍である父上に撤退を進言した。
「撤退だと? スタンよ、バカなことを言うな。今戻れば、戦わずに敗戦だ。そんなことができるはずがない」
「しかし、こんな状況で戦えば、大きな犠牲を出した上での敗戦となります! そんなことになれば…!」
「負けると決まったわけではない! それに仮に負けるとしても、戦わずに敗戦より、戦って敗戦の方が良いのだ。お前はまだ子供だから、分からないだろうがな」
父上の言葉に、私は唇を噛み締めた。
血の味がする。
子供だから分からない? それを言われればお終いではないか。
せめて理由を、理屈を話せ!
「父上!」
「そこまでにしておきなよ、坊っちゃん」
『壱天』が私の襟首を掴んで、下がらせる。
「何をする!」
「説明が欲しいんだろ? 僕がしてあげよう」
青い髪の美青年は私を小馬鹿にしたように笑って、そう言った。
「警戒は、良いのか?」
「僕が視ているからね。問題ないさ」
集団から少しだけ離れたので聞くと、あっさりとした答えが返ってきた。
『壱天』の神に愛された能力『刹那』は、"思考強化"と同時に使うと全てが止まったかのように遅く見えるのだとか。
その上、自分はその中で普通に動ける。
凄まじい能力だ。
「さて、スタン坊っちゃん。君は国と民を第一として考えている。そうだろう? 前提が違うのさ。首脳陣は、自分の利を第一として考えている」
「それがどうした? そんなことは分かっている。分かりたくはないがな…」
前に父上と話したとき、それは痛感した。
「もし、戦わずに敗戦となった場合、首脳陣は責任を問われ、糾弾されるだろう。もう表舞台に立つことはできないかもしれないね」
「それはそうだろう。仕方のないことだ」
私がそう言うと、『壱天』はフンと嫌味に鼻を鳴らした。
「そこだよ。仕方がないとは、思わないのさ」
「どういうことだ?」
私は話の流れが読めず、聞き返した。
「戦って敗戦した場合、首脳陣は責任を問われるだろうが、おそらく大きく糾弾はされないだろう。戦うしかなかった、戦うべきだったが力及ばなかった、戦って良かった、そのように話を持っていきやすい。上手くいけば、表舞台にも残れる」
「バカな! そんなことのために、民を危険に晒すのか!」
理由と理屈は分かった。が、道理に合わない。
私は声を荒らげた。
「それが大人の、政治の世界というものなのさ、坊っちゃん。貴族たる者、早く覚えた方がいい」
「ふざけるな! 覚えてたまるか!」
怒りが込み上げてくる。
徴兵された多くの民達は、こんなふざけた貴族の都合で、腹を空かせて死地に放り込まれるのか。
「まぁ、いいさ。僕は説明しただけだ。ああ、そうそう。もう1つ。無理をしても、勝てば全て首脳陣の手柄になる。そして結局、戦争には勝つ。僕がいるからね」
キザな言い方で自信満々に語った『壱天』は、その夜、毒殺された。
「オレ達も暗殺は得意なんだよね」
以前のセイ・ワトスンの言葉が、聞こえた気がした…。




