第一部 第8話 はじまりの鐘 トウキョウ・ノクターン
トウキョウ・ノクターン。
夜想曲の名を持つこの街は、ネオンと影が絡み合う、眠らない街。
その一角にある古びた喫茶店。
片隅の壁掛けテレビが、砂嵐混じりのニュースを流していた。
音量は小さく、ナレーターの淡々とした声が店内のざわめきに溶け込んでいる。
『速報です。十五年前、日神山一帯で発生した≪隕石落下≫について、新たな映像が
公開されました。
専門家によると当時の衝突は、山林火災の被害だけにとどまったとのことです』
画面には、夜の山肌を赤く染める炎と、黒煙が映し出される。
その一瞬――カメラの端を、白く鋭い閃光が横切った。
まるで、誰かがわざと挟み込んだ“瞬き”のように。
『……環境保護の観点から、この区域は現在も政府の管理下に置かれ、
一般人の立ち入りは固く禁じられています』
テロップの下に映るのは、関係者立入禁止の看板とフェンス、その奥で揺れる緑。
どこか静かすぎる映像は、何かを覆い隠しているようにも見えた。
だが、カウンターの客は誰一人として気に留めない。
コーヒーをすすり、スマホをいじり、隣のテーブルの恋愛話に笑い声を上げる。
この≪ニュース≫は、日常に混じったただのBGMでしかない。
まさか、あの山の出来事が、自分たちの日常に牙を剥くなど――
誰も思っていないのだ。
――カラン。
ドアベルの音とともに、外の喧騒が入り込む。
街路樹に吊るされたライトが、昼間のように舗道を照らし、
人波は川のように流れていく。
通りの両脇には、ネオン看板が瞬き、ショーウィンドウには派手なポップが踊る。
遠くでストリートミュージシャンが軽快なビートを刻み、路上販売の声がそれに被さる。
誰も、自分以外に興味はない。
誰がどうなろうと、関係などない街だ。
くたびれたTシャツとジーパンの男が、爪を噛みながら、
落ち着きなく往復していた。
その背中には、数えきれない敗北の重みがのしかかっている。
仕事の失敗、家庭の崩壊——
背中にまとわりつく影は、もはや自分の一部のようだった。
「……お待たせしました」
闇の奥から現れたのは、アタッシュケースを持つスーツ姿の男。
その声は静かで、冷たかった。
「……金は先払いだったよな……」
「お金ならここに……」
アタッシュケースがわずかに開き、中身の影がちらつく。
「……その金で俺はやり直すんだ。失ったものがきっと戻ってくる……」
Tシャツ姿の男の拳は震えていた。また爪を噛む。
「……おい、金を見せろ」
「では、ご確認ください」
「これで、この金があれば、また家族に、麻里と健に会いに行ける!
許されるんだ!
ははは!」
そう言いながら両腕を上げて喜ぶ男の前で、ケースの口が開かれた。
次の瞬間——黒い何かが噴き出した。
蜂の群れにも似た黒い粒子が渦を巻き、男の全身に纏わりつく。
悲鳴は、刹那。
路地裏を抜ける前に飲み込まれた。
何かに纏わりつかれたまま、黒い塊と化した男は――
ゆっくりと歩き出し、来た道を消えていった。
スーツ姿の男もまた、振り返らず、アタッシュケースを手にして
闇の奥へと消えていった。
このやり取りは、ほんの数分——十分にも満たない。
闇はすべてを覆い隠してしまった。
――だが、
その現場を、遠くから双眼鏡で見ている者がいた。
「……胞子群か…?」
銀色の長髪と白衣の裾が夜風に揺れる――鉄鎖と呼ばれる男が呟いた。
「……ん?」
彼はあることに気付き、先ほどの裏路地から双眼鏡を向かいのビルに向けた。
眼前に映る――ビルの上には、闇に紛れて一人の男の姿があった。
その男もまた、裏路地の一部始終を見ていた。
緑の髪を後ろで一つにまとめる、見目麗しい男が――独り。
十五年前、日神山の事件を生き残った――男。
「……神邨弌。やはり、君が鍵か……」
鉄鎖の瞳には、研究者の好奇心と、捕食者の執着が同居していた。
その視線に気付いたのか――
弌もまた、顔を上げた。
互いの視線だけが、夜気を挟んで交差する。
弌は静かに、闇に紛れて姿を消した。
神邨弌、綴喜鉄鎖——
――まだ、彼らの運命は交わらない。




