第6話 道標はクラシック ―― 呼び声はモーツァルト
もうすぐ……夜が明ける。闇は去り、光が世界を包む時間がやってくる。
それなのに――先ほどまでの、安寧は感じられなくなっていた。
丘の上は、すでに異様な静寂に包まれている。
先程、聞こえ始めていた――虫の声も、梢を揺らす風も、
また息をひそめて消えてしまった。
ただ、ひび割れたスピーカーから流れているかのような、
クラシックが聞こえてくるだけだ。
遠く――丘の上から。誰かを呼ぶように。導くように――。
弌は、母から聞いたことがあった。
――モーツァルトは、
祖父の介山かいざんが「胎教にいい」と
笑って流していた旋律だそうだ。
赤ん坊の頃、耳元で聴きながら眠ったそうで、
幼いながらその音は記憶に残っている。
我が家には確かに――クラシックが流れていた。
ああ……そうだ
靄もやのかかった記憶が、やっと晴れた気がした。
記憶の断片が蘇る。
幸せだったころの家族の記憶。
『……なんで、こんな場所で……?』
胸の奥がざわつく。
安らぎと、不安が入り混じった感覚。
それでも、足は止まらない。
誰かが――
僕の名を呼んでいる
ずっと……
一歩、一歩が重い。
血と汗が混ざった一滴が、地面に落ちては滲み、消えていく。
それが、今夜失われた――命のようで弌は胸が痛んだ。
やっとの思いで、丘の頂まで来ると、
やはりそこには、地獄のはじまりの――あの時と同じように、
銀色の機体《area9》が口を開けて鎮座していた。
昨夜と、何も変わらない。
既に、祖父の遺体も無いが、不気味さは残ったままだった。
謎の天体調査のために、エアリスと飛び立った時の希望の象徴は、
二年という年月で何があったのか、損傷が酷く、
そして、降り立つや否や、あの殺戮により大量の血にまみれ、
目の前の——今の姿は、悪魔の住処のようにも見えた。
「……いるのか?」
クラシックはいまだ――船内から聞こえ続けている。
弌は導かれるように、足を踏み入れた。
船内は薄暗く、煙るような霧が漂っていて視界が悪いものの、
ところどころ電力がまだ通っているのか、
辛うじてオレンジ色の非常灯が点いている。
灯りを頼りに、壁沿いに手をついて、ゆっくりと進んでいく。
傷んだ壁、天井、床。この中で、争いがあったことは否定できない。
コクピットを探す。
進んでいくと、モニターが数台ある部屋に出た。
数台あるモニターは割れていたり、画面が真っ黒になっていたりして
機能していないものばかりだったが、小さな一台だけが、青白く光を放っていた。
零れ落ちた荷物をどけて、そのモニターを、引っ張り出す。
そこに表示されていたのは、五つの積載ポットだった。
五つのうち、四つは赤く表示されており、
「Not Available」利用不可と書いてある。
しかし、そのうち一つだけ、緑色で表示されていた。
「凍結……ポッド?」
弌は声に出したつもりだったが、掠れた呼吸音しか出なかった。
何が……凍結されているんだ?しかも、『使用中』になっている。
これだけ荒らされているのに、
このポッドだけは正常に機能しているということになる。
奇妙だ――
不意に、祖父の最期の言葉が脳裏を過ぎる。
『……脅威を……消して……く……れ……弌——』
その瞬間、船内に流れるクラシックが……モーツァルトが止まった。
非常灯も明滅を始める。
そろそろ、本当に、この船にも終わりが迫っているのかもしれない。
弌は、凍結ポットの位置を確認し、その場所に向かうことにした。
壁に寄りかかりながら、腹を押さえる。
身体の芯が安定しない。
そうしないと、内臓を吐き出してしまいそうで怖かった。
ゆっくりと進む。
そうして、区画を一つ進むと……
青緑色に光る凍結用のポッドを見つけた。
低音が響いている。やはり、まだ稼働しているようだ。
わずかな振動ではあるが、内臓をやられている弌にとっては、
それさえも身に染みた。
吐血。
堪えきれなかった血を、拳で拭き取る。
いよいよ、視界が霞んできた。
「……もう少しだけ、もってくれ……頼む」
弌は左手で腹を、右手で壁を押さえながらポッドに近付いていく。
凍結ポッドは卵型をしており、
その表面の一部は特殊加工のガラスがはめ込まれている。
中が見える構造になっているのだ。
そのガラス面の部分に、なぜか幼い頃の弌自分の写真が貼り付けられている。
大きく両の腕を開いて、にっこり笑っている。
写真に写る自分を見つめて、皮肉めいたことを思ってしまう。
この時の自分は——まさかこんな未来が待っているだなんて、
微塵みじんも疑いはしていなかっただろうと。
「なんで……ここに僕の写真が……」
見れば見るほど気になった。
ボロボロになった機体に反して、写真は美しく、鮮やかだった。
幼い頃の弌。
その指紋すら見えるほど鮮明で、不気味なほど綺麗に残された自分の写真。
写真の裏にメッセージでもあるのだろうか?
ゆっくりと剥がす。
すると
ドンッ
鈍い衝撃が、ポッドの内側から走る。
目の前の特殊強化ガラス面が、内側から叩かれた。
恐る恐る、中を覗くと…
ポッドの内側に信じられない光景が見えた。
青白いポッドの中で、妹が何かを叫んでいる。
声は聞こえない。
こんな分厚い装甲なのだ、聞こえるはずがない。
それなのに、はっきりと妹の声が、弌には聞こえた気がした。
まるで脳に直接、話しかけられているかのように。
「何なんだよ……」
驚きのあまり、思わず、弌はガラス部分に触れてしまった。
弌の指が触れた瞬間——機械音がこう答えた。
――ロックを解除します。 ご注意ください――
続いて、船内に機械音が鳴り響く。
「!!?」
弌はハッとした。
先程のガラス面は、中を見るための窓としての役割だけでなく、
ポッド開閉のためのタッチパネルの操作盤でもあったことに気付いたのだ。
だが、時すでに遅し。
目の前で、無情にも解除されてしまった凍結ポッドのハッチがゆっくりと開く。
操作を止める間もなく、ハッチは開いていく。
その証拠に、冷気は否応なしに外に漏れ出し、辺りの温度は下がり始めた。
冷気が白い煙となって広がり、すでに弌の足首から下は見えない。
まるでドライアイスの煙が広がるように辺りの床は、一面、真っ白になった。
冷気の中から、静かに聞こえ始めたのは……
モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の旋律。
そして、祖父・介山の声。
『……弌……』
『すまない……。
わたしたちは、戻らないと決めた。
この脅威と共に、宇宙で終わると』
途切れ途切れの声。
だが、そこに迷いはなかった。
『それでも……お前たちを、生かしたかった。
黎沙れいさを、弌を……未来に、残したかった』
一瞬、声が震える。
『この箱は、開けてはならない。
だが……もし……お前が、ここまで来てしまったなら』
短い沈黙。
『……それは、わたしたちの敗北だ』
音声は、そこで途切れた。
白い煙が、弌の視界を塞いでいく。
介山の開こうとした――未来を閉ざしていくように。
ハッチがゆっくりと開き切る間……弌の唇は震えていた。
自分が犯した罪が――今、はっきりと浮き彫りになったからだ。
自分を呼んでいたのは、祖父ではない。
サイラスでもない。
妹でもなかった。
この悲劇の中で、唯一、弌が理解したのは、
自分が――パンドラの箱を開いてしまったという事実。
『おにいちゃん』
白い煙の中から、声がして、その少女は現れた。
愛おしい、たった一人の妹。
その唇がもう一度、動き――
『おにいちゃん』と――呼ぶ。
その甘い声が脳裏に響いた瞬間、弌の心臓が冷たく跳ね上がった。
安らぎではない。それは、鋭利なカミソリでなぞられたような、
決定的な「違和感」だった。
弌の脳は、瀕死の状態にあってもなお、
残酷なまでに冷静な演算を止めていなかった。
屋敷で、あるいは脱出機の中で。
黎沙が自分をどう呼んでいたか。
記憶のデータベースが、瞬時に正解を弾き出す。
(——違う)
黎沙は、僕を「おにいちゃん」とは呼ばない。
彼女が僕を呼ぶときは、いつだって、弾けるような笑顔と共に
「いっちゃん」だったはずだ。
目の前のソレは、弌の脳から「兄と妹」という概念だけを読み取り、
もっともらしい記号を再生しているに過ぎない。
祖父が遺したポーチの中身——
その小型銃の構造を、握った瞬間に理解してしまったのと同じように。
弌の天才的な感性は、この「呼び名の違い」という一点から、
目の前の存在が妹の皮を被った「敵」であることを、誰よりも早く確信していた。
(……偽物め)
その瞬間だった。
弌の瞳から、迷いが消えた。
絶望に沈んでいたはずの緑の双眸に、冷徹な殺意が宿る。
弌の脳裏に、ひとつの作戦が浮かんだ。
確実に、その「核」を撃ち抜くための作戦が。
それは、大切な妹を、思い出を、これ以上汚させないための、弌の賭けだった。
弌の身体が、ふらりとバランスを崩し、一歩だけ――前進する。
触手の届く、死の領域に入る。
次の瞬間——
黎沙の身体から飛び出した苔むした触手が、一直線に弌の胸を貫いた。
その触手は、抜けないほど深く弌の胸に刺さる。
がはッ
弌は大きく血を吐いた。
痙攣する弌の身体。
シュルッ……
黎沙の容姿をしたソレは、触手に大量の鮮血を帯びながら
弌の身体から触手の先を引き抜こうと勢いをつけて大きくしならせる。
触手の刺さった、弌の身体は宙に浮きかける。
だが――
何が起きたのか――それは一瞬の出来事だった。
弌の腕は触手を絡めとり、物凄い力で、凍結ポッドから本体を引きずり出した。
そして、勢いそのままに、反動を使って――地面に思い切り叩きつけた。
「……ざまあみろ」
言葉には、なっていない。
しかし、そう言っているかのように。
弌は、血だらけの美しい顔でにやりと笑っている。
反撃開始だ。
立ち上がった瞬間、視界が暗転しかけた。
それでも、足だけが前に出た。
ポーチから取り出したのは、小型の容器、
それは小型銃にも見える。
――注射器型の銃インジェクター。
屋敷でポーチを開けたとき、それはただの『用途不明のガジェット』に見えた。
だが、血にまみれた手でそれを握り直したとき、幼い頃に祖父と交わした会話が、
雷に打たれたように蘇る。
『いいかい弌、構造は意志だ。
形を見れば、製作者が何をさせたがっているかが見えてくる』
弌の瞳が、精密機械のように小型銃の機構をなぞった。
安全バーの位置、薬品の流路。マニュアルなどいらない。
彼は今、亡き祖父の思考と同期していた。
震える手を必死に固定して、安全バーを外す。
むき出しになった薬品が噴き出す切っ先を、
地べたで転がる触手に思い切り突き刺した。
ソレは痛みを感じるのか、身をよじりジタバタと本体が暴れまわる。
弌は、爪がはがれても、触手を決して離さない。
おぞましい何かがのたうち回り、
三メートルほどある濃い緑色の粘土のような塊から、別の触手が生え出た。
生え出た触手は、一直線に弌めがけて進んでいく。
そして、彼の右胸の皮膚を切りつけた。
新たにできた傷口から鮮血が噴き出す。
それでも、弌は祖父に託された注射器型の銃インジェクターを決して離さない。
たとえ、身体中の血液が流れ出ても——
今、自分にできる精一杯を為す。
これを、元凶に打ち込みきるまでは、自分の身体を切り刻まれても決して離さない。
もう——これは、信念だ。
妹の傀儡かいらいから―――悲鳴のようにドロドロとした赤黒い体液が流れ出る。
その体液は、弌をその傷ごと飲み込んでいく。
薬の目盛りは、あと僅かだ。
体液で埋まる視界に構わず、弌はトリガーに力を込める。
カチッ…
すべての薬品が出切った音がした。
やった……
膝が崩れ、床に倒れ込む。
身体中から、すべての血液が流れ出てしまったのではないか……
そう思えるほど、力が入らない。
まるで自分の身体ではないみたいだ。
動けと命令しても、体は動かない。
傷口から、冷たいものが弌に流れ込む。
熱と寒さが同時に全身を駆け巡る。
異物が血液に溶け込み、身体中を侵していく——
耐えがたい嫌悪が、内側からせり上がる。
けれど
床に張り付いた身体は動かない。
辛うじて機能しているのは——左目だけ。
薬品を打ち込まれた塊は——
目の前で白くひび割れ、ゆっくりと腐っていく……。
だが、その触手の一本は、なおも、弌を掴んで離そうとしない。
弌の頭の中には——
声が、聞こえ続けていた。
——これは、死おわりではない——
弌の唇がかすかに動いた。
「……黙れ」
大切な家族を奪われ、さらには、その姿をいたずらに使われた。
弌の怒りに、底などない。
「……お前だけは絶対に許さない」
「消す、必ず――」
その怒りが弌を突き動かす。
弌は、ズボンの右ポケットに手を入れる。
指が触れたのは、小型の発火装置。
妹の傀儡と弌は――ゼロ距離。
そして弌の服は――
油を含んでいた。
――燃えるのは、僕でいい。
自らを火種にすれば、対象に十分な致命傷を与えられる。
大切な妹の姿を、弄ぶ存在に――弌の怒りは頂点を超えた――
弌の綺麗な緑色の瞳が、一瞬、赤く瞬き――
まるで、誰かの色に染まるみたいに――
その指が、着火スイッチに伸びる。
その刹那——
「弌!」
沙羅の叫び声が――空を切る。
弌は、その声に弾かれ、我に返る。
指が止まり、瞳が緑色に返る。
『 沙羅を守る――約束だ 』
サイラスの声が聞こえた気がした。
視界に入った彼女の顔は、涙と汗と血に汚れている。
その瞳は、かつての純粋な輝きではなく、怒りと覚悟の炎に染まっていた。
沙羅は銃を握り、弌を掴んでいた触手を撃ち抜く。
火花が散り、異形の断末魔が船内に響いた。
だが、沙羅はそれを振り返らない。
「もう終わりよ……!」
彼女は弌を肩に担ぎ、全速力で《area9》の内部を駆け抜けた。
背後で何かが崩れ落ちる音、船体を軋ませる悲鳴、そしてまだ消えないクラシックの旋律。
それらが混ざり合い、悪夢のような残響となって耳にまとわりつく。
外に出た瞬間、夜明けの光が二人を包み込んだ。
弌が意識を失う前、
最後に――その脳裏に浮かんだのは、愛しい妹・黎沙だった。
彼女は、笑顔で振り返り、弌にこう言った。
『いっちゃん、だいすきだよ』と。
******
丘の下では、政府の特殊部隊が到着していた。
その先頭に立つのは、今回、政府の全権を握ってやってきた雲津国屋 耶雲。
「……酷い有様だな」
雲津国屋は沙羅の背の弌を一瞥し、手を上げた。
「医療班、搬送だ」
担架が運ばれ、弌はその上に寝かされる。
全身から流れ出る血は止まらず、呼吸も浅く弱い。
沙羅は必死に言葉を投げかけた。
「この子を……お願い。絶対に死なせないで!」
雲津国屋は沙羅の言葉に、小さく頷いたが、その瞳は弌を見つめ、
何かを推し量るように細められていた。
あえて心に浮かんだ疑問を彼は何一つ、言葉にはしなかった。
ただ、わずかに唇を歪め、命令を飛ばす。
「——残りはすべて焼却しろ」
「待ってください!」
沙羅はその指示にハッとして雲津国屋の前に出た。
「これは彼の家族です!せめて埋葬を――」
雲津国屋の視線が冷たく沙羅を射抜いた。
「……埋葬?」
雲津国屋は、一拍だけ置いた。
「必要ない。すべて――消す。それだけだ」
「そんな!」
「君の恋人のことも……
それとも、恐怖の記憶として人々に残すか?」
「!」
沙羅は爪が食い込むほど、拳を握る。
その彼女とすれ違いながら、
雲津国屋耶雲は表情一つ変えずに、指示を出し続ける。
「ただし、記録は回収しろ。残骸は焼却。
――ここで見たものは、存在しなかった」
冷静で、冷たい声。
夜明けの空に、炎が上がる。
――雲津国屋 耶雲……
彼の言葉通り、炎が丘を染めた。何一つ、残さず。
《area9》の残骸も、屋敷も、サイラスも、そして弌の家族の亡骸も――
すべて、灰となって空に散った。
沙羅はその場に膝をつき、焼ける匂いの中で目を閉じた。
弌がこの状況を知ったら、どう思うだろう。
もう、戻らない。
何もかも……すべて失ってしまった。
火の粉が宙に舞い上がっていく。
彼らが生きていた証のすべてが、灰となって空に消えていった。
誰も——それを止めることができない。
雲津国屋は燃えさかる炎を背に、低く呟く。
「絶対に死なせないで、か……。
……神邨弌……
さて、彼は、ここで生き残って、果たして幸せなのだろうか……」




