第5話 真の脅威 ―― area9 パンドラの箱は鍵を待っている
夜明け前の山には、静けさが戻っていた。
戦いの緊張感も消え、時折、ただ風が葉を揺らす音だけが聞こえる。
あまりにも穏やかで、つい数刻前まで、ここで流れた血の匂いと悲鳴が幻だったように思えた。
——だが、これが夢や幻ではないことは明らかだった。
それは、弌自身が身をもって理解している。
彼の体は、もはや、少しでも、体を動かせば吐血してしまうほど、疲弊していた。
息をするのもやっとの状態だった。
あれから沙羅が、関係部署への連絡を済ませてくれた。
後は、静かに救助を待つだけだ。
それが自分たちにできる唯一のことなのだと、弌はぼんやりと考えていた。
これからのことを少しだけ――考えてみた。
おそらく、病院に行って、入院することになるだろう……。
生きているだけでも……信じられない状態なのだから。
それから……
弌はゆっくりと、視線だけ、動かした。
視線は広間に向けられた。
愛する家族の亡骸が横たわる……あの広間に。
胸が苦しい。呼吸が上手くできない。
瞳を閉じると、焼き付いた光景が広がる。
母の頬にこびりついた血、父の腕の冷たさ、そして黎沙の細い指。
すべてが、二度と温もりを取り戻さないのだと、弌に非情な現実を突き付けてくる。
悔しさと悲しさと、不安で押しつぶされそうな16歳の少年の瞳には大粒の涙が、
そして、何度も噛みしめた唇は――痛々しく、真っ赤に腫れ上がっていた。
弌の手には、血染めの小さなポーチが握られている。
祖父・介山の血液を吸った、このポーチが何なのか……
分かっているのは、祖父は息絶える最期の瞬間まで、これを守り、そして——
それを弌に託したということだけ。
中身は……何かの薬品が入った小型の器具。
それと、用途の分からない小さな記録媒体が一つ。
祖父は最期に、ただ――
『脅威を、消してくれ』と言った。
ならば、これを使うしかない。
それだけが、弌に残された選択だった。
同じ部屋の――別方向から、呟きが聞こえた。
「……帰ってきたら、結婚するって……約束していたのにね………」
そう呟いた沙羅の声は掠れていて、弌には、ひどく幼く聞こえた。
成人しているとはいえ、沙羅もまた、こんな酷い現実を受け入れられるほど大人ではない。
瞳はうつろで……どこを見ているか分からなかった。
彼女はサイラスの体を抱きしめたまま、離そうとはしなかった。
沈黙の中……二人は、それぞれ、愛しい人と最期の時を過ごしていた。
そのときだった。
――あの……曲が聴こえた。
弌の耳にだけ
――モーツァルトの旋律。
いつも我が家で流れていたクラシック。
それは、音楽に精通していた祖父と母の影響が大きい。
優しい思い出が蘇る。
弌の脳裏に巡る映像は、先ほどまでの残酷な映像ではなく温かいものだった。
祖父がバイオリンを、母がピアノを演奏し、それを父が微笑みながら聴いている。
そして…
妹・黎沙の笑い声と拍手……
『《《おにいちゃん》》』
耳元で囁くような声。
確かに聞いた。
ハッとして顔を上げる。
黎沙の声が聞こえた。
その声が、背骨を這い上がるように感じ、
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
ぼやけていた視界が晴れていく。
晴れた視界の先に、映るのは……
――《area9》が鎮座する丘。
窓から見えるそれが、弌の心を掴んで離さない。
まだ何かが、あそこにはあるのか?
手に握られた――祖父のポーチ。
《area9》に――何かが。
まさか……そんなはずはない。
行かなくていい。
それに、もはや、行ける身体ではない。
頭のどこかで、もう一人の自分が言う。
でも、それをかき消すように
『弌……』
自分を呼ぶ父と母の声。
『弌』
祖父の声。
そして……
『わたしは……ここだよ』
弌の脳に直接、語りかけてくる。
妹――黎沙の声。
それは、弌にとって、甘く、優しく。
とても魅力的だった。そして、同時にとても残酷だった。
瞳を閉じて、弌は自分に問う。
『真実を知る――覚悟はあるのか?』と。
そして……ゆっくりと瞼を開く。
弌は、左手で祖父・介山の残したポーチを握りしめた。
右のポケットに、硬い感触——自作の小型発火装置。
服には、油の匂いが残っていた。
小さく頷くと、弌は立ち上がり、その足は迷いなく動き出していた。
広間に横たわる家族を背にして、音もなく、エントランスに出る。
身体は、とうに悲鳴をあげている。
けれど、玄関の扉を開けて外に出た。
見上げた、その先に広がる草原と、
《area9》が鎮座する丘が視界に入ったとき――
弌は、またあの感覚に陥っていた。
——それしか見えない——
そのとき、すでに弌の口からは、鮮血が流れ出ていた。
口の中も鉄の味でいっぱいだったに違いない。
しかし、それにすら気付けないほど――彼は夢中だった。
丘の上で自分を呼ぶ「何かの存在」を確かめずにはいられなかった。
これは――純粋な好奇心なのか、後を託された使命感からか
いや、すべてを奪われた復讐心なのか――
彼は静かに歩き出していた。
自分の――運命に向かって。




