第4話 最愛の人――ヒトの成れの果て それでも愛は消えない 本郷沙羅
弌の意識が落ちたのを確認すると、沙羅は呟いた。
「今度は私が、覚悟を決めなきゃ……」
青白く光った刃を最愛の人に向けたまま、間合いを詰める沙羅。
サイラスの喉元へ突き出している。
いつでも刺せる。
そう警告しているのだ。
一瞬、二人の視線が交錯する。
サイラスの口元が、歪んだ笑みに吊り上がった。
刹那。
サイラスも、死の境界線に踏み込んできた。
キンッ
金属がぶつかるような衝撃音。
沙羅の刃は、サイラスの腕で受け止められていた。
人間離れした筋力が、彼女の腕を軋ませる。
「サイラス……やめて……!」
沙羅の声は震えていた。
その呼びかけに応じるかのように、
かつての彼の面影が一瞬だけ瞳に宿った――が、
すぐに深い闇がそれを呑み込む。
「……あたしを忘れたの……?」
その問いは、血の匂いに満ちた夜の中では、
あまりにもか細い蜘蛛の糸でしかなかった。
サイラスは答えない。
代わりに、もう一方の手で彼女の首を掴み、持ち上げた。
沙羅の足が宙を蹴る。
呼吸をする権利を奪われ、視界の端が暗く染まっていく。
沙羅は腰のホルスターから小型の短剣を抜き、サイラスの手首に深く突き立てた。
抉るように刃を引くと、黒い液体が血と混じって飛び散る。
サイラスが苦悶の声を上げ、掴んでいた手を離す。
サイラスの手が離れ、
地面に落ちた沙羅は転がるように距離を取り、すぐさま戦闘態勢に入る。
だが、その瞳は明らかに揺れていた。
「……お願い 戻ってきてよ!」
その一言は、決して敵に向ける声ではなかった。
サイラスの動きが、鈍る。
わずかに止まる。
「サイラス!私よ!」
しかし、次の瞬間
彼は再び、彼女の声など忘れたように猛獣と化して飛びかかってきた。
その顔は、既にサイラスではなかった。
バァリィィ——
嫌な不協和音がして――
彼の顔の皮膚は、見るも無残に真っ二つに引き裂かれ、
その中から食虫植物のようなうねる茎が数十本も、
まるで巨大なミミズの大群のように生え出た。
「っひ!」
沙羅の喉から短い悲鳴が上がる。
婚約者の突然の異変も、狂暴性も、醜いその有様も、
そのすべてが、沙羅の心を抉り続ける。
もう、これ以上、私の大切な人を傷つけないで。
苦しませないで。
沙羅の目には、愛しいサイラスが、泣いているように見えた。
自分の身体を、いいように弄ばれて――
「どうしたら……いい? どうしたら……サイラス……私……」
頭では分かっている。
サイラスの息の根を止めるべきだと。
だが、まだサイラスがいる。
沙羅の声に反応する
『サイラスが――』
何か――手があるかもしれない――
その想いが、その可能性が
ナイフを握る沙羅の心に迷いを生み、判断を鈍らせる。
化け物と化した彼は、迷いを許さない。
彼女が決断に――迷った刹那
咆哮が上がり――
「ぐががががっががが」
台地が揺れた。
赤黒い瞳のサイラスが、
沙羅に向かって唾液を垂らしながら突っ込んできた。
「しまっ……」
烈火のごとく突っ込んできたサイラスは、
サバイバルナイフを握る沙羅の手を掴む。
沙羅は、必死にもがくが、彼の膨れ上がった――
大きな両手は、彼女の手ごと掴んで離さない。
ナイフを握る彼女の手――
サバイバルナイフ
それは、凶器となり
そして――
グザァッ
深々と、胸に突き立てられた。
さらに、込められた力により、
刃先は――皮膚の奥に深く深く埋まっていく。
肉を絶っていく嫌な感触だけが、手に伝ってくる。
まるで時が、停止しているかのように思えた。
音は――聞こえない。
見えるのは――真実だけ。
サイラスは、笑っていた。
沙羅は、泣いていた。
サイラスの胸には、深く深くサバイバルナイフが刺さっている。
「さ…――――ら――――」
夜風に、名前を呼ばれた気がした。
沙羅は、顔を上げる。
そこには自分の愛する人の――
面影など全くない――
ヒトだった何かが立っている。
でも、彼女は今、愛で満たされていた。
血が、熱い涙のように彼女の頬を伝う。
サイラスの指先が、
微かに震え――力を失う。
そして、彼の手が、ゆっくりと、彼女の手から離れた。
やがて、彼の体は沙羅の腕の中に静かに倒れ込む。
月光に照らされたその顔は、
収縮をはじめ、うねっていたものは姿を消し、
ほんの一瞬だけ、本当に刹那――
かつての穏やかな――彼の顔に戻って見えた。
あの頃の、優しい寝顔……それが見られた気がした。
沙羅は息を殺し、何度も何度も小さく
「ごめん……ごめんね……ごめんなさい……」
そう呟く。
彼の体をそっと地面に横たえた。
髪を撫でながら、――不意に気付く。
自らの手が、赤黒く染まっていることに。
そして、それが、他でもない――愛しい人の血であることに。
沙羅は自分の両手を見て、込み上げる後悔と自責の念を抑えきれずに叫んだ。
涙は止まらない。
失ったものがあまりに大きすぎて――
この悲しみを、怒りを――何にぶつけたらいいかも分からない。
どうしてこんなことになってしまったのか。
サイラスに何があったのか。
あああああああああああああああああ
弌は、沙羅の咆哮で目覚めた。
沙羅が抱きしめるサイラスの亡骸。
それは、何が起きたかを雄弁に語っていた。
その背中に、かけられる言葉などない。
妹を失い、祖父を、父母を一夜にして失った自分。
沙羅もまた最愛の人を失った。
言葉にできる慰めなど、この世に存在しない。
存在してたまるか。
おそらく、彼らはこれから、幾度となく自問自答し、
その答えを探し続けることになるのだろう。
『なぜ、自分たちだけが――生き残ってしまったのだろう』と。




