第1話 15年前 ――日神山 二度と戻らぬ幸せ 神邨一族最後の夜
「え?」
神邨弌は、誰かに呼ばれた気がして、顔を上げた。
部屋を見渡す。
――当然、誰もいない。
気のせいだ、と首を振る。
それでも、胸の奥だけがざわついた。
今日の山は静かすぎた。風もなく、虫の声すらない。
沈黙が、まるで何かの動きを隠しているようで――
いや、怯えているようにすら思えた。
その不気味さが、弌の神経を過敏にしていたのかもしれない。
だから、空耳だと――自分に言い聞かせた。
初夏の匂いがほんのり漂う中、神邨弌は窓辺に腰掛け、
夜空を見上げていた。
胸には、祖父が残した古びたノート。
何度も何度も読み返し、そしてこうして毎晩、
祖父たちの帰りを待つのが日課になっていた。
「……また、空を見ていたのかい?」
集中しすぎて、背後の気配に気づかなかった。
慌てて振り返ると、そこには心配そうな父の神邨輝と、
腕を組んで呆れ顔の妹・黎沙が立っていた。
「いっちゃんったら、
もし私が凄腕の暗殺者だったら
完全に殺されちゃってるからね」
「おいおい、物騒なこと言うなよ……」
黎沙は可愛い顔をしているが、ぼんやりで天然な兄を本気で心配している。
だから、よく毒を吐く。
「はは、確かに黎沙、それは言いすぎだ。
……でも弌、黎沙の言うことも一理ある。
集中しすぎて周りが見えなくなるのは気をつけなさい。
それはお前の強みでもあるが、
誰かに付け入れられる隙にもなるからね」
「……うん。分かった。ごめん、父さん。これから気をつけるよ」
ふんっと鼻を鳴らしながらも、黎沙は弌の肩に手を置いた。
「そうなんだからね!
一応、神邨家は政府お抱えの天文&宇宙調査隊なんだから、
誰かに狙われるかもしれないでしょ!
平和、天然ボケしすぎないでよ!
私、いっちゃんが死んだら泣いちゃうからね!」
「ぼ、僕のために泣いてくれるの?
れ、黎沙が?ぜひ、見てみたいな」
「……ばか、弌!」
ばしっ、と軽く妹の突っ込みが肩に入る。
強気の妹の泣き顔が見られる機会なんてそうそうない。
だから、弌は本気でそう言ったのだが、
黎沙にとっては『茶化した』と捉えられてしまったようだ。
そんな兄妹の、やりとりに父が笑う。
「まあまあ、黎沙。弌、気が早いぞ。
大切な黎沙が連れてくる花婿を、まずは父さんと兄である弌とで
よ〜く見ないとな」
「だね、父さん」
「うわぁ……私の彼氏、いじめたらぶっ飛ばすからね!
ご心配なく、私の人を見る目は母譲りでしっかりしてますから〜」
その声を聞きつけて、廊下からスリッパの音がぱたぱたと近づいてきた。
弌の前に現れたのは、二人の女性だった。
ひとりは、すらりとした黒髪の女性――本郷沙羅。
神邨介山と神邨輝のもとで学ぶ
若き研究員で、弌たち家族と共に日神山で天文調査を行っている。
研究仲間のサイラスとは婚約中で、弌と黎沙にとっては、
少し年上の頼れる姉のような存在だった。
もうひとりは、弌の母――神邨深黎。
緑がかった柔らかな髪をひとつにまとめ、
エプロン姿で穏やかに微笑んでいる。
手先が器用で、どこか天然なところのある、美しい人だ。
――弌は、よく母に似ていると言われていた。
「あらあら? 何の話?」
「結婚の話題みたいでしたけど? 弌くんに、彼女でもできたんですか?」
沙羅がにやにやしながら聞く。
「ええ?奥手の弌に?それは嬉しいわ~。
はっ!大変!お祝いしないと」
深黎はにっこりしたが、
何かに、はっとして、右往左往しはじめた。
沙羅が深黎の肩に手を置いて、それを止める。
「ちょっと待ってください!
深黎さん、まだ話の内容を確認してませんって!」
「あああ、廊下で母さんと沙羅さんが漫才してる!
止めてこないと!」
頭の回転が速い黎沙は、状況を一瞬で把握し、
部屋を飛び出していった。
――ぽつんと残された男二人。
父・輝と弌は顔を見合わせ、苦笑する。
廊下からは、にぎやかな声が続いていた。
「お母さん!
発明バカで毎日、専門書とにらめっこばっかりで
ど天然な、いっちゃんに彼女なんてできるわけないじゃない!
まあ、顔は、お母さん似だからイケメンかもしれないけど!」
「黎沙ちゃん……それ、悪口になってません?
弌くん、手先がとっても器用だから
お料理も裁縫もきっと練習したら上手になるよ。
それに、ほら優しいし。
気遣いもできる!きっとモテると思うなあ」
「沙羅さん!甘やかしちゃダメですって!
確かに、優しすぎるくらいで、
騙されないか、心配ですけれども。
まず、あの人、他人からの好意にまったく気付かない……
本当に鈍感なんですから!
いっちゃんを好きになる人は、地獄を見るだろうな~
はぁ……」
「地獄?なんで?」
「忍耐地獄――」
黎沙がきっぱり、はっきり言いきった。
「ああ、納得……」
黎沙の発言に対し、沙羅が納得している声がする。
「ふふふ。大丈夫よ。
弌のことだから、ずっと愛してもらえると思うの。
弌が、自分の本当の気持ちに、気付くまで」
深黎が、にこにこしながら、斜め右上の意見を言う。
「ははは、弌、愛されてるな」
「父さん。これって愛なの?」
父は笑い、そっと息子の背中を撫でた。
――その日の夕食も、笑い声と会話が絶えることはなかった。
家族のような研究チームの面々と、母のつくる温かい料理を囲み、
穏やかな時間が流れる。
父、母、黎沙、弌。そして父の研究仲間である沙羅。
毎日――
祖父の介山と、研究仲間のサイラスの無事を祈って、
帰還を待っている。
皆が同じ屋根の下で暮らし、
日神山のこの屋敷はまるでひとつの家族だった。
やがて、それぞれの部屋へ戻り、屋敷は静けさを取り戻す。
皆、眠ったのだろう。
――ただ一人、弌を除いて。
旧式のランプの明かりの下、弌はまた窓辺に座る。
幼いころ、眠れぬ夜は祖父がここで星の話をしてくれた。
『夜空を照らす光の中には、
もう――消えてしまった星の光も含まれるんだよ』
祖父の声が、記憶の中で響く。
そう聞かされて少しだけ泣いた夜から、
弌は毎晩、星を見上げ続けている。
無数に輝く星々。
そのすべてを覚えておくなんて、到底、できるわけがない。
けれど――
この満天の星たちひとつひとつが確かに輝いていたことを、
できる限り覚えておきたい。
そう言ったら――祖父が頭を撫でてくれた。
あの大きくて温かい手は、弌に、いつも安心と安らぎを与えてくれた。
今夜も、空には無数の光がある。
なぜ、こんなにも感傷的になっているのだろう。
祖父との会話が、思い出されるのだろうと――弌は思った。
今夜は変だ。
静かすぎる山。
ざわつく心。
走馬灯のようにめぐる祖父のこと。
何気なく握っていたノートを開く。
赤線で囲まれた祖父の文字――
『謎の動き 惑星 調査必要 植物の反応あり』
『真空宇宙空間で存在し得る植物……
希望となるか、または脅威か――』
その先は滲んで読めない。
弌は瞳を閉じる。
子どもの身でも、この先の未来に不安を感じる。
それほどまでに――現在のエアリスは――問題を抱えている。
環境汚染
森林減退
土壌汚染
大気汚染
そして――
政治的問題。
挙げればきりがない。
どれも目を背けることはできない。
その改善のために、未来のために、自分にできることをしたい。
だから、弌は必死に勉学に励んでいた。
祖父や父――サイラスや沙羅と共に研究ができるように。
研究者になるために。
「じいちゃんたち……いつ帰るのかな」
祖父やサイラスが帰ってきたら、今、胸にある—―
この不安も払拭されるに違いない。
早く帰ってきてほしいと願ってノートを閉じかけた瞬間――
夜空に、小さな光が瞬いた。
チカ…チカ…と揺れる不規則な光。
鳥肌がたった。胸のざわつきが増す。
理由は分からない。
ただ、ただ、不安がせり上がってくる。
居ても立ってもいられなくなって、咄嗟に立ち上がり、
乱暴に上着を羽織った。
靴を履き、双眼鏡を片手に外へ飛び出す。
屋敷の脇の小高い丘なら、もっと見えるはずだ。
――『光の正体を確かめろ』と突き動かされる。
なんだ?
分からない。
自問自答。
吸い寄せられるように、弌の体は、丘に向かって走り出していた。




