『第三話・2 忘れられた刃』
しかし、谷に走るざわめきはそれだけでは終わらなかった。
兵士の一人がかすれ声を漏らす。
「二人……。どうして、リリア様が、二人……いるんだ……?」
その言葉に、皆が息を呑む。祈るように首を振る者もいたが、否応なく事実は突きつけられていた。
黄金の光から還った“勇者リリア”。
そして、仮面の中から歩み出た黒髪の“リリア”。
ここに、黄金と黒、二人のリリアが並び立っていた。
(……誰だ?こいつ?)
(ん……? 待てよ……あれ、そういや昔、俺……分身術の実験とかしてたことあったな?)
(しかも“わかりやすいように黒髪”っていう安直な設定でしてたような……)
(……完全に忘れてた。
やばい。俺の無責任案件すぎるだろ、これ……)
黒髪リリアは、颯太の心の声に答えるはずもなく、ただ無機質に谷の冷気をまとい、剣を握っていた。
沈黙だけが、冷たく落ちた。
「……あなた……わたしの分身……」
「どうやって……今まで生き延びてきたの?
……ずっと、気にかけていたのよ。」
(まるっきり存在忘れたなんて、言えない雰囲気だぞ?これ。
完全に俺が悪者ポジじゃねえか。……いや待て、普通に殺気出てね?)
黒髪のリリアは、嗤った。
「どうやって? 笑わせんなよ。本体様が好き放題やって、敵ばっか残して消えやがったせいで……俺は毎晩、刃の気配を枕にして生き延びたんだ!」
「……てめえは、覚えてねえだろうけどな。本体様」
――その瞬間。
セラフィーの指先が、かすかに強張った。
「……本体……様……?」
呟きは、ほとんど息に溶けるほど小さい。
金の瞳が、ゆっくりと――だが確実に、目の前の“勇者リリア”へと揺れた。
それは、主従の敬意ではない。
喉の奥に刺さった棘の名を、恐る恐るなぞるような響きだった。
(……違う。
あの目は――分身が本体に向けるものじゃない……)
セラフィーは、無意識に唇を噛んだ。
指に込めた力が、わずかに白く浮く。
黒髪のリリアが向けるそれは、明らかに、主へ向けるそれではなかった。
——むしろ、刃を測る者の目だ。
握りしめた剣の切っ先が、わずかに揺れた。
だが、その動揺に気づく者は、まだ誰もいない。
黒リリアは続けた。
「食うものがなくて、魔獣の血をすすった。
死んだ仲間の影に潜んで、朝を待った。
……それが三年だ。」
「皮肉なもんだ……そんな俺が、最近じゃこの国の近衛に採用されてよ。
“勇者を継ぐ者”なんて持ち上げられながら、毎日剣を振るってる。
笑えるだろ、本体様に忘れられた分身が、国に仕えてんだぜ」
(完全な男言葉かよ。俺そのものじゃねえか! なんで分身の方が“素”出してんだよ!)
低く荒んだ声が、氷を踏み砕くように響いた。
「分身? 笑わせんなよ。最初の俺は、てめえの十分の一も力がなくて、ただの抜け殻みたいなもんだった。
何も持たず、敵だけ押しつけられて……その地獄で生き残るしかなかった。だから、生きるために何でもやった」
「――あの時、てめえは俺を“見捨てた”んだよ。本体様」
黒リリアの瞳が、まるで凍てついた刃のように細められる。
周囲では、兵士たちが完全に思考を置き去りにされた顔で固まっていた。
「……え、分身?」
「本体って、どういう……」
誰一人として、この異様な会話に追いつけていない。
リリアは息を呑んだ。
(いやいやいや……お前、本当は“百分の一以下”。
深爪した時に落ちた爪で、たまたま作ったやつなんだけど!?)
(……無理だ。これは絶対に言えねえ。
真実は――墓まで持っていくしかねえ!!)
黒リリアは剣を突きつけるように構え、言葉を叩きつける。
「もう“分身”じゃねえ。俺は俺だ。てめえに忘れられても、てめえの代わりにこの世界で生き続けた、俺自身の生き様がある」
そのやり取りを、黒い霧の向こうからレオが静かに見下ろしていた。
魔王の息子は口元だけで薄く笑う。
「……くく。勇者が二人とは。
ずいぶんと都合のいい内輪揉めだな」
レオの指先に、黒い雷光が一瞬だけ弾けては消える。
愉悦を含んだ声が、戦場の空気をさらに冷やした。
谷を満たす空気が、さらに鋭く張り詰める。
黄金と黒、二人のリリアの視線が激突し、仲間たちの喉がごくりと鳴った。
(……うん。
やっぱり俺の人生、“深爪から始まる世界崩壊”で確定だわ……)
──満ちた殺気の中。
場違いな軽口だけが、颯太の胸の内で乾いた音を立てていた。




