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カレーは醤油 ~インドの記憶~   作者: そらら
醤油はカレー

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1881/1899

2023年6月7日(水) 宇宙と現実と輪廻の狭間で

6月7日(水)


「亨貞院日敬様、おはようございます」


「おはよう。プリヤンカ。朝からちゃんとお寺参りするなんて、日本人の鏡じゃな~」


「でも、私、見た目インド人じゃないですか。その場合でも日本人の鏡って言うんですか?」


「ん~はて、言われてみれば確かに」


 朝7時をちょっと過ぎたばかりの柴又帝釈天には参拝客は誰もおらず、静寂に包まれている。


 お寺の住職たちが竹ぼうきで境内の砂利を軽快に掃く音のみが、その静寂の中に存在することを許されている。


 そこに「ん~はて……」という亨貞院日敬の唸り声が混じったものだから、私には面白おかしくて仕方なかった。


「あ、そうそう。これ。さち江さんからのお預かりものです」


 紫色の風呂敷に包まれたお重を取り出すと、醤油とマサラが絶妙に交差した香りが辺りに充満した。


 すると亨貞院日敬が蓋を開けるまでもなく笑みを溢し、唾をゴクリを飲み込んだのです。


「おぉ、さち江さん特製、カレーの醤油和えじゃな。これこれ。これを食べると、腹の底から力がみなぎってくるんじゃ。あとでじっくり頂くとするよ。ところで、プリヤンカ。お主がここに来たのは、一昨日、途中になってしまった話の続きを聞きたいがためじゃろ?」


「はい」


「よし。じゃあ、まずこっちへ来てごらん」


 すると、私を本堂の中へと案内した。


 拝殿に足を踏み入れると、天井は静かな木肌のままに広がり、壁には物語が息づいていた。


 十二支が巡り、天人が舞い、千羽鶴が羽ばたく。


 木の中に封じられた法華経の声が、私の耳に届くのではなく、目に届く。


 そして、拝殿の中央には、その周囲の壁と天井をまるで記憶の層を刻んだ書物のように輝かせている偉大なる存在があった。


 そう。


 ゾウの上で悠々と半胡坐をかいている帝釈天像が。


「これが、帝釈天なの?」


「そうじゃ。これ……」


 その時だった。


 帝釈天が突如としてゾウの上で立ち上がると、手にした金剛杵こんごうしょを天に掲げたのです。


 そして容赦なくドカーンと雷霆を轟かせたではありませんか。


「キャー」


 前回に続き、私が再び目をグッとつぶった瞬間、身体がフワっと浮き上がるような感覚になったのです。



「ヨウヤク キタカ……ズット マッテタゾ……」


「えっ? な、なに?」


 恐る恐る目を開けると、私は宇宙空間らしき場所にいた。


 さっきまで隣にいたはずの亨貞院日敬は私の遥か遠くの足元にある時間が止まった白黒の世界で固まっている。


 なのに、頭上にはさそり座の心臓にあたるアンタレスがまるでルビーのような真紅の輝きを放ち、その周囲を不死鳥フェニックスが優雅に飛翔してるじゃないの。


「え、え、えぇぇ! ここ、どこよ!」


「コッチ コッチ」


 私の背後から声が聞こえたと思ったら、ゾウの上で再び半胡坐をかいた姿に戻った帝釈天が、今度は私を手招きしているじゃありませんか。


 すると、なにも抗えない私は、スーッとまるでボートを漕ぐかのように帝釈天の元へと吸い寄せられていったのです。


「プリちゃん、ほんと久しぶり~。元気してた? っていうか、もう限界。早くなーでなーでして!」


 帝釈天はそう口を開くと、背中をぐっと私の方に向けた。


「は!?」


「あ、そっか。プリちゃん、まだ柴又に来たあとのこと、自分の声で聞けてないんだったね。ごめリンゴ。そのうち聞くと思うけど、プリヤンカがインドに行く前、ほぼ毎日私の所にお参りに来ては、背中をなーでなーでしてくれたんだよ。プリヤンカはとにかく背中を撫でさせたら世界一だから、僕っちが北センチネル島からここ柴又まで呼び寄せたのに。なのにさっ。インドに行っちゃうもんだから、ずーっとなーでなーでしてくれないじゃん。僕っち、本当に寂しかったんだよ~」


 な、な、な、なに~!?


 でも、私の目の前のいるのは帝釈天であることは間違いないだろうから、話を上手く乗せて、なんとしてもあの質問を投げなくては。


「分かったわ。あとでちゃんとなーでなーでしてあげるから、まずはちょっと質問させて。あなたはそもそも誰なの?」


「ひっどーい。僕っちのこと忘れるなんて。日本では帝釈天って名乗ってるけど、本名はインドラ。こんな軽いノリだけど、雷使いの神様なんだぞ~」


 これは亨貞院日敬が言っていた通りのことね。


 もう1つの特徴を聞かないと。


「すっごーい。僕っちは強いんだね~。でも、僕っちには雷の他にもすっごいことできちゃうんでしょ?」


「そうだよ。僕っちはインドラネットを使って、現在、過去、未来の思考や言葉を繋ぐことができるんだ。いや、繋ぐだけじゃない。人の記憶や思考を書き換えたり、洗脳することもできるんだよ~。すっごいでしょ」


「そんなこともできるの? そしたら、私の記憶なんかも書き換えてたりするの?」


「それは教えられない。だって、それを本人に教えちゃうと、せっかくの効果が全てグー、いや、パーになっちゃうから」


 ここでおやじギャグを言うなんて……


 でも盛り上げないと。


「グーじゃなくてパー! ちょっと僕っち面白すぎる~。ところで、この空間って、なんだかとっても不思議よね。ここってどこなの?」


「ん? ここ? 宇宙と現実と輪廻の狭間だよ」


「な、なにその空間?」


「ん~プリちゃん、さっきから質問ばっかして、全然なーでなーでしてくれない! もうそんなんなら、プリちゃんじゃない人、どっかから見つけてくるよ!」


「ちょ、ちょっと待って! 直ぐになーでなーでしてあげるから。あ、今日は特別になーでなーでに加えて、いーこいーこもしてあげよっかな~」


「え、いーこいーこもしてくれるの! やったー」


「じゃあ、これが最後の質問ね」


 私は一度大きく深呼吸をし、インドラの目を見つめながら口を開いた。



 - インドラの世界をボートで漂流した記憶のない女性がいるって、私のこと? -



 - うん -



 即答だった。


「はい。じゃあ、なーでなーで&いーこいーこ、よろしくね~」


 木で出来たインドラの背中はとってもしっとりすべすべしており、思ったより撫で甲斐があった。


 そして頭をいーこいーこしてあげると、自分が刻むそのリズムがあまりに懐かしく、いつしか思い出にふけるように目を閉じていた。


 そしてフワっとした感触に驚いて目を開けると、私は時間が止まった白黒の世界にある帝釈天の本殿に戻っていた。


 隣には未だ固まったままの亨貞院日敬。


 正面には、ピクリともしない帝釈天像。


 私が亨貞院日敬の背中に触れると、周囲に色彩が戻り、そして時間が再び刻まれた。


「そうじゃ。これが帝釈天様でな……」


 話を続けようとする亨貞院日敬を、私は制止した。


「帝釈天のこと、もう大丈夫です。それより、さち江さんが作ってくれたカレーの醤油和え。冷めないうちに早く召し上がって下さい。それじゃ」


「はぇ?」


 まるできつねに化かされたような表情を浮かべる亨貞院日敬を見て、帝釈天が一瞬クスッと笑ったのを、私は見逃さなかった。


この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

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