45話 独りじゃない
開始から約9時間。すっかり夜の帳が降りて、緑地スペースで鳴く蝉が声を潜め始めた頃、その瞬間は遂に訪れた。
「お………終わった。終わったぞ!」
間違いない。今やり終えたページをめくると、そこにはまっさらな裏表紙。いち小説ほどの分厚さを持った問題集は、それ以上俺に何も問い掛けない。
そう……悲劇の運命は断ち切られたのだ!
心臓が希望で満たされていく。ああ、『ペンタグラム』前にこんな達成感を感じていて良いのだろうか。
俺はテトラ、マコモ、ジンの顔を順に見て、これ以上ない感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
「ありがとう! マジで助かった!本当に……!」
「あんたの筆の遅さには驚くばかりね……まあ、終わったから良いわ。お疲れ様。」
テトラは相変わらず棘のある口調で返した。ただ、最後に傷薬を塗るように一言加えてくれたのは嬉しい。
「礼をされるほどの事はしていない……帰るぞ。」
ジンは短い言葉を残して踵を返し、休憩室を出ていった。
「……ふん、中二病めが。」
マコモはその後ろ姿を見送りながらそう呟いた。
しばらくして彼が見えなくなると、マコモは俺の方に右手を差し出した。
「……ではヒーロー、ノートを。」
「え? ああ、そう言えばマコモも終わってないんだっけ。」
俺は差し出されたその手に、宿題を書き込んだノート達を渡した。受け取った彼女は、口元を少し緩める。
「……明日の朝にはちゃんと返す。せんきゅー。」
「こちらこそ。……明日までに終わるといいな。」
「……うん。」
マコモも休憩室を出て、とことこと駆けていった。
彼女は、彼女自身の能力の如くどんな逆境も跳ね返せるような精神を持っている。何が何でも日が昇るまでに終わらせてくるのだろう。
俺と一緒に教えてもらいながらやれば良かったのに……なんてことは今更言えない。
テトラと俺だけになった休憩室には、外の環境音のみが静かに響いていた。
テトラはしばらく外の景色を眺めたあと、俺の方を振り返った。
「……じゃあ、私も帰るわ。」
「うん……あ、待ってくれ!」
俺はふと気づいたことがあり、彼女を呼び止めた。
「なに?」
テトラは緑色の綺麗な瞳でこちらを見る。
「一回も……入れ替わらなかったよな? と言うよりこの頃あんまり入れ替わってないというか……。」
テトラは今日、マコモやジンとともにずっと俺について勉強を教えてくれていた。
彼女が一体どのくらいの頻度で入れ替わっているのかはよく分からない。ただ、いつ入れ替わるか分からない状態で俺以外の人の側にいるのはリスクが高過ぎる。
何気ないことであったが、ふとそんな違和感を覚えたのだ。
「………そうね。」
テトラは瞼を閉じた。そして口元に薄く笑みを浮かべた。今まで見たことのないほど、彼女は穏やかな表情だった。
「あの子達もちょっとは遠慮してるんじゃない?」
「そうなのか? でも……」
「でも?」
「いや、何でもない……。」
ふとその時、テトラの身体がよろめいた。彼女は貧血になったように左右に数歩ふらふらと歩くと、がくりと膝をついた。
「テトラっ!?」
俺が慌てて抱き起こしに向かうと、テトラの顔が上がった。
彼女は目をぱちくりさせて首を傾げた。
「あれ……武藤さん?」
俺は呆然としていた。しかしすぐに、彼女の人格の入れ替わりが起こったのだと分かった。
「……もしかしてテア?」
「はっ、はい!お久しぶりです!」
テアはその場から立ち上がると、恭しく頭を下げた。武藤さん、という言葉の響きが懐かしい。
「あっ!」
突然、彼女は何かに気づいたように肩をびくつかせた。その緑色の瞳がみるみるうちに潤み始める。
「ご、ごめんなさい! 多分テトラかアンネとお話し中でしたよね!? わ、私が割り込んでしまって……! 何とお詫びすれば……!」
「いや、全然構わないから土下座はやめて!」
彼女が下げようとした頭を俺は全力で逆方向に押さえ、それでもなお弁解を続ける彼女をなだめた。
彼女の様子が落ち着いたところを見計らい、俺は一つ質問をした。
「テアは今……楽しい?」
会えたら聞こうとずっと思っていたことだった。
テアとは夏休み前に会ったっきりだった。彼女はこうして他の人と身体を共有していることについてどう思っているのか……果たしてそれで幸せなのかを知りたかったのだ。
テアは、へ?と言ってしばらくきょとんとしていたが、俺の質問の意図を察したらしく、笑みを浮かべた。
そしてゆっくり縦に首を振ると、口を開いた。
「私、すごい心配だったんです。テトラってああ見えて凄い繊細で、アンネと違って助けてほしい時ほど人の好意を突っぱねちゃう癖があるから……。」
俺は聞きながら生徒会長の言葉を思い出していた。
(自分の気持ちを伝えたい人はいるのに、そんな人ほど突っぱねて冷たい態度をとってしまう……)
その「気持ちを伝えたい人」は俺のことだったのだろうか。そんな自意識過剰な妄想が膨らんだ。今となってはそんなこと、知るよしもない。
「テトラとアンネには言わないでおいてほしいんですけど……とても自己中心的なんですけど……私はテトラが多重人格で良かったと思っています。」
「えっ。」
テアの意外な言葉に、思わず声が漏れた。テアがいかにも「驚かせてごめんなさい」と言いたげな表情を作ったので、俺は少し反省した。
「その……何て言うんでしょうか。私、何かあるとすぐに恐怖を感じてしまう性格で……な、治そうとはおもってるんですよ……けど治らなくて。こんな恐怖を感じながら毎日24時間過ごしたら、なんて考えると……その……入れ替わっている僅かな時間さえも怖くなるときがあるんです。」
テアの声が震え始める。「毎日24時間武藤エイユウ」な俺にとっては当たり前のことだが、特殊な事情を抱えた彼女にとってそれは、まるで別次元に入り込むような恐ろしさなのだろう。
俺は口を固く閉じたまま、彼女の次の言葉を待った。
彼女は数回の呼吸をおいてから、再び口を開いた。その声は、先ほどまでとは違い、はっきりと透き通っていた。
「でも、そんな時はこう考えるようにしているんです。私にはテトラとアンネがいる、って。」
「………。」
「人からは分からないと思うし、自分自身も二人は見えていないんですけど…………私の心の中に二人がいてくれるって思うと、少しだけ心強くなるんです。もしかしたら私のこと嫌ってるのかもしれないですけど……」
「いや、そんなことない……」
テトラと俺が喋っているときも、剣を交えているときも、アンネとテアの心は俺には見えないどこかで生き続けている。
表面に出ている時間が全てじゃない。表面に出ることが全てじゃないんだ。
「大丈夫、二人はいつもテアの味方だ。」
勿論俺もだ。
なんていう気の利いた言葉は、身の丈に合ってないような気がして、口にすることができなかった。
「ありがとうございます。武藤さん。」
テアは顔をほころばせる。そして少し頬を赤らめた。
「私、武藤さんのこと……」
『間もなく、校舎の施錠を始めます。校内に残っている生徒は速やかに……』
彼女が何か言いかけたタイミングで、校内放送がかかった。
「あ……もうそんな時間か。」
突然の放送にテアは一瞬呆気にとられていたが、すぐに状況を察したらしく壁に掛かった時計を見た。
「はうっ!ごめんなさい武藤さん!こんな時間まで私べらべらと戯れ言を……!」
「いや、落ち着け! むしろこんな時間になるまでテトラを付き合わせた俺の責任だから……。」
俺とテアは校舎を出た。
彼女を女子寮前まで送り届けようと思っていたが、ここで一つ問題が発生した。
「…………。」
「…………。」
………怖い。夜道が、怖い。
寮やその他建物に通じる道沿いには、疎らながら親切にも街灯が置かれている。
だが、逆にその光が、周囲の闇を際立たせ、俺たちの恐怖心を更に煽ってしまっている。
「く……暗いですね。」
いつの間にかテアは俺の腕にしがみついている。彼女の震えが俺の体に直に伝わり、じわじわと心細くなる。
「おう……。」
「で、出ませんよね……この前みたいにレムレースとか、幽霊とか……。」
レムレース、幽霊、この状況下では想像したくもないこの2つの単語が俺の膝を折った。
「ああっ、武藤さん!?」
「そ………それは言わない約束だろおっ!」
「ひっ、ごめんなさいぃっ!」
結局、片道10分もかからない寮までの道を、半泣きの俺たちは1時間かけて戻った。
たどり着くと同時に寮母に雷を落とされたのは言うまでもない。
ありがとうございました。




