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第十話「八機電子-特別開発部門」

八機電子(はっきでんし)の特別開発部門は、地上から見れば、ただの研究施設には見えなかった。


 都心から離れた再開発区画の端に、低く広い白い建物があった。周囲には高いフェンスが張られ、警備用ドローンが一定の間隔で空を巡回していた。表向きには、次世代産業機械の検証施設という扱いになっている。


 だが、本当の施設は地上にはなかった。


 建物の奥にある専用エレベーターは、通常の社員証では動かなかった。複数の認証を通し、最後に生体情報を読み取られてから、ようやく扉が閉じる。エレベーターは音もなく地下へ降りていった。


 ”(たいら)ナルミ”は、その箱の中で一人立っていた。


 灰色がかった黒髪が、肩から背中へまっすぐ落ちている。首には白いヘッドホンをかけていたが、音楽は流していなかった。左手の赤い稲妻型アクセサリーを、彼女は無意識に親指でなぞっていた。


 階層表示が、ひとつずつ下がっていく。


 地下の深い場所へ向かうほど、地上の音は消えていった。人の声も、車の走行音も、空調の低い唸りすら薄くなっていく。代わりに、壁の奥から伝わる巨大な設備の振動が、足元に静かに響いていた。


 ナルミは、その沈黙に慣れていた。


 彼女がこの施設で暮らすようになってから、ずいぶん時間が経っていた。最初は、地下にいるだけで息が詰まりそうだった。窓がなく、空がなく、雨の匂いもなかった。けれど、いつからかここが当たり前になった。


 地上にいた頃の記憶は、断片的にしか残っていない。


 水の音。赤い警告灯。濡れた道路。知らない大人の怒鳴り声。冷えた指先。誰かが自分の名前を呼んでいたような気もするが、それが誰だったのかは、もううまく思い出せなかった。


 災害で家族を失った子供は、珍しくなかった。


 あの時代のトーキョーには、そういう子供がたくさんいた。壊れた家、避難所、仮設区画、再開発地区、作業用M.R.Vの足音。ナルミの幼い記憶には、そうしたものが曖昧に混ざっていた。


 彼女は、どこかの避難区画で行き倒れていたところを拾われた。


 拾ったのは、"あの人"だった。


 当時のあの人は、すでに八機電子の中で特別な存在だった。M.R.V開発の第一人者であり、AIOS制御の応用設計にも深く関わっていた。まだ若かったが、その名前は社内で神話のように扱われていた。


 ナルミにとって、あの人は最初からそういった人物ではなかった。


 白衣を着た女の人だった。


 濡れて震えていたナルミを見下ろし、少しだけ首を傾げた人だった。哀れむでもなく、慰めるでもなく、ただ観察するように彼女を見ていた。


 その視線は冷たかった。


 それでも、ナルミはその手を取った。


 他に行く場所がなかったからだ。


 エレベーターが止まった。


 扉が左右に開くと、白い照明に満たされた長い通路が現れた。通路の壁面には強化ガラスが続き、その向こうに整備ベイや実験区画が見える。作業員たちは無駄口を叩かず、それぞれの端末や機材に向かっていた。


 ナルミが歩き出すと、床面に埋め込まれた誘導灯が淡く光った。


 白いヘッドホンの内側から、短い電子音が鳴った。


「……アイス」


 ナルミは足を止めずに呼んだ。


 返事は、人の声ではなかった。


 ピ、と短い音が鳴った。続いて、少し高い音が二回続いた。


「起動確認は終わっているのね」


 ピ、と音が返る。


「姿勢制御系は」


 ピピ、と音が鳴った。


「そう。なら、あとで私が確認する」


 ナルミの声は落ち着いていた。


 首にかけた白いヘッドホンは、ただの音響機器ではなかった。

 彼女のパートナーであるカミキリムシ型AIOS、アイスとの接続インターフェースを兼ねている。

 アイスは他のAIOSのように言葉を話さなかった。短い電子音と、端末上の反応だけで意思を伝える。


 普通の人間には、それがただのビープ音にしか聞こえない。


 だが、ナルミには違って聞こえた。


 音の長さ、高さ、間隔、返答までの遅延。アイスはそれらを使って、彼女に必要な情報を伝えていた。ナルミはその癖を知っていたし、アイスもナルミの沈黙を理解していた。


 二人は、言葉を交わさなくても会話できた。


 それは、ナルミがあの人から与えられたものの中で、数少ない安らぎだった。


 通路の先に、大きな格納庫があった。


 扉の上には、無機質な文字で特別開発第七ベイと表示されている。ナルミが近づくと、認証装置が自動で彼女の網膜と歩行パターンを読み取った。低い駆動音とともに、厚い扉が左右に開いた。


 冷たい空気が流れてきた。


 格納庫の中央に、一機のM.R.Vが立っている。


 白い機体。


 胴体は細く、流線形に近い。通常の作業用M.R.Vに見られる角ばったフレームや外付けの補助装甲は少なく、全体がひとつの生き物のようになめらかにつながっている。前方には狐耳のように見える対のセンサーがあり、背面には二本の尾を思わせるスラスターユニットが伸びていた。


 両腕は、肘から前腕にかけて薄いブレード機構を備えていた。格納状態では装甲の一部に見えるが、展開すれば日本刀のような細い刃になる。手首の内側には小型の射撃機構も埋め込まれていた。


 脚部は二輪型、左右に並んだ大径ホイールは歩行用の補助関節と組み合わされ車輪走行と限定的な二足歩行を切り替えられる。通常の競技用M.R.Vより重心が低く、姿勢制御の難度は高い。その代わり、速度と旋回性能は群を抜いている。


 機体名は、ファントム。


 八機電子がサマータイムに送り込んだ、試作戦闘型M.R.V。


 その名は、見た目だけでつけられたものではない。


 ファントムには、光学迷彩と音響センサーへの妨害(ジャミング)を組み合わせた特殊装備が搭載されていた。周囲の映像を機体表面に投影し、同時に駆動音と熱反応を制御する。完全な不可視ではない。だが、戦闘中に視覚、聴覚、熱源の三つをまとめてずらされれば、多くのパイロットは機体の位置を把握できなくなる。


 ファントムクローク。


 それが、この機体の最も重要な装備だ。


 ナルミは、格納庫の中央で立ち止まった。


 整備アームがファントムの腕部を固定し、作業ドローンが装甲表面を滑るように移動していた。白い外装にはまだ細かな調整用のマーカーが貼られている。実戦投入前の機体らしい不完全さが残っていたが、その不完全さすら美しく見えた。


 ピ、とアイスが鳴った。


「わかっている」


「今日のクローク試験では、反応遅延が出ていた。左後方の投影制御が、まだ少し遅い」


 ピピ、とアイスが鳴った。


「許容範囲ではない。サマータイムの決勝では、相手が何をしてくるかわからない」


 ナルミはそう言って、ファントムを見上げた。


 サマータイム。


 その名前を聞くたび、ナルミは少しだけ不思議な気持ちになった。


 八機電子の会議資料では、それは大規模な競技イベントとして処理されている。資料には、参加者数、放映権収入、メーカー露出、プロリーグへの導線、部品市場への波及効果などが並んでいる。数字だけを見れば、サマータイムは単なる市場だった。


 だが、地上の人間にとっては違うらしい。


 夏の祭り。無茶な挑戦。ライセンスを持たないパイロットでも、プロと同じ舞台に立てる特別な期間。放棄エリアや未完成の再開発区画を舞台に、M.R.V同士がぶつかり合う一夏の遊戯。


 ナルミは、その熱を理解できなかった。


 彼女にとってM.R.Vは、遊ぶためのものではなかった。


 M.R.Vは、与えられた機体を正しく動かし、与えられた目的を達成するためのものだった。機体の限界を知り、AIOSと制御を同期し、試験項目を満たす。勝利とは、計測結果に過不足がないことだった。


 だからこそ、シンカは彼女を評価した。


 ナルミは、余計な感情を操縦に持ち込まない。


 そう言われた時、ただ彼女は嬉しかった。


 今でも、その言葉を覚えている。


 格納庫の奥にある扉が開き、白衣を着た女性が入ってきた。


 あの人..."()()()()"()だった。


 背は高くない。だが、彼女が入ってくると、格納庫の空気が変わる。整備員たちは一瞬だけ手を止め、それから何事もなかったように作業へ戻った。誰も大げさに挨拶しない。だが、全員が彼女の存在を意識していた。


 シンカは、年齢を感じさせない顔をしていた。細い顎、まっすぐな目、白衣の下に着たタンクトップ、紺のスラックス。髪は無造作にまとめられているが、乱れているようには見えない。


 彼女の目は、いつも何かを測っている。


 人間を見ている時でさえ、部品や機構を見ているような目をする。


「おはよう、ナルミちゃん」


 シンカは穏やかに言った。


「おはようございます、主任」


 ナルミは姿勢を正した。


「主任って呼び方、まだ続けるのね、ナルミちゃん」


「施設内ですので」


「真面目だね」


 シンカは少しだけ笑った。


 その笑みを見て、ナルミの胸がわずかに緩む。自分でも嫌になるほど単純だと思った。シンカが笑うだけで、彼女は許された気持ちになってしまう。


 ナルミにとって、シンカは母親に近い存在だった。


 ただし、一般的な意味での母ではなかった。抱きしめられた記憶は少ない。食事を作ってもらったこともほとんどない。寝る前に物語を読んでもらったこともない。


 シンカが与えたのは、部屋と教育と機体だった。


 制御理論。M.R.Vの構造。AIOSとの同調訓練。身体強化ではなく、身体を機械へ接続するための感覚訓練。ナルミは、普通の子供が学校で覚えることとは違うものを、ずっと教えられてきた。


 それでも、ナルミは不満を持たなかった。


 シンカが自分を見てくれたからだ。


 拾われた子供でしかなかったナルミを、シンカは必要だと言った。君はいいパイロットになる、と言った。君なら私の機体を動かせる、と言った。


 それで十分だった。


 シンカの隣にいられるなら、ナルミはどんな訓練にも耐えられた。


「ファントムの調子はどう」


 シンカは機体を見上げながら尋ねた。


「基本駆動は安定しています。クローク展開時の姿勢制御も、前回より改善しています。ただ、左後方の投影制御にまだ遅れがあります」


「何フレーム」


「最大で四フレームです」


「競技用なら許容範囲ね」


「私は、そうは思いません」


 ナルミが即答すると、シンカは楽しそうに目を細めた。


「そういうところは、好きよ」


 その言葉だけで、ナルミは背筋が熱くなるような感覚を覚えた。


 顔には出さない。


 彼女は、いつも通り静かに立っている。


「サマータイムの決勝では、不確定要素が多くなります。予選を勝ち抜いた機体は、性能も規格も統一されていません。ファントムクロークがあるとはいえ、わずかな表示遅延が原因で被弾する可能性はあります」


「だから面白いんじゃない」


 シンカは軽く言った。


「公式リーグは整いすぎているわ。規格、審査、スポンサー、放映スケジュール、パイロットランク。もちろん、それはそれで必要よ。でも、機体の限界を見るには、予定調和が多すぎる」


「そのためにサマータイムへ出すのですか」


「そう。サマータイムは、まだ壊れていない部分がある」


 シンカはファントムの脚部へ近づき、装甲に指先で触れる。


「参加者の年齢も経歴も問わない。ライセンスがなくても、条件を満たせば出られる。パーツレギュレーションはほとんどない。エントリー後の換装も自由。プロもいれば、個人チームもいる。未完成の機体も、変な機体も、危ない機体もいる。だから、予想外のデータが取れる」


「競技というより、混沌です」


「ええ。だからいい」


 シンカは白衣のポケットから小型端末を取り出した。


「四大メーカーが、今でもサマータイムに資金を出し続けている理由もそこにあるわ。八機電子はAIOSと機体制御の実証ができる。AS.indは火力と重装備の市場反応を見られる。コメータは派手な特殊パーツを売り込める。ハードデックは個人チーム向けの汎用部品と中古市場を広げられる。誰もが違う目的を持っているけれど、サマータイムという場所だけは共有している」


「八機電子の目的は、ファントムの実戦試験ですか」


「それもある」


 シンカは、少し間を置く。


「けど、今年はそれだけではなくなったわ」


 ナルミは、その言い方に反応した。


 シンカが端末を操作すると、格納庫の壁面モニターが点灯した。複数の映像ウィンドウが開き、地区予選の記録映像が並んだ。ファントムの性能データではない。サマータイムの各地区で撮影された、参加機体の戦闘映像だった。


 シンカは迷わず、ひとつの映像を選んだ。


 荒れた市街地が映った。


 崩れかけたビル、剥き出しの鉄骨、古い道路標識。地区予選の会場の一つだ。画面の中央では、赤い胴体の不格好なM.R.Vが走っていた。


 ナルミは、その機体を知っていた。


 資料で確認している。


「サンデイですね」


「ええ」


 シンカは画面を見たまま答えた。


 サンデイは、八機電子製の旧式胴体をベースにしたジャンク機だった。左右の腕部も脚部も統一感がなく、規格の違うパーツを無理やり組み合わせている。背面から伸びる二本の通信アンテナは、実用というより、偶然残った特徴のように見えた。


 競技機としては粗い。


 設計思想も、重量バランスも、駆動系の調整も、正規の開発ラインから見れば無茶が多かった。


 だが、地区予選の映像では、その粗さが完全な欠点になっていなかった。


 サンデイは、転びかけながら加速した。右腕のジャンクアームを振り回し、左腕の大型レンチを盾のように構える。脚部は不安定で、旋回のたびに重心が外へ逃げていた。それでも機体は倒れなかった。


 倒れそうになるたびに、パイロットが強引に持ち直している。


 AIOSの補正も入っているだろう。だが、それだけではない。


 操縦席の中にいる少女(パイロット)の反応が、機体の遅れを先回りしていた。


 ナルミは、映像の右上に表示された操縦ログを見た。取得精度の低い外部解析だが、入力の癖は読み取れる。通常なら、姿勢が崩れてから補正を入れる。だが、このパイロットは崩れる直前に、崩れる方向を利用していた。


 失敗を消すのではなく、失敗を動きに変えている。


 それは、ナルミにはない操縦だった。


「危ういですね」


 ナルミは言った。


「そうね」


「機体への負担が大きすぎます。あのままでは、関節部とフレームが持ちません。AIOSの負荷も高いはずです」


「でも勝ったわ」


 シンカは楽しそうだった。


 映像の中で、サンデイが敵機の攻撃をかいくぐった。崩れかけたビルの影に入り、相手のブースターを誘導し、落下物と自機の突撃を合わせて勝利をもぎ取る。洗練された戦術ではない。だが、決断が速かった。


 シンカは映像を一時停止した。


 パイロットの少女が映った、カメラ映像が拡大された。


 黒髪をまとめ、首元にゴーグル型のギアをかけている。汗をかき、歯を食いしばりながらも、目は前を見ていた。怖がっているようには見えなかった。


 むしろ、楽しんでいるように見えた。


 ナルミは、その顔を見た。


 知らない少女だった。


 けれど、シンカの横顔を見た時、ナルミは胸の奥に小さな違和感を覚えた。


 シンカは、ただの参加者を見る目をしていなかった。


 研究者が珍しいサンプルを見つけた時の目に近い。だが、それだけではなかった。ほんのわずかに、表情の奥が揺れているように見えた。


「この子が気になるのですか」


 ナルミは尋ねた。


「まぁ...少しね。」


 シンカは短く答えた。


「操縦技術ですか」


「それもあるわ」


「それ以外に、何か」


 シンカは答えなかった。


 画面の中の少女を見つめたまま、細い指で端末の縁を叩いた。


 シンカは映像を再生した。


 サンデイが動き出す。少女が叫ぶ。古い胴体が軋み、ジャンクの腕が振られる。モニター越しでもわかるほど、機体の動きは荒かった。


 だが、生命力があった。


 ナルミは、その言葉を思い浮かべてから、すぐに打ち消した。機械に生命力という表現は曖昧すぎる。運動効率、反応速度、予測補正、接地制御。そうした言葉で説明すべきだ。


 それでも、映像の中のサンデイは、生きているように見えた。


「このパイロットの登録名は?」


 シンカが尋ねた。


 ナルミは端末を操作した。


「アスカ、とだけ登録されています。」


「アスカ...」


 シンカは今までにない、不思議な表情を見せる。


「主任、どうかしましたか?」


「いえ、なんでもないわ」

「ナルミちゃん、あなたとファントム、アイスならどんな相手にもきっと勝てるわ。」


 シンカは向き直り、やや唐突に告げる。


 シンカは、気まぐれで優しい言葉をかける人ではない。必要がなければ褒めない。嘘で安心させることもない。だからこそ、シンカの言葉はナルミにとって重かった。


 事実として必要とされている。


 それは、愛情という言葉よりも信じやすかった。


 格納庫の奥で、警告灯が一度だけ点滅した。


 ナルミが振り向くと、ファントムのさらに奥にある遮蔽扉が、わずかに開いているのが見えた。そこは第七ベイではなく、隣接する別の実験区画へつながっている。普段は封鎖されている場所だった。


 扉の隙間から、黒いフレームの一部が見えた。


 M.R.Vの部品に似ているが、規格が違う。腕部や脚部を換装するための標準ジョイントではない。胴体部らしき構造も、通常のコックピットを前提にしているようには見えなかった。


 ナルミは、その存在を知っている。


 ()()()()()()


 八機電子がファントムと並行して開発している、独自規格の機体だった。


 公開資料には載っていない。社内でも、ごく一部の人間しか知らない。M.R.Vと呼ぶには構造が異なり、兵器と呼ぶにはまだ完成していない。だが、シンカはそれを八機電子の次の答えだと言っていた。


「ワイヤヘッズの試験も進んでいるのですか」


 ナルミが尋ねると、シンカは視線だけを奥の扉へ向けた。


「少しずつね」


「標準規格から外れすぎています」


「標準規格は、便利だから標準なのよ。正しいから標準なのではないわ」


「M.R.Vの運用思想からも外れます」


「そうかしら」


 シンカは楽しげに言った。


「八機電子のコンセプトは、人機一体よ。パイロットとAIOSが機体を共に動かす。ファントムは、その競技用の到達点に近い。けれど、ワイヤヘッズはもっと先を見ている」


「もっと先、ですか」


「人が機械を操る。AIOSが人を補助する。機械が人の反応を拡張する。そこまでは今のM.R.Vでもできる。でも、もし境界そのものを薄くできたらどうなると思う」


 ナルミは答えなかった。


 ワイヤヘッズの資料を初めて見た時、彼女は不快感を覚えた。


 機体の構造が怖かったわけではない。危険な性能に驚いたわけでもない。むしろ技術的には美しかった。神経接続、AIOSとの深層同期、機体全体を義体のように扱う制御思想。八機電子の技術が進む先として、理屈は通っている。


 だが、そこには戻れない一線があるように思えた。


 ファントムは、どれほど高度でもM.R.Vだった。パイロットが乗り、AIOSが支援し、機械が動く。三者の境界は保たれている。


 ワイヤヘッズは、その境界を削ろうとしていた。


「ナルミちゃんには、まだ乗せないわ」


 シンカが言った。


 ナルミは、心を読まれたような気がして顔を上げた。


「私は」


「乗れと言われれば乗るでしょ?ナルミちゃんはそういう子だから」


 シンカは優しく言った。


 その優しさは、いつも少しだけ残酷だった。


「でも、今はファントムよ。ワイヤヘッズは、まだ人間側の負荷が大きすぎる。深層同期の安定性も不十分だし、戦闘用AIOSの自律判断も粗い。あれは、まだ機体というより実験そのものね」


「主任は、完成させるつもりなのですか」


「もちろん」


 シンカは迷わなかった。


「八機電子がM.R.Vを作ったのは、人間の手足を延ばすためよ。災害現場で届かない場所へ届くため。重すぎるものを持ち上げるため。危険な場所へ入るため。そして今は、競技の中で人間の反応や判断を拡張するために使われている」


 彼女はファントムを見上げた。


「でも、もっとできる。人と機械とAIOSは、まだ別々すぎる」


 ナルミは、その横顔を見つめた。


 シンカがこういう話をする時、彼女はとても遠くを見ている。目の前にいる人間ではなく、まだ存在しない機体を見ている。未来と言ってもいいのかもしれない。だが、ナルミにはそれが時々、深い穴を見ているようにも感じられた。


「サマータイムでファントムのデータを取ったあと、ワイヤヘッズに反映するのですか」


「ええ。競技で得られるデータは貴重よ。実験場の中だけでは、人間が本当に追い込まれた時の反応は取れない。観客、敵機、予想外の地形、壊れたパーツ、焦り、怒り、執着。そういうものが機体をどう変えるのか、私は見たい」


「サンデイも、そのための対象ですか」


 ナルミがそう言うと、シンカは少しだけ笑った。


「ええ?、あの子は、面白いけど...ちょっとお遊びが過ぎるわよ」


 また、その言い方だった。


 ナルミは、胸の奥のざらつきが少し大きくなるのを感じた。


 あの子。


 シンカは、資料上のパイロットをそう呼んだ。


 ただの参加者なら、個体や対象と呼んでもおかしくない。名前を呼ぶとしても、登録名で済む。けれど、今の言葉には、わずかな親しみのようなものがあった。


 ナルミは、自分の指先が冷えていることに気づいた。


 理由はわからなかった。


 わからないことが、不快だった。


「サマータイムで、私がファントムの性能を証明します。主任の機体が、最も優れていることを証明します」


「ありがとう」


 シンカは端末を閉じた。


 壁面モニターの映像が消える。格納庫には再び、ファントムの白い機体と、整備機材の低い音だけが残った。


 ナルミは、消えた画面を見つめていた。


 そこにはもう、サンデイも、アスカという少女も映っていない。


 それでも、ナルミの中には、あの目が残っていた。


 怖がらずに前を見る目。


 壊れかけた機体を、まるで自分の身体のように振り回す目。


 ナルミは、その目を美しいとは思わなかった。


 危ういと思った。


 無謀だと思った。


 けれど、忘れにくい目だった。


 シンカがその目に惹かれたのだとしたら、それはなぜなのか。


 ナルミは、その問いを考えかけて、やめた。


 今考えるべきことではない。

 それでいい。

 それが自分の役割だ。


「ナルミちゃん」


 シンカが呼んだ。


「はい」


「今日の午後、クローク展開状態での近接試験をもう一度やるわ。相手は自律標的機を三機。条件は、視界不良、熱源ノイズあり、足場は不安定にする」


「了解しました」


「疲れているなら、休んでもいいわよ」


「必要ありません」


 ナルミは即答し、シンカは少し笑った。


「そう言うと思った」


 その笑顔を見て、ナルミはまた胸の奥が緩みそうになった。


 彼女はそれを抑えた。


 甘えは、操縦を鈍らせる。


 シンカに選ばれた自分は、ただの子供ではいられない。拾われた時のように、震えて待っているだけの存在ではない。八機電子の試作機を任されたテストパイロットであり、ファントムを動かせる唯一の人間であり、シンカの役に立つための役割を与えられた存在だ。


 だから、勝たなければならない。


 誰に対しても。


 たとえ相手が、シンカの目をあのように変える少女であっても。


 ナルミはファントムの足元へ歩いていった。


 整備員が道を開ける。機体の胴体部が低く沈み、搭乗用のステップが展開された。白い装甲の隙間から、コックピットへ続く狭い入口が開く。


 ピ、とアイスが鳴った。


「行くわ、アイス」


 ナルミは言った。


 ピピ、とアイスが返した。


 彼女はステップに足をかけ、ファントムへ乗り込んだ。


 コックピットは狭く、暗かった。通常のM.R.Vよりも計器類が少なく、代わりにヘッドセットと神経補助入力用の接続端子が多い。座席に身体を預けると、背面の固定具が肩と腰を支えた。


 システムが彼女を認識する。


 正面モニターに、白い文字が浮かび上がった。


 PHANTOM 起動準備。


 AIOS ICE 接続待機。


 ナルミはヘッドホンを装着し、目を閉じた。


 アイスの電子音が、今度は頭の内側で響いた。


 短く、冷たく、正確な音だった。


 ナルミは呼吸を整えた。


 外の格納庫で、シンカが何かを指示する声が聞こえた。整備アームが離れ、固定具が解除されていく。ファントムの脚部ホイールがわずかに回転し、床面に低い振動が走った。


 白い機体が、静かに目を覚ましていく。


 ナルミは操縦桿に手を置いた。


 指先の冷たさは、もう消えていた。


「ファントム、起動します」


 彼女が言うと、機体の内部で制御系が一斉に立ち上がった。


 モニターに格納庫の映像が広がる。視界の端に、白衣姿のシンカが見えた。彼女は腕を組み、機体を見上げていた。その表情は、満足しているようにも、まだ何かを探しているようにも見えた。


 ナルミは、その視線が自分とファントムだけに向いていることを確かめた。


 それだけで、落ち着いた。


 今は、それでよかった。


 格納庫の照明が試験用に落とされた。床面から熱源ノイズを発生させる装置がせり上がり、自律標的機が三機、離れた位置で起動した。壁面の警告灯が青から橙へ変わる。


 ファントムの外装に、淡い光が走った。


 白い機体の輪郭が、背景に溶け始める。


 ファントムクロークが展開されていく。


 ナルミの視界に、標的機の位置、速度、予測進路が表示された。アイスが無言のまま補正を入れる。言葉はない。だが、ナルミには十分だった。


 彼女は、ほんのわずかに操縦桿を倒した。


 ファントムが動いた。


 音もなく、床を滑るように進む。二輪脚が低く唸り、機体が影のように標的機の背後へ回り込む。標的機のセンサーは、まだ反応していない。


 ナルミは、ブレードを展開した。


 薄い刃が、白い腕部から静かに伸びた。


 次の瞬間、標的機の右腕が切断された。


 標的機が警告信号を発するより早く、ファントムはすでに横へ抜けていた。二機目が旋回する。三機目が射撃姿勢に入る。ナルミは焦らなかった。


 機体を見せない。


 音を残さない。


 攻撃した場所に留まらない。


 ファントムの戦いは、相手に戦闘を成立させない戦いだった。


 それは、ナルミに合っていた。


 激情で押し切る必要はない。声を張り上げる必要もない。目立つ必要もない。ただ、相手の認識の外側へ立ち、必要な瞬間に必要な部位を壊す。


 標的機の脚部を切る。射撃腕を落とす。センサーを潰す。


 動けなくなった標的機が、次々に床へ沈んだ。


 試験終了の表示が出た。


 ファントムは、格納庫の中央で静止した。


 クロークが解除され、白い機体の輪郭が戻っていく。


 ナルミは息を吐いた。


 心拍は安定していた。手の震えもない。アイスの反応も正常だった。左後方の投影制御には、まだわずかな遅れがある。だが、先ほどより改善している。


「結果は」


 外部通信でシンカが尋ねた。


「標的三機、行動不能。被弾なし。クローク展開中の最大遅延は三フレームまで低下しました」


「上出来よ」


 シンカの声が聞こえた。


 ナルミは、目を閉じた。


 上出来。


 その言葉を、彼女は静かに受け取った。


 だが、胸の奥のざらつきは完全には消えていなかった。


 アスカ。


 登録名だけの少女。


 ジャンク機を操り、シンカの目を変えたパイロット。


 決勝トーナメント第一戦で、その少女が本当に残るのなら、自分は見ることになる。サンデイの動きも、彼女の目も、シンカが何を見つけたのかも。


 そして、必要なら倒す。


 ナルミは操縦席の中で、静かに視線を上げた。


「次は、実戦です」


 その声は、誰に向けたものでもなかった。


 アイスが短く鳴った。


 ピ。


 それは、肯定の音だった。


 格納庫の外では、シンカが再び端末を開いていた。


 彼女は試験結果の数値を確認し、それから別の映像を呼び出した。地区予選の記録映像だった。赤いジャンク機が、崩れた街の中を走っている。


 シンカは映像を止めた。


 画面の中で、黒髪の少女が前を見ていた。


 シンカはしばらく、その顔を見つめていた。


 そして、小さく笑った。


「面白い夏になりそうね」


 その声は、格納庫の機械音に紛れて、誰にも聞こえなかった

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