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第3話 灰冠街区(かいかんがいく)

走りながら、何度も後ろを振り返った。


追われている気がした。

実際に誰かがいたのか、それとも森下が目の前で消えたせいで神経が焼けているだけなのか、もう自分でもよく分からない。


ただひとつ分かるのは、今の俺は落ち着いてコンビニでビールを選べる精神状態じゃないってことだ。


スマホの地図には、薄い灰色の円が表示されている。

中心は会社ビル。その周囲数百メートルが、俺の“初期領域”らしい。


灰冠街区。


名前だけは妙に格好つけてる。

せめてもう少し親しみやすい名前にならなかったのか。営業二課エリアとか。

絶対嫌だけど。


ビルに駆け込むと、夜勤の警備員が受付にいた。

俺が息を切らして通ろうとすると、面倒そうに顔を上げる。


「神代さん? 戻りですか」

「忘れ物しました」


数字を見なくても、自分で分かる。

今のは一割くらいしか本当じゃない。


なのに警備員は普通に頷いた。

ゲーム外の人間には、俺の言葉はただの言い訳にしか見えないらしい。


エレベーターに乗り込み、閉ボタンを連打する。

七階。営業部フロア。


上昇中、スマホがまた震えた。


非通知ではなく、アプリ内メッセージ。


`発声権能は領域内で微弱起動します`

`大規模干渉は統治条件未達成`


「微弱起動って何だよ」


文句を言っても、答える相手はいない。


七階に着く。オフィスは半分消灯されていて、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。

嘘、という言葉に自分でびくっとする。今はあまり縁起でもない。


会議室のガラス扉に、自分の顔が映っていた。

青い。情けないくらい青い。


そのとき、廊下の奥で、かすかな足音がした。


止まる。


社員かもしれない。

でも、今の俺にはその“かもしれない”が一番怖い。


スマホの画面右上が点滅する。


`近傍候補者:1`


近い。

このフロアにいる。


「……勘弁してくれ」


足音が、こちらに向かってくる。

ゆっくり。急がず。迷いなく。


逃げ場を探して、会議室に飛び込んだ。扉を閉める。鍵はない。

ただのガラス扉だ。気休めにもならない。


どうする。

どうする、神代ユウ。


そのとき、さっきの女の声が脳裏に蘇った。


領域へ入って。


発言は条件下で現実に干渉します。


俺は扉を見ながら、半分やけくそで呟いた。


「この部屋には、今、誰も入ってこない」


言った瞬間、自分で死ぬほど恥ずかしくなった。

何を言ってるんだ俺は。

小学生のバリアか。


でも、次の瞬間。

会議室のドアノブが回った。


回ったのに、開かなかった。


ぐっと押される気配。

それでも扉はぴたりと止まったまま、わずかに震えるだけだ。


嘘だろ。


いや、その言い方はよくない。


背中に冷や汗を流しながら、俺は一歩下がる。

心臓がうるさい。うるさいのに、頭だけが妙に静かだった。


今、効いた。

本当に。


外の相手が、くぐもった声で笑った。


「へえ。もう使えたか」


男の声だ。

若くはない。落ち着いていて、余裕がある。


「誰だ」


「近所の先輩、かな」


ふざけた返しのわりに、足音は一歩も乱れない。


「開けろ。挨拶くらいしよう」

「断る」

「冷たいな。せっかく同じ街区になったのに」


同じ街区。

つまりこいつも、この領域に関わっているプレイヤーか。


「おまえがさっき駅前にいたのか」

「いたかもしれないし、いなかったかもしれない」


真率が読めない。

扉越しだからか、焦りすぎているからか、うまく掴めない。


「初心者にひとつ忠告してやる。言葉は刃物だ。雑に振ると自分の指が落ちる」

「親切だな」

「親切だよ。俺は教育熱心なんだ」


そう言って、男は少し黙った。


「ただし、その部屋から出るなら選べ。俺と話すか、他の候補者に狩られるか」


ふざけるな。

選択肢が実質ひとつじゃないか。


スマホがまた震えた。

今度は着信。非通知。


「……もしもし」

『まだ生きてるわね』


あの女だった。

会議室の外にいる男に聞こえないよう、声を潜める。


「今それどころじゃない」

『そうみたいね。扉の前にいるの、たぶん結城。圧をかけて選ばせるタイプ』

「結城?」

『名前は仮。今はどうでもいい。宣言、効いたんでしょ』


俺は黙る。

沈黙を肯定と受け取ったのか、女は淡々と続けた。


『いい。じゃあ次は聞いて。領域内の宣言は強くなる。でも、万能じゃない。短時間、狭範囲、それが今のあなたの限界』

「なんでそんなことを知ってる」

『私も候補者だから』

「名前」

『黒瀬理花。あなたと同じ街区のプレイヤー』


外の男が、扉を二回ノックした。

律儀か。

いや、全然ありがたくない。


『今すぐその場で戦わないで。あと三分待って』

「待ったら?」

『私はあなたの前に現れる』


「信じろって?」

『信じなくていい。ただ、今のあなたはひとりで外に出たら負ける』


頭の中の数字は、八七パーセント。


高い。

高すぎて逆に怖い。


「神代くん」


扉の外の男が、今度は妙に柔らかい声で言った。


「数えようか。十までに出てこなければ、君の職場にいる人間を順番に巻き込む方法を考える」


一。


二。


こいつ、できるのか。

分からない。でも、森下が消えた今、「できないだろ」とは思えない。


三。

四。


「最悪だ……」


五。


そのとき、廊下の反対側から、ヒールの足音が響いた。


六。


「そこまでにしてもらえます?」


女の声。

冷えたガラスみたいな声だった。


七。


「初心者相手に脅しは趣味が悪いわよ、結城」


扉の向こうの空気が、わずかに変わる。


数秒後、男が小さく笑った。


「……もう来たか。仕事が早いな、黒瀬」


足音が一歩、二歩と遠ざかっていく。


俺はその場でへたり込みそうになった。

膝から力が抜ける。今さらだ。遅い。


『開けて』


電話越しではなく、扉のすぐ向こうから声がした。


恐る恐る開けると、そこには黒いスーツの女が立っていた。

三十前後。細身。濡れた髪を後ろでひとつにまとめている。

美人というより、隙がない。


彼女は俺を見るなり、第一声でこう言った。


「とりあえず確認するけど。今の宣言、文法が雑すぎるわね」


助けられた直後に言うことか、それ。


でもその一言で、逆に少しだけ呼吸が戻った。


生き残る方法が、たぶん本当にある。


黒瀬理花は、俺のスマホ画面を一瞥して言う。


「五人集める。あなたも来て。ここから先は、一人だと死ぬ」


画面には新しい通知が表示されていた。


`街区内会合の招集が提案されました`

`参加候補者:5`


会議室のガラス越しに見える夜の渋谷は、いつもと同じはずなのに、もう別の街に見えた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


助かったはずなのに、安心できる材料がひとつも増えていない。

あの感じが少しでも心に残ったなら、黒瀬理花の登場はきっと効いています。


この先も追ってもらえるなら、ブックマークや評価を置いてもらえると励みになります。

次は、ようやく味方候補がそろいます。

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