25,初めまして
私は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。泣き疲れて、いつの間にかそのまま眠ってしまったらしい。
しかし、顔を上げて「えっ?」と驚く。
鏡には私以外、何も映っていなかった。
慌てて振り向くと、そこは私の部屋ではなく、延々と暗闇が広がっていた。唯一置かれているのは、突っ伏して寝てしまっていたドレッサーと私が座っていた椅子だけ。
そして不自然に、そこだけライトに照らされていた。
「こ、ここは何処?夢……なの?」
キョロキョロと何もない空間を見回した後、再びドレッサーへと視線を戻すと――そこに写っていたのは私ではなく、優里の姿だった。
「えっ!?」
私は仰け反った後、慌てて手や髪を確認する。しかし、どう見ても白魚のような手や銀色の髪のまま。私が優里に戻ったわけではないらしい。
その時、鏡の向こう側に写る優里が鏡に手を添えた。
私が「ヒッ!」と悲鳴を漏らすも、ホラー映画のように優里が鏡から出てくるような気配はない。どうやらこれは自分の姿を映す鏡ではないようだ。
「初めまして。貴女が本当の優里さん……?」
鏡越しに聞こえてきた言葉にハッとした。私も慌てて同じように手を添えた。手の温もりは感じられず、無機質な隔たりに触れているだけ。
けれど、触れられないと分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。
「あ、貴女が……本当のレイーラ?」
「えぇ、そうよ。あの日、私は頭を打って意識を失ってしまって、貴女は川に突き飛ばされ溺れてしまって。そうして入れ替わった、レイーラだった者よ」
「そ、そうじゃない!貴女、あの後大丈夫だったの!?」
私は反射的に大きな声を出してしまう。そんな私を見て、彼女はふわりと笑った。
「ふふっ、聞いてくれる?その後に、貴女の話も聞かせてほしいわ」
優里の見た目をした、けれどレイーラの魂を得たその姿は、かつての自分よりもとても柔らかな雰囲気をしていた。
楽しげな姿を見て、彼女の心境に変化があったのは一目瞭然だ。それからレイーラ……いや、優里は、あの日から何があったのかを話してくれた。
川に落ちて沈んでいった優里は、たまたま通りかかった大学生の青年によって助けられたらしい。そのまま病院に搬送され、優里の意識はすぐに戻った。
しかし、突然レイーラから優里になってしまい、そして混在する二つの過酷な記憶に、優里は中々立ち直れなかった。
症状としては一日で退院出来たはずなのに、看護師との会話も碌に出来ない有様で、食事も一切体が受け付けなかった。精神面も健康面も不安視されたため、結果として一週間入院することになってしまったそうだ。
川に落ちた次の日、助けてくれた大学生の青年が、大学の帰りに見舞いに来てくれたという。
しかし、優里はその青年すら怖がってしまい、病院のベッドの上で体を震わせ拒絶を示してしまった。そんな優里を見た青年は何も言わず、静かに花束を置いて帰ったそうだ。
「あの人が立ち去ってから、花束が置かれていることに気付いたの。……涙が止まらなかった。命がけで助けてくれて、こんな素敵な花束まで持ってきてくれるような親切な人に、私はなんて惨めでみっともない対応しか出来ないのかと。この方はセズデス様とも、蓮弥とも違う。あの人達は、あんな風に助けてくれたりしない……。そう分かっていても、どうしても怖かった」
そう言って、優里は鏡の向こう側で俯いた。私は久々に蓮弥の名前を聞いて、思い返したくもなかった男の顔を思い出し、強く唇を噛んだ。
私はこちらに来てから、優里の魂らしく負けん気を燃やし、怒りを燃料として走ってきた。
しかし、レイーラの魂を持った優里を思うと、彼女が語ったような状態になっても仕方がない気がした。
いくら優里の記憶を受け継いだとしても、元々お淑やかで控えめな性格だった少女だ。多くの令息令嬢から理不尽な言葉や嘲笑を受けてきた彼女が、誰かを、特に男性を怖がっても不思議ではない。
「だから、まずは手紙を書くことにしたの。もう来てくれないかもしれないけれど、きっと面と向かって話すのはまだ難しいから……そう思って、手紙を用意したの。そしたら――」
そう口にした優里は、花が咲いたようにはにかんだ。
青年は次の日にも来てくれたようで、優里は何も話せず震えたままだったが、椅子の上に置いた手紙を必死で指さした。
青年は「この手紙は俺宛?」と問う。優里が頷くと青年はその椅子に座り、なんとその場で手紙を読み始めたのだ。
「それは……ちょっと恥ずかしかったんじゃない?」
「恥ずかしかったし、そわそわしたわ!どうしてそこで読み始めてしまうの!?って驚いてしまって、ずっとベッドの上でもじもじしていたもの」
優里は顔を覆った。耳の先まで赤らんでいるのが見え、相当照れたのだろうなと笑ってしまう。
優里は、助けてくれたことへの感謝と、今は人間が……特に男性が怖いから、こんな態度をとって申し訳ないという謝罪を手紙に書いた。
すると、青年は持っていた鞄からルーズリーフを取り出し、そのまま返事を書き始めたという。青年は書き終わると、優里が置いていたようにそこに紙を置いて立ち去っていった。
『あんなところを見たら、誰だって助けなきゃってなるだろうから気にしなくていい。本当に無事で良かった。あと、俺のことも怖いだろうに、こうして手紙を書いてくれてありがとう。川に落ちたことも、何か関係があるのか?俺は君の人間関係を知らないから、家族や友達に話せないことなら俺に話してみるのはどうだろう?また明日も来るから、もしよかったら返事を書いてくれたら嬉しい』
その手紙を読んで、再び優里は涙を流したという。
私は聞きながら、「そりゃあそのメンタルでそんなふうに優しくされたら、涙腺も決壊するわよね」と苦笑してしまう。
優里はその青年に伝えるため、これまでの出来事と気持ちを文章にした。そうすることで、レイーラと優里の入り交じった記憶を整理し、これまでの自分自身とも向き合えるようになったそうだ。
「貴女は名前のように優しくなりたいと思っていたんでしょう?けれど、何度考えても貴女の言葉は間違っていなかった。言い方は厳しかったのかもしれないけれど、正当な言葉だったもの」
「本当に……?」
「えぇ!あんな男に引け目を感じる必要なんてないって、私悔しくて、許せなくて……。それに、こちらの世界は家格の縛りもないんですもの。誰と付き合うかを自分で選べる世界なのに。さっさと別れてしまえばよかったのよ」
優里はむっとしたように頬を膨らませた。かつて見た映像の中の彼女からは考えられない起伏の変化である。
私は吹き出してから、「言われるかもと思っていたけれど、貴女だって大概じゃない!」と言い返した。お互いむすっとした表情で顔を見合せ、しかし暫くしてくすくすと笑い合った。
「だからね、私、全部公開してやったの。これまで貴女が何をされてきたのか、全部。――だから今、蓮弥は少年鑑別所に入れられているわ」
優里の告白に、私はぎょっとした。彼女がまさかそこまで出来るとは思っていなかったのだ。
「もう知っていると思うけれど、私は優しいんじゃなくて何も言えなかっただけ……諦めてしまっていただけだったの。けれど変わりたいって、変わらなくちゃって思ったの。彼が――諒一さんが支えてくれたから」
優里は顔を赤らめて、かつて自分が生きてきた記憶の中にはない名前を嬉しそうに呟いた。先程言っていた青年のことだろう。
きっと私と同じように、優里を助けてくれた人が現れたのだ。私は目尻に薄らと涙を浮かべ、何度も頷きながら優里の話を聞き続けた。




