第30話 返報性の悪魔
ずっと考えていたんだ、とアドヴェンは言った。冗談を言うなと一笑に付したいのに、俺の喉は震えるばかりで音を出してはくれなかった。
夕日が空を真っ赤に染め上げている。雲も、大地も、アドヴェンも、そして俺のことも。
ぽたりと一滴雫が落ちた。折れた刀身を握りしめている彼の右手から、黒い血液が流れていた。
「ハイドは優しい。見返りも求めず、他人を助けることに躊躇がない」
似た言葉を以前も聞いた。続く言葉も覚えている。……その言葉に、救われたからだ。
「その優しさは報われるべきだ。だから俺は、俺にできる全てでハイドを助けたいと思えるんだ」
「……それが、何だって言うんだ。さっきの言葉と何の関係がある」
「報われていないから」
いつの間にかアドヴェンからは表情が失せていた。ハルガラの森で見たあの顔が、俺という一個人の全てを見定めるかのように、一心に俺を見ている。
「ハイドは報われるべきだ。それなのに、どうしてハイドは苦しんでいる? きっと何かが間違っているんだ。だったら俺が正したい。ハイドがもう苦しまなくて済むように」
「アド、ヴェン」
「俺が貴方の苦しみをなくそう! 魔王が生じれば人々はまた手を取り合う。人間同士で争いあうことはなくなる。昔のように魔物を殺して、みんなに感謝されて、ハイドによって全ての人々が救われていく」
良くないことだ、と思った。再び笑顔を浮かべたアドヴェンが滔々と語る言葉を
「俺が次代の魔王になろう。貴方が望むなら、俺は人類だって滅ぼしてみせるさ」
俺は嬉しいと感じてしまっている。
魔王がどのように生じるのかなんて、人類は誰一人として知らない。魔王に《《なる》》ことが本当に可能なのかも、わからない。それでもこの男なら成してしまえる気がした。俺がほんの僅かに頷く、たったそれだけで。
新たな魔王が発生すれば、世界はまたあの頃のように魔物で溢れかえってしまうのだろう。そんな世界は人間同士で争う余裕なんてなくて、俺は正しい願いだけを叶え続けることができるのだ。
……アドヴェンの気持ちは、嬉しいよ。でも気持ちだけで十分だって、前にも俺は言ったよな。
「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか」
「もちろん、そのつもりだとも」
「お前がそうなったとして、村の人達はどうなる。世話になったとあれほど言っていたのに。騎士団の人達だって、核を差し出してでも助けようとしたのは、お前自身じゃないか。……彼らすらも、脅かすことになるんだぞ」
「うーん、そうなんだよなぁ。彼らにも親切にしてもらったのに、本当に残念だ。だけどハイドには代えられない」
俺一人を救うためだけに他の全てを犠牲にする。優しさに報いるなどと言いながら、この男はそんなことを口にする。それが当たり前のことだと錯覚するほど、平然と。与えられた優しさを返す手段として。
人間じゃないからだ。……魔物だからだ。
だからアドヴェンは俺に優しい。だから俺は、アドヴェンにそんなことをさせたくない。
「ありがとう、アドヴェン。でも俺はそんなこと望んじゃいない」
「なにもしなければ貴方は苦しんだままじゃないか。これからもずっと苦しいまま生きていくつもりなのか?」
「それでもいい」
「……良い案だと思ったんだがなぁ」
アドヴェンは困ったようにはにかんだ。それでも俺に差し出した剣を下ろすことはしなかった。
錆びて汚れて朽ちつつある剣が、刀身を握るアドヴェンの手を傷つけている。流れ出した血が彼の足元でゆっくりと広がっていく。いくら夕日に照らされたとしても、それが赤色に変わることはない。
そうだ! と唐突にアドヴェンが大きな声を上げた。この状況にあまりにそぐわない、明朗な声だった。
「止めたいと思うのなら、良い手段があるぞ。俺の核を壊せばいいんだ、ハイド。貴方にはその権利がある」
「やめる気は、ないんだな」
「こればかりは退けないなぁ。俺は貴方の助けになりたい。そのための最良の手段を、どうしても諦められない。何を捧げたっていいと思っているんだ、当然俺自身すらも」
ふざけるな、と思った。
俺に選択権を委ねて、自分の命を担保にして、それで俺を救えるとでも?
思い返せばコイツは最初からこういう奴だった。ルデウカに行きたいと喧しく付き纏ってきた挙句、居場所も命も何もかもを俺に押し付けて保護者だなんだとのたまいやがる。そうして「俺一人では何もできない」、「ハイドのおかげだ」と言いながら自分の我を通すのだ。魔物のくせに「貴方の助けになりたい」だなんて我儘を、こともあろうに勇者だった俺に向かって。
あぁそうだ、俺は最初からお前の保護者なんかじゃなかった。
お前なしでは成り立たなくなっているのは、俺の方だ。
「ハイドが気に病むことはないさ。それがハイドの選択なら、俺は自分の死だって喜んで受け入れることができる」
「……そうかよ」
「そうだとも」
本気であることの証明か、胸元から核を取り出してみせてもアドヴェンは身じろぎもせず、それどころか目を細めて俺の手の内を見ていた。あくまで俺に選択権を押し付けるつもりらしい。……だったら、俺にだって考えがある。
「わかった。そこまで言うのなら核を壊してやる」
「……あぁ、俺では駄目だったかぁ。ハイドの選択を否定するつもりはないが、やっぱり、死ぬのはちょっとだけ怖いな」
「安心しろよ。お前、俺を散々長旅に付き合わせてきたんだぞ」
お前、俺のためなら死んだっていいって言ったよな。お前は知らないと思うけど、俺だって同じ気持ちなんだ。
それなのに今更一人でどこかに行こうだなんて、させるものか。
「ここまで来たら、死出の旅だって付き合ってやるよ」
摘まみ上げられるほどの小さな球体を、落ちつつある夕日の赤を照らし返すこの男の命を。
見せつけるように、あてつけるように。笑顔の失せたアドヴェンの眼前で、呑み込んでみせた。




