第3話 この世で一番馬鹿馬鹿しいもの
それから瞬く間に二日が過ぎた。今日は王国騎士団の小隊がやってくる日だ。
今日だって俺はろくに家の外にでることもしないで、ただただベッドに横たわって過ごした。目を閉じてまた開けた頃には騎士団もアドヴェンもこの村からいなくなっているはずだった。そのはずだったのだ。
真夜中、叫び声が聞こえた。沢の方角からであった。
自慢じゃないが、俺は人よりずっと耳が良い。だから酒を食らって気を飛ばしている最中でもその微かな悲鳴を拾うことが出来たし、それがいつも巡回している騎士の一人のものだということにも気がついた。
助けないといけない。
頭の中で言葉が閃いた。気がついた時にはもう駆け出していた。
徒手空拳。服装は寝間着代わりのくたびれで、家から持ち出したものは響くような頭痛だけ。できることは限られているが、それでも俺は向かわなくてはいけない。
何が起こっているのか。誰が傷ついているのか。どのような被害が生じているのか。一つとして俺に分かることはないが、万が一にも良くないことが起きている可能性があるのなら、俺は向かわないといけない。
誰かが困っているのなら、助けないといけないからだ。
俺は助けないといけない。俺は助けないといけない。俺は助けないといけない。
深夜の冷えた空気が僅かに残っていた酔いの全てを奪い去っていった。先ほどまで聞こえていたはずの物音、悲鳴は今は微かに聞こえるばかりだ。事態はもう、終わりに進んでいる。
耳を澄ませば流れる水の音が聞こえた。血の臭いだけが頼りだった。
脇目も振らずに獣道を走り、ほとんど落ちるようにして斜面を駆け下りる。その最中、枝葉に遮られていた視界が唐突にパッと開き、キラキラと月光を弾く水面が現れた。
沢だ。
動いている生物はいなかった。いたのは、倒れた五つの人影だけだ。うちの四つは革鎧を身に着けていて、村にやってきていた騎士団の小隊であることがわかった。
しかし、特に俺の目を惹いたのは残る一つの影であった。その理由は直ぐにわかった。沢山の血が流れ出ていたからだ。伏した体躯があまりに大きいからだ。……見知った顔を、していたからだ。
「……アドヴェン」
アドヴェンが、俺の目の前で、死んでいる。
首元から胸部にかけて刻まれた裂傷は一目でそう確信できるほどに深かった。どれほど優れた治癒師だろうと彼を治すことはできないだろう。哀れではあるが、死んでしまっているのなら、他の人達を優先しなければいけない。
俺は目の前の死体から目を離した。周囲を見渡すために必要な動作だった。だから、
「……ハイド?」
見知った顔の死体から発せられた俺の名前を呼ぶ声に、
「丁度良かった。困っていたんだ、誰か来てくれないものかと」
ぼたりと滴り落ちていく鉄錆の臭いを振りまく水音に、
「助けてくれないか? 俺は人間を治したことがないから」
俺に向けられた期待に、願いに、望みに応えるために、
振り返る必要があったのだ。
「……アド、ヴェン」
「ああ! 俺だ。少し待ってくれないか、さすがにこのままでは喋りにくい」
死体が、死んでいたはずのアドヴェンが立ち上がっている。
抉り裂かれた胸元に、夜闇のような空洞があった。それは見る見るうちに蠢き、うねり、人間じみた皮膚に覆い隠されていった。その身に異常な現象が起きているというのに、アドヴェンの口調はどこまでも平坦で、いっそ笑えてくるほどに日常と変わらないのだ。
死んだ生き物は蘇らない。だからこいつは生き物ではない。生物でないなら、何か? ……魔物だ。
俺は咄嗟に地に落ちていた長剣を蹴り上げ、アドヴェンの喉元を貫いた。
魔物は殺さなければならない。それ以外のことは、殺してから考えればいい。
「……待ってくれと言ったのにいきなり刺すなんて、酷いな」
まだ喋るか。俺は首を差し貫いている直剣に力を込めた。両断してやるつもりだったのに、万力に挟まれているかのようにピクリとも動かなかった。
「お前、ちょっとでも人間のふりをするつもりがあるんなら、刺されたら死ねよ。見たことないぞ、人型の喋る魔物なんて。……ここで何をした? なんで騎士らが倒れてる」
「違う、俺じゃないんだ。説明させてくれ。話せば理解してくれるだろう、貴方なら」
「聞きたくない」
動かない直剣から手を放した。代わりに手を伸ばしたのは、アドヴェンの腰元に刺さったままの直剣。奪い去ると同時に身を翻し、よく喋る男の胴体を切り裂いた。二つに分かれた体はそのまま抵抗なく河原に落下し、べしゃりと重たい水音になった。
知りたくなかったよ。自分が、こうも容易く人間の姿をしている生き物を切り捨てられる人間だったなんて。
……なんて感傷に浸れる時間は、短かった。
「貴方に言われたとおりこの方達に頼んだんだ、俺を騎士団に入れて欲しいと」
声は足元から聞こえた。斬り口が闇色の何かに覆われて、元の姿を形どっていく。
身の丈ニメートルほどの巨躯と、害意の一つも感じ取れない穏やかな表情。ずたぼろになった平服の奥に、傷一つない綺麗な肌が見えた。
ゆっくりと立ち上がったアドヴェンが、月を背負って俺を見下ろしていた。
□ ■ □
「王国騎士団の方々と一緒に王都に行くことになったんだ。ハイド、貴方のアドバイスのおかげだ」
無傷の上にこの態度。俺を存在なんて歯牙にもかけていないとでも言うかのようだ。……いや、比喩ではないのかもしれない。刺しても殺せない。斬っても殺せない。今の俺ではきっと、この男には勝てない。
それでも俺が剣を突きつけ続けるのはただの虚勢であった。役割と言い換えてもいい。引くわけにはいかない。引けない。
「それで、少しでも俺にできる恩返しをしたいと思って、彼らの巡回を手伝っていたんだ。そうしたら魔物に襲われてしまって、このように」
アドヴェンから目を離さないまま、俺は慎重に周辺の様子を探った。……微かだが呻き声が聞こえる。生存者がいる。
「俺は貴方に害をなさない。だから倒れている騎士の方々を助けてやってくれないか」
「よくそんなことが言えたな。俺がお前を見逃す理由なんて、ただの一つもないんだよ」
「だが、逃げた魔物を追いかけなければ。村に被害を出すわけにはいかないだろ?」
逃げた魔物? お前以外に、これをやった魔物がいるとでも?
本心で言っているとはとても思えなかった。この場から逃げ出すための方便に感じられた。
ただ、事実として、この男に方便なんて不要だ。俺ではアドヴェンの行動を止められない。直感だが、確信でもあった。それほどまでに異質な存在だった。そんな男が会話を手段としている現状は、人類にとって紛れもない幸運だ。
「お願いだ、ハイド、剣を下げてくれ。あまり時間をかけたくないんだ。俺は村も彼らも助けたい」
「同感だよ。でも、お前が人間の敵かもしれない以上、引くことができないんだ。それが俺に望まれていることだから」
「うーん、……害意がないと、示せばいいのか?」
アドヴェンは両手を挙げて無抵抗の意思を表しながら、困ったように斜め上に視線を向けた。
この男が考え込んでいる間に次の行動を決めなくてはならない。
足元で小石同士が擦れる音が立った。遠く遠くで荒い呼吸が聞こえている。外気は冷たいというのに首筋に汗が流れていた。手が震える。頭痛がする。この状況を解決しなければならない。俺が、俺が、俺が、解決しなければならない。
急いていた。自分自身の思考が俺を追い詰めていた。とっくの昔からキャパオーバーだ。でも、たぶん、だからこそ、アドヴェンの奇行を受け入れることができたのだろう。
「じゃあ、俺の心臓を預けよう!」
疑問に思う暇すらなかった。
目の前の男が、ポケットを漁る程度の気軽さで、自身の胸部に腕を突き入れている。
「…………正気、かよ」
「人間は心臓が大事なんだろう。もちろん、俺にとっても大事なものだ。俺は人間の中身を知らないから、形までは模していないんだが」
ややあって、アドヴェンはずるりとその手を引き抜いた。その内に、陶器のようになめらかな質感の黒色の球体が握られていた。俺はこの物体を知っている。酷く見慣れたものだった。
この世界には魔物と呼ばれる存在がある。すべての魔物が核――人間でいうところの心臓に相当する部位を持っている。魔物を活動不能に至らしめる、唯一にして最大の弱点だ。
俺はこれまでに数多の核を破壊してきた。だが、このように目の前に差し出されるのは、初めてだ。
お前、意味を理解してやっているのか?
俺がコレを叩き落とすだけで、お前は死ぬんだぞ。
「俺達を襲った魔物を殺したら、必ずこの場所に戻ってくる。もし俺が夜明けまでに戻らなかったら、貴方の判断でその心臓を破壊してくれ。これなら信じられるだろう?」
「……俺が今すぐこれを壊すとは考えないのか?」
「それは、とても困る……。でも、貴方はきっとそんなことはしない。お願いだ、ハイド。俺に願いを叶えさせてくれ」
俺は返事をしなかった。だというのにあの男、笑顔を一層深くして、
「ありがとう! 必ず戻ってくるからな! 約束だ!」
そんな言葉を言いながら、あっという間に夜の森の中へと駆けていった。
残されたのは無理やり手の中に押し付けられた無機質な心臓と、それを間抜けに眺める俺だけ。夜の空気より冷たい球体は、何も言わずにただ月の光だけを返している。
約束? 馬鹿馬鹿しい。
さっさとこの核をぶっ壊して生存者を介抱しなければいけない。逃げた魔物とやらがアドヴェンの虚言でなかったとしても、俺が追いかけて始末すればいいだけの話だ。
理性ではよくわかっているんだ。人間のためにすべきこと。為さなければならないこと。俺は一もにもなくこの核を壊してしまうべきなのだ。
でも、お願いをされてしまったから。
がらんと重たい音が鳴った。剣を取り落とした音だった。
アルコールの抜けた俺の頭は、あんな怪しい男のお願いすらも断ることができないんだ。
正気の自分が正気でないこと。この世で一番馬鹿馬鹿しいのは、俺自身だ。




