第24話 その優しさに報いを
「アド、ヴェン……?」
ざり、と彼の革靴が割石の地面を擦った。汚れるのも厭わずに膝をついたアドヴェンが、座り込んだままの俺の顔を覗き込んだ。彼の表情に悪意は見えない。いつもの穏やかな双眸が真っ直ぐに俺だけを見ている。
「ハイドが背負う必要はないんだ。この村のことも、あの盗賊達のことも、もちろんマシュだってハイドには関係がない」
「関係がない、訳じゃない。俺は恵まれてこの世に生まれた。彼等を救う義務があるんだ。救えるのに救わないのは、罪だ」
「……勇者だから?」
「……勇者、だから」
「ああ、それだ!」とアドヴェンが笑った。合点がいって嬉しいと、そんな表情で、
「辞めてしまえよ」
……やめる?
「勇者なんて辞めてしまおう。ハイドはただのハイドでいい。そうすればもう誰の願いも聞かなくていいんだ、もちろん俺の願いですらも」
勇者を、辞める。
想像だにしなかった。誰一人としてそんなことを言う人間はいなかった。勇者であることを望まれていた。希望であることを願われていた。
アドヴェン、この男だけが、
「勇者でなければ盗賊達を見捨てたっていいし、村人らを殴りつけて無理に処刑を止めたっていい! ハイドのしたいようにできる。ハイドが苦しまないで済む」
勇者を辞めたらこの世界はどうなるのだろう。……きっと何一つ変わらない。村に引きこもっていた二年間は何事もなく過ぎ去った。勇者がいなくとも世界は上手にまわっていくと、本当はもう知っている。
でも辞められないんだ。人々の期待を裏切るのが怖いから。……俺が、どうしようもなく臆病だから。
「どうして、どうしてお前はそんなことを言えるんだ。皆が勇者を望んでるのに。希望を願っているのに」
「ハイド。貴方は優しい。そんな貴方が苦しむのは間違っていると、俺は思う。ハイドの優しさは報われるべきなんだ」
だから、勇者を辞めよう。
そう言って差し出されたアドヴェンの手を、俺はとることができなかった。
「無理だ。俺にはできない。分からないんだ、辞め方なんて知らない」
「うーん、確かに人は急には変われないと聞くなぁ。ああ、大丈夫だハイド! 大丈夫だとも」
微動だにしない俺の手の上に、アドヴェンの手が重なる。そのまま痛いくらいの強さで握られて、否応なしに引き上げられた。
「俺に貴方を救わせてくれ。ハイドはただ、在りたい自分で在ればいい」
揺れる篝火が優しげな笑顔を照らしている。至近距離にアドヴェンの顔がある。それでも、こんなに近くにいるのに、俺はこの男の心の内が分からない。「見捨ててしまえよ」と平気な顔で言ったこの男の真意に、自信が持てなくなってしまった。
アドヴェンのこの行為は、本当に優しさによるものなのだろうか。
□ ■ □
広場に集まった人間は皆一様に空を見あげていた。そこには夜空を切り抜く漆黒の狼の姿があった。
大の大人を一口で呑み込めてしまえるほどの巨体というのに、いつからそこにいたのかも分からなかった。この魔物が一歩目を広場に踏み出さなければ、気づきもせずに全ての事が終わっていたかもしれない。
二歩目は断頭台に下ろされた。組み上げてきた人々の努力は止める間もなく踏み砕かれてただの木屑に成り果てる。敷石が割れる。篝火が倒れ、漏れ広がった油が炎となって広場を染める。
けたたましい叫び声が上がった。集まっていた村人達は我先にと広場から逃げだした。狼の足先に鋤を振りかぶった勇敢な者は、邪魔だとばかりに払われて荷車にぶつかり静かになった。残っているのは、鎖に繋がれているせいで広場を離れられない盗賊達だけ。
笑い声、あるいは歯軋りに似た音が頭上で鳴った。闇色の狼の足が彼等に振り下ろされ、……割り込んだ俺の持っていたシャベルを、一撃で粉々に破壊した。
ふざけた真似をしやがって。
「勇、者様……?」
背後で吐息じみた声がした。振り返る余裕が、俺にはなかった。
頭部を撫でるように振るわれた二撃目を落ちていた手斧で受け止める。柄の部分が割れ刃先が石畳を跳ねた。使い捨てだな。幸い、村人らが持ち寄った武器とも呼べない刃物がこの辺りには沢山散らばっている。
手元に残った柄を狼の眼球目掛けて投擲した。身動ぎしている隙に鍬を手に取り、前脚に向かって強かに振り下ろす。狼が嫌そうに前脚を引っ込めた拍子に黒い血液が舞った。大した傷ではなさそうだ。図体に対して傷が浅い。
もっと大きな刃物はないか。燃え盛る火に照らされた広場を見渡した俺の目に、良いものが映った。次の瞬間、狼の左足が俺の真横の敷石を易々と踏み砕く。
飛び散る石片を受け入れながら広場を駆けた。目指すは中央、ぐしゃぐしゃに砕かれた木片の中。幸運にも形を残していた断頭台の刃を引き抜き、大きく上体を捻りながら喉元に向かって投げ放つ。
ぞぶりと肉が斬れる不快な音と共に血液が雨のように広場に降った。刃の刺さる喉元を晒しながら後退した狼が、しかし体勢を立て直し前脚を広場へと叩きつける。まだやるつもりかよ。
下ろされた前脚を足場に駆け上がった。その勢いのまま棍棒を振りかぶり、喉元に刺さる刃へと
「これで終わりにしようか」
押し込まれた断頭台の刃が、狼の首を両断した。
跳ね飛んだ首がぎしぎしと歯軋りをする。それきり、狼が動くことはなく。
ヨッダ村を襲った闇色の大狼は、現れた時と同じ静けさで、ばしゃりと弾けて夜に溶けた。




