第15話 麦穂の海に舟
ヨッダ村に着いたのは未明であった。アルルテートから休みなく歩き続けて約六時間。幸い魔物と遭遇することはなかったが、それでも疲労を感じるには十分すぎる行程だ。そんじょそこらの人間よりずっと頑丈な俺でもくたくただというのに、
「ここがヨッダ村か。ここのところ大きな町ばかり見ていたから、広い畑があると安心する。あれはライ麦だろうか? もう一月もすれば収穫時期だなぁ」
相変わらずのアドヴェンを見ていると、この世の理不尽さを強く感じる。魔物のくせに郷愁じみたことを言いやがって。
「畑を見るついでに、使われて無さそうな小屋でも見つけてくれよ。流石に休みたい」
「村の中心にいけば宿場でもあるんじゃないか? なにも空き家で休まずとも」
「なるべく人に会いたくないんだよ。……ここにはちょっと、長くいたことがあるから」
当時だって人間より魔物とばかり顔を合わせていたとはいえ。勇者の顔を覚えている人間は少なくないだろう。……あの頃からかなり人相は変わっているだろうが、用心に越したことはない。
「それで深くフードを被っているのか! そう心配せずとも、ガルドー氏の屋敷でやっていた笑顔と今のハイドの顔とはとても似つかないぞ。目つきも悪いし、眉間にも皺が寄っているし。気づく人間なんていやしないさ」
「お前のそれ、励まし風の罵倒だからな」
自覚はあるし、事実ハルガラでもアルルテートでも気付かれなかったけれども。絵本の中の王子様などという尾ひれまみれの噂のおかげかもしれない。感謝するにはいささか癪だ。
「馬鹿な事言ってないで早く探してくれよ。人間の目は闇に弱いんだ」
「もちろん探してはいるが、……」
遠くを見渡していたアドヴェンの動きが止まった。彼の目は一方の闇を見つめていた。
「……荷馬車だ。荷馬車が動いている」
「こんな時間に? 夜は出ないんじゃなかったのか」
「アルルテートの御者はそう言っていたなぁ」
耳を澄ませると、小さくはあるが確かに車輪の軋む音が聞こえる。俺の目には夜の闇しか見えないが、アドヴェンが言うからには本当に荷馬車があるのだろう。
行きか帰りかは分からない。ただ、丁度自分で歩くのが面倒になってきたところだ。
「捕まえよう。これが王都行きなら渡りに舟だ」
アドヴェンの示す先へ進むと、程なくして一輛の荷馬車の影が現れた。一頭建ての小さな荷馬車であった。
奇妙なことにその馬車は灯りの一つも吊り下げず、朧気な月明かりのみを頼りに動いている。どおりでここまで近づかないと分からないわけだ。
……この暗い中、灯りもつけずに?
まぁいいか。俺やアドヴェンをどうこうできる人間はそうはいまい。怪しいのはお互い様だ。
「声をかけてきてくれ。俺よりお前の方が第一印象が良い。……丁寧にな」
「ああわかった。追い剥ぎだと思われないようにしないとな!」
おおいとアドヴェンは声を上げながら大きく手を振った。カンテラを持っている方でやったせいで、ガチャンガチャンと金具が喧しい音をたてた。
途端に一際大きく鳴る車輪と激しい馬の息遣い。俺達に気づいて止まった馬車に、アドヴェンは疚しさの一つも感じさせない足取りで近づいていく。
「こんばんは。おはようございます。アドヴェンと申しますが」
例によって絶妙なラインの挨拶だ。
「こちらは王都行きでしょうか? 乗せてほしいです。二人です」
アドヴェンに数歩遅れて馬車に向かうと、ようやく御者台に座る人物の姿が視界に入った。そこには年若い男性が、いや、少年が座っていた。
アドヴェンのカンテラが少年の顔を照らし出す。急に現れた大男を恐れているように見えた。
「なんだよ、アンタら。盗賊か」
少年はすこぶる怪しい大男に向かって古びた鉈を突きつけながら、
「ガキだと思って見くびるなよ。おれに手を出したら容赦しないぞ」
「盗賊じゃないです。ルデ、……行きたくて。場所に。あぁ、いや、王都に。乗せてほしいのですが」
……十分素晴らしい第一印象を与えられたと思うので、彼らの会話に割り込むことにした。もう二度とアドヴェンに敬語を喋らせることはないだろう。
「悪かった。彼は記憶喪失で、ちょっと敬語が苦手なんだ。俺達は王都まで旅をしている。見ての通り徒歩なもんで、乗りあえる馬車を探してた。用心棒でも雑用でも請け負うから、乗せてもらえないだろうか」
「……そっちが保護者かよ。このでかいやつをフラフラさせんな。別に怖いわけじゃ、ないけど」
保護者じゃない。が、訂正するのも面倒だな。
「王都か」と独り言ちた少年は、鉈を下ろさないまま俺とアドヴェンとを交互にじろじろ眺めた。害意がないことを示すために手のひらを見せると、ちらりと俺を見たアドヴェンもまた同じことをした。……お前、意味もわからないまま真似ているだろ。
「……まぁ、いい。乗せてやるよ。その代わり、大変なことが起きた時はこきつかってやるからな」
「あぁ、車輪がぬかるみに嵌ろうが賊が出ようが、なんだって助けてやるよ」
礼を言って荷台に乗り込むと、俺達が腰を下ろすのも待たずして少年が手綱を揺らした。ぎぎぃと荷台が重いとでも言うかのように軋みをあげる。馬車はゆっくりとヨッダ村から離れていく。
これでヨッダ村には寄ることもなくなった。残念がるほどの思い入れがあるわけじゃない。ただ、かつてより大きく広がったライ麦畑の風景をよく覚えておこうと思った。俺は平和をもたらしたのだ。そのはずだ。
夜風で麦の穂が一斉に揺れた。頷いているようにも、首を振っているようにも見えた。




