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黒針、天を穿つⅥ-Ⅰ

いろいろと設定練ってたら思った以上に長くなってしまったので

切りのいいところ小分けにしてます。

黒針、天を穿つⅥ-Ⅱに関してはⅠの1時間後か翌日に投稿しようと思います

黒い針が出現してから、一か月が過ぎた。


 それは混乱が収まったという意味ではない。人々の暮らしの中へ、混乱そのものが組み込まれ始めたというだけだった。


 朝のニュースでは、天気予報や交通情報と並んで、全国各地に存在する黒い針の規制状況が伝えられるようになった。新たに確認された内部構造、未知生物との遭遇、立入禁止区域へ侵入した者の摘発。どの放送局も連日のように特集を組み、限られた映像を前に、専門家たちは黒い針の正体について議論を続けている。


 政府関係者の間で暫定的に使用されていた「針の孔」という呼称も、今では一般にまで広まりつつあった。その一方、インターネット上では、もっと単純で馴染みのある呼び方が定着している。


 ――ダンジョン。


 政府は現在も、その表現を公式には使用していない。未知の空間を創作物に登場するものと同一視すれば、危険性を軽視する者が増える可能性があるからだ。


 もっとも、政府がどれほど慎重に言葉を選んでも、人々が何と呼ぶかまでは制限できない。地上からでは想像できないほど広い内部空間が存在し、奥へ進むにつれて明らかに区切られた構造が現れる。そこには現実の生態系では説明できない生物が棲み、倒された個体は死体を残さず、黒と白の光粒子となって消失する。


 それだけの情報が揃えば、「ダンジョン」という言葉が広まるのは避けられなかった。


 動画配信サイトには、政府が公開した調査映像を分析する動画が無数に投稿されている。SNSでは、未知粘性生物の弱点や行動条件について、研究機関の発表から根拠のない噂まで、さまざまな情報が入り乱れていた。


 それでも、人類が実際に把握している範囲は、入口からそう遠くない。


 政府と研究機関は、安全性を確認しながら慎重に調査を進めている。内部環境、通信手段、未知生物の生態。そのどれか一つでも判断を誤れば、調査隊全体が危険に晒される。社会が黒い針の存在に慣れ始めた一方で、その内側にあるものについては、依然として分からないことの方が圧倒的に多かった。


 そんな世間の騒ぎから切り離されたように、横浜市内にある境井家の道場には、木刀が空気を裂く乾いた音が響いていた。


 板張りの床を滑る足音に続き、一歩の踏み込みとともに木刀が振り下ろされる。切っ先は打ち込み台の頭部へ触れる寸前でぴたりと静止した。


 境井彼方は数秒間その姿勢を保ち、静かに息を吐いた。


 重心を後ろへ戻して構えを解くと、今度は右足を前へ置き、左足を半歩後ろへ引いた。正面から見れば肩幅よりわずかに狭い立ち方だったが、前後左右のどこへでも動き出せるよう、足裏へかかる力は細かく調整されている。


 再び木刀を振る。


 踏み込みとともに鋭く振り抜き、相手へ触れる寸前で止める。そのまま間を置かずに足を入れ替え、別の角度から切っ先を走らせた。単純な動作を繰り返しているように見えて、同じ動きは一つとしてない。足の置き方を数センチ変え、腰の回転を抑え、次は逆に肩の動きを遅らせる。木刀の軌道や速度だけを確認しているのではなく、頭の中にある動きへ、現在の身体がどれほど正確についてこられるのかを一つずつ確かめているようだった。


 彼方は高校一年生としては平均的な体格をしている。肩幅が特別広いわけでも、衣服の上から分かるほど筋肉が発達しているわけでもない。


 しかし、それは彼が鍛えていないからではなかった。


 境井家が営む道場は、単に地域で名が知られているという程度の場所ではない。小学生から高校生まで多くの門下生が通い、毎年のように全国大会へ進む選手を輩出している。個人戦の優勝者や入賞者も少なくなく、強豪校から声を掛けられる者や、年代別の強化選手へ選ばれる者も珍しくなかった。


 指導方針は、ただ厳しく打ち込ませるというものではない。足運び、姿勢、呼吸、間合い。勝敗以前に必要となる基礎を徹底して身体へ染み込ませ、体格や力の差だけに頼らず戦える技術を育てる。派手さはないが、その積み重ねが毎年の実績へつながっていた。


 彼方も幼い頃から、その環境の中で身体を動かしてきた。同年代と比べれば十分に鍛えられている。それでも、全国大会へ出場する選手のような、ひと目で強さを連想させる体格ではなかった。


 だが、その動きだけは、境井家の門下生たちと比べても明らかに異質だった。


 速いというより、早い。


 木刀が動き出してから速いのではない。何かが起こるより先に、すでに必要な場所へ身体が置かれているような早さだった。


 踏み込みの直前まで、力の流れが外へ出ない。視線も、肩も、腰も、次の動作を示す兆候をほとんど見せない。それでいて一度動けば、足から腰、肩、腕へと力が途切れずにつながり、木刀の切っ先へ集約される。


 最後の一振りを止めた彼方は、右腕を軽く回した。


「……やっぱり、まだ違和感があるな」


 痛みがあるわけではない。自分の身体であることにも間違いはなかった。


 それでも、頭の中に残る動きと、現在の肉体が行う動きとの間には、ほんの僅かなずれが存在する。知っている速度へ届かず、耐えられるはずの負荷に筋肉が先に悲鳴を上げる。動き方を知っていることと、その動きを完全に再現できることは別の問題だった。


「ねえ」


 道場の入口から声を掛けられ、彼方は木刀を肩へ担いで振り返った。


「何?」


「何、じゃない。人を呼びつけておいて、ずっと一人で振ってるのやめてくれる?」


 入口に立っていた少女が、呆れたように眉を寄せている。


 水城凛。彼方より一つ年下の中学三年生であり、幼い頃から境井家へ頻繁に出入りしてきた幼馴染だった。道場の勝手も彼方の性格も、家族に近いほどよく知っている。


 活発に場を引っ張るような性格ではないが、物静かに引っ込んでいるわけでもない。必要なことははっきり口にし、嫌なことは嫌だと言う。特に彼方に対しては、遠慮というものがほとんどなかった。


 凛は両腕で黒いケースを抱えている。肩まで伸びた髪がわずかに乱れており、ケースが見た目以上に重いのか、道場へ入ると小さく息を吐いた。


「頼まれてたやつ、持ってきた」


「完成したの?」


「見れば分かるでしょ」


「見てもケースにしか見えないけど」


 凛はその場で踵を返しかけた。


「じゃあ帰る」


「冗談ですやん。ありがとうございます」


「急に変な喋り方するな」


 凛は呆れたように返しながらも、本気で帰るつもりはなかったらしい。道場へ上がると、板張りの床を傷つけないよう、抱えていたケースを静かに置いた。


 彼方が近づこうとすると、凛は留め具へ手を掛けたまま顔を上げる。


「汗拭いてから来て」


「そんなにかいてないだろ」


「木刀を振った手で触らないでって言ってんの」


「はいはい」


「返事が軽い」


 彼方が壁際のタオルで手と額を拭いている間に、凛はケースの蓋を開いた。


 内部に収められていたのは、四枚のプロペラを折り畳んだ小型ドローンだった。


 市販品とは外観からして違う。大きさは両手を並べた程度で、機体には余計な装飾がない。中央部に小型カメラが埋め込まれ、その周囲を衝撃から守るための保護フレームが囲んでいる。四方へ伸びるアームの先端にも小さなガードが取り付けられ、上部には複数のセンサー、側面には交換式のバッテリーが収められていた。


 全体的に無骨な外観ではあるが、素人が適当に部品をつなぎ合わせたものには見えない。


 彼方はドローンを覗き込み、素直に感心した。


「これ、全部一人で作ったのか?」


「そうだけど」


「すごいな」


「今さら?」


「見るたびに更新されるから」


「褒めても値引きはしないよ」


 彼方は機体の構造を眺めながら尋ねた。


「これ、トータルいくらくらい?」


「部品代だけで八万ちょっと。前に使った余りのパーツも入ってるから、全部新しく買ってたら十万は超えてる」


「思ってたより本格的だった」


「頼んだ本人がそれ言う?」


「あとで払うよ」


「当たり前でしょ。私だって部品を錬成したわけじゃないんだから」


「分割でもいい?」


「おじさんに請求する」


「それはやめて。絶対、何に使うのか聞かれる」


「だったら自分で払って」


「はい」


 彼方が素直に頷くと、凛は満足したように機体を持ち上げた。


「前に言ってた機能は全部入れた。場所を登録すれば、その地点で待機。追尾対象を登録すれば、一定距離を保って自動追跡する。障害物の回避と録画もできるし、通信がある場所なら映像を外部端末へ送れる」


「通信がない場所だと?」


「本体のストレージに保存。通信圏内へ戻った時点で、自動的にスマホへ転送するようにしてある。ただし、本体ごと壊れた場合は知らないからね」


「壊れにくくはしてくれた?」


「市販品よりは。でも、絶対に壊れないものなんて作れない。壁へ全速力で突っ込ませても壊れるし、水へ沈めても壊れるし、高いところから落としても壊れる」


「飛ぶものなのに、落ちる前提なんだな」


「何に使うつもりか分からないから、最悪を想定して説明してるの」


 凛はそこで説明を止め、彼方の顔をじっと見た。


「それで?」


「何が?」


「何に使うの?」


「稽古の撮影」


「嘘」


 彼方が答え終えるより早かった。取り繕う余地すら与えられない。


「どうしてそう思うんだ?」


「稽古を撮影するだけなら、指定地点で待機させる機能なんて必要ないでしょ。自動追尾と録画だけで足りる」


「屋外で稽古するかもしれない」


「屋外のどこで?」


「山とか」


「なんで山で稽古するの」


「自然の中で身体を動かしたい日もあるだろ」


「だったら、最初からそう言えばよかったでしょ」


「言ったら作ってくれなかったかもしれないし」


「今の答えで余計に怪しくなったんだけど」


 凛の目が細くなる。


 彼方は視線を逸らし、ケース内に収められている予備バッテリーを確認した。


「操作はスマホ?」


「話を逸らすな」


「使い方を教えてくれないと、せっかく作ったのに使えないだろ」


「……そういうところだけ妙に頭が回るよね」


「褒められた?」


「褒めてない」


 凛は不満そうにしながらも、自分のスマートフォンを取り出した。


「専用アプリを作った。先に接続だけ済ませる」


「アプリも作ったのか」


「市販のじゃ細かい設定ができないから」


「本当にすごいな」


「だから今さらだって」


 彼方の端末へアプリを入れ、ドローンとの接続を始める。凛の指は画面上を迷いなく動き、彼方には意味の分からない数値や英字が次々と表示されていった。


 設定が終わると、スマートフォンに簡素な操作画面が現れた。機体との接続状態、バッテリー残量、待機地点の登録、自動追尾、録画開始、撮影距離、帰還指示。必要な項目が一画面へ分かりやすくまとめられている。


「追尾対象は、一度顔を登録すればいい。ただし、顔が隠れた場合は服装、身長、体格、動き方を組み合わせて追跡する。似た人間が複数いたら、近い方を優先する設定」


「顔が隠れても追えるんだな」


「頼んだのそっちでしょ」


「そうだったか?」


「顔を映したくない場合も追跡できるようにしてって、わざわざ指定した」


「よく覚えてるな」


「まだ一週間も経ってない」


 凛は彼方の顔を睨んだ。


「やっぱり、絶対に何か隠してるでしょ」


「隠し事の一つや二つ、誰にでもある」


「私が作ったものを使ってやることなら、こっちにも知る権利があると思うんだけど」


「そのうち教える」


「今教えて」


「ちゃんと帰ってきたら」


 口にしてから、彼方は失敗したと思った。


 凛の表情が明らかに変わる。


「帰ってきたら、って何?」


「言葉の綾」


「彼方」


「大丈夫。危ないことはしない」


「その言い方をする時、だいたい危ないことするよね」


 幼い頃から一緒にいる分、声色の僅かな違いまで知られている。


 彼方は答える代わりに、ドローンへ手を伸ばした。


「とりあえず飛ばしてみよう」


「誤魔化した」


「動作確認は必要だろ」


「……あとで絶対に聞くからね」


 凛は納得していなかったが、それ以上は追及せず、ドローンを道場の中央へ置いた。


 機体上部の電源を入れると、折り畳まれていた四本のアームがゆっくり開く。プロペラが回転を始め、低い駆動音とともに機体が床から離れた。


 最初はわずかに揺れていたが、数秒後には二人の頭より少し高い位置で静止する。道場内に弱い風が生まれ、床の隅に落ちていた埃が僅かに動いた。


 彼方が右へ歩く。


 ドローンはその場に残った。


「追尾を押して」


 凛に言われ、スマートフォンの自動追尾をタップする。機体正面のランプが白から青へ変わった。


 彼方が再び右へ動くと、今度はドローンも同じ方向へ移動した。一定の距離を保ちながら、カメラだけが彼方の身体を捉え続けている。急に左へ切り返しても、僅かに遅れながら追従してきた。


 彼方が木刀を構えると、機体は全身を画角へ収めるように少し後退する。


「おお」


「室内で振り回さないでよ」


「当てないって」


「当てる人は全員そう言う」


「信用ないな」


「日頃の行い」


 彼方が木刀を振り上げるふりをすると、ドローンはその場で高度を上げ、木刀の軌道から外れた。


「避けるのか」


「高速で動くものを検知したら、進行方向から退避するようにしてある。ただ、近距離から急に振られたら間に合わないからね」


「なるほど」


 彼方は木刀を下ろす。


「これなら稽古も撮れそうだな」


「だから稽古以外に使うでしょ」


「疑い深いな」


「疑われることしか言ってないから」


 凛はスマートフォンを操作し、ドローンを床へ着陸させた。機体が静かに降りると、プロペラの回転も止まる。


「動作確認は終わり。説明書も作ったから、読んでから使って」


 ケースから薄い冊子を取り出し、彼方へ差し出す。


「説明書まで?」


「口で説明しても、どうせ半分くらいしか覚えないでしょ」


「読んでも半分くらいしか覚えないかも」


「じゃあ返して」


「冗談」


 彼方は素直に冊子を受け取った。


 凛はドローンをケースへ戻そうとしたが、その途中で道場の端に置かれた木刀へ目を向けた。彼方が使っていたものとは別に、壁際の木刀掛けには何本もの木刀が整然と並べられている。


「……ねえ」


「何?」


「さっきから見てたけど、動きが少し変じゃない?」


「変?」


「悪くなったって意味じゃなくて。前より滑らかになってるのに、ところどころ身体が追いついてない感じ。自分で無理やり止めてるみたいな」


 彼方は僅かに目を見開いた。


 本人が感じていた違和感を、凛は外から見ただけで言い当てていた。


「よく分かったな」


「何年見てると思ってんの」


 凛は壁際へ歩き、木刀を一本取った。数度軽く振り、握りや重さを確かめてから彼方へ向き直る。


「久しぶりに一本やる?」


「その格好で?」


「今日はジャージ。帰りに部活へ寄る予定だったから」


 凛は木刀を右手に持ち、道場の中央へ歩いていく。


 その瞬間から、立ち姿が変わった。


 凛は、中学生女子の全国大会で優勝を狙える選手だった。年代別の大会では何度も上位へ入り、年上の高校生と稽古をしても互角以上に戦える。境井家の門下生の中でも、技術と勝負勘の両方を高い水準で備えた選手として認められていた。


 才能だけではない。幼い頃から積み重ねてきた稽古量が、構えを見ただけで伝わってくる。木刀を握る手に余計な力は入っておらず、肩は自然に落ち、膝はいつでも動ける程度に緩められている。視線は彼方の顔だけを追わず、肩や腰、足元まで捉えられる位置に置かれていた。


「身体を慣らしたいんでしょ?」


 凛が言った。


「だったら打ち込み台より、人を相手にした方が早い」


「手加減してくれる?」


「私が?」


「そっちが」


「必要ないでしょ」


「怪我しても知らないぞ」


「そういう台詞、一度くらい本気で言わせてみたい」


 彼方は肩へ担いでいた木刀を下ろし、凛と向かい合った。


 二人の距離は約四メートル。


 凛は中段に構える。彼方は右手だけで木刀を持ち、先端を床へ向けた。構えとも呼べない姿勢だった。


 凛の眉が動く。


「片手?」


「両手の方がいいか?」


「舐めてんの?」


「身体を慣らすだけだからな」


「分かった。絶対に後悔させる」


 凛の声は落ち着いていたが、その目には明らかに火がついていた。


「一本取ったら終わり?」


「三本」


「長くないか?」


「文句言わない」


「はいはい」


 二人は互いに一礼した。


 頭を上げた瞬間、それまでの軽い会話が道場から消える。


 凛の呼吸が浅くなった。身体全体は静止しているように見えるが、足裏では細かな重心移動が続いている。対する彼方は、木刀を下げたまま動かない。


 凛は大きく踏み込まず、床を滑るように前足を送った。彼方がどの距離で反応するのかを探りながら、少しずつ間合いを詰めていく。


 彼方は動かない。木刀も上げない。


 さらに半歩。


 凛はその位置から一気に床を蹴った。


 鋭い踏み込み音が道場へ響く。中段に構えられていた木刀が、彼方の面へ向かって一直線に伸びた。


 速い。


 全国大会で上位へ進む選手でも、初見なら反応が遅れるほどの速度だった。


 彼方は木刀で受けなかった。首を僅かに傾け、右足を半歩だけ後ろへ引く。凛の木刀が鼻先を通過する。


 避けられたと認識するより先に、凛は手首を返して横薙ぎへ移った。動作のつながりに迷いがない。


 彼方は身体を沈め、木刀の下をくぐった。


 凛は振り切らず、左足を踏み替えて軌道を止める。木刀を引き戻しながら間合いを切り、二人の距離が再び開いた。


「今の避け方、危なくない?」


 凛が尋ねる。


「当たらないから大丈夫だ」


「そういう話じゃない」


「右手に少し力が入ってたぞ」


「……何?」


「最初の面。打つ前に右肩が浮いた」


 凛の視線が自分の右肩へ向きかけ、すぐに彼方へ戻る。


「誘導しようとしても無駄」


「本当に浮いてたんだけどな」


「もう一回」


 凛は再び前へ出る。今度は先ほどより踏み込みを抑え、同じ面を警戒させながら、彼方の右手へ木刀を落とした。


 小手。


 軌道が変わっても、彼方の表情は動かなかった。


 下げていた木刀を内側から持ち上げ、凛の木刀へ軽く触れる。強く打ち返したわけではない。凛が振り下ろす力に横方向の力を僅かに加え、軌道を数センチだけ変えた。


 木刀が彼方の手首の脇を通過し、凛の身体が前へ流れる。その額の前へ、彼方の木刀が静かに置かれた。


 触れてはいない。


 だが、実戦ならば終わっていた。


「一本」


「今のなし」


「なんで?」


「まだ始めたばっかり」


「一本取られた事実は変わらないだろ」


「次」


 凛はすぐに構え直した。


 悔しさは表情へ出ている。しかし感情に任せて突っ込んではこない。今のやり取りを頭の中で分析し、同じ方法で崩されないための修正を始めている。


 それができるから、全国で勝てる。


 凛は木刀の先端を僅かに下げた。彼方と同じような構えだった。


「真似か?」


「確認」


 凛が踏み込む。


 今度は一撃で決めようとせず、木刀を彼方の正面へ置いたまま、身体だけで距離を詰めてきた。彼方が木刀に触れた瞬間、軌道を変えるつもりなのだろう。


 彼方は後ろへ下がり、凛が追う。二人の足が、板張りの床をほとんど音も立てずに移動していく。


 彼方の背後へ壁が近づいた。


 凛の目が僅かに細くなる。退路を奪うことが目的だった。


 さらに一歩踏み込み、凛の木刀が彼方の喉元へ伸びる。彼方は避けず、左手で木刀の峰へ触れて外側へ押した。


 凛は押された力へ逆らわない。その勢いを利用して手首を返し、横薙ぎに切り替えた。


 彼方の首を狙った木刀が届く直前、彼方は凛の懐へ踏み込んだ。間合いが潰れ、木刀を十分に振り切れなくなる。


 彼方は右肩で凛の腕へ軽く触れ、身体の軸をずらした。凛の右足が床から浮く。倒れないよう左足へ体重を移そうとした瞬間、その足元へ彼方の右足が置かれた。


 逃げ場を失い、凛の身体が傾く。


 彼方は左手で肩を支え、転倒する前に止めた。


「二本目」


「木刀使ってないじゃん」


「戦闘だからな」


「剣道の一本勝負でしょ」


「一本勝負とは言ったけど、剣道とは言ってない」


「ずるい」


「確認しなかった方が悪い」


 凛は彼方の手を振り払い、体勢を整えた。


「あと一本」


「まだやるのか?」


「三本って言った」


「そうだったな」


 彼方は最初の位置へ戻る。


 凛は深く息を吐いた。最初の二本で、自分と彼方の間にある差を理解している。それでも諦める様子はなかった。むしろ、先ほどまでよりも目が澄んでいる。


 勝つためだけではない。今の自分がどこまで通じるのかを確かめようとしていた。


 彼方は、それまで片手で下げていた木刀を両手で握った。


 右手を鍔元へ、左手を柄尻へ添える。木刀をゆっくりと身体の正面へ運び、切っ先を凛の喉元へ向けた。右足を僅かに前へ出し、腰を落とす。


 ただ、それだけだった。


 大きく踏み込んだわけではない。木刀を鳴らして威嚇したわけでもない。彼方の表情も変わっていない。


 それなのに、凛の背筋へ冷たいものが走った。


「……え?」


 知らず、声が漏れる。


 空気が変わったわけではない。道場の温度も、明るさも、音も、それまでと何一つ変わっていなかった。


 変わったのは、彼方だけだった。


 いや。彼方が変わったと感じること自体が、おかしいのかもしれない。


 目の前に立っているのは、幼い頃から何度も稽古をしてきた相手だ。ふざけた口調で話し、面倒な頼み事を押しつけ、一つ年下というだけで凛を子供扱いする、いつもの彼方である。


 それでも今は、同じ人間には見えなかった。


 凛はこれまで、多くの強者と向き合ってきた。全国大会の決勝で戦った相手、高校生の強化選手、境井家の師範代、自分より体格も経験も上の大人。対峙しただけで圧力を感じる選手もいたし、構えを見ただけで容易には打ち込めないと分かる相手もいた。


 だが、これは違う。


 強い。速い。隙がない。


 そんな言葉で説明できる感覚ではなかった。


 一寸先が、突然断崖絶壁へ変わったようだった。


 一歩でも踏み出せば、足場が崩れる。木刀を動かせば、その瞬間に首を落とされる。呼吸を乱せば、そこへ刃を差し込まれる。


 彼方は何もしていない。それなのに、凛の身体は勝手に「動くな」と警告していた。


 試合で感じる緊張ではない。負けるかもしれないという不安でもない。


 動けば殺される。


 そんな、現代の道場では知るはずのない原始的な恐怖だった。


 凛の手のひらに汗が滲み、木刀を握る指へ無意識に力が入る。


「急に本気?」


 どうにか声を絞り出す。


 彼方は木刀を構えたまま答えた。


「三本目だからな」


「最初からそうしなよ」


 普段どおりに返したつもりだったが、声が僅かに震えた。


「少しは身体も慣れてきた」


 彼方は淡々と言った。


 凛は唾を飲み込み、呼吸を整える。


 怖い。


 それでも、退くつもりはなかった。


 自分は全国で勝つために稽古を続けてきた。目の前に、自分の知らないほど強い相手がいるのなら、何もせず終わる方が耐えられない。


 凛は木刀の先端を僅かに下げた。正面から打っても届かない。単純な速さでも上回れない。


 ならば、一手目で反応を引き出し、二手目で姿勢を動かし、三手目を本命にする。彼方がどれほど強くても、身体は一つしかない。


 凛は床を蹴った。


 正面へ踏み込むと見せ、途中で右へ身体を流す。彼方の剣先を外側へ誘い、その隙に左側から胴を狙った。


 彼方の木刀が動く。


 凛はその瞬間、さらに軌道を変えた。


 胴は囮。本命は小手。


 最初から三段階まで組み立てた連続技だった。全国大会でも何度も相手を崩してきた、凛の得意とする攻めである。


 木刀が彼方の右手へ迫る。


 届く。


 そう確信した瞬間、彼方の姿が視界から外れた。


 後ろへ下がったのではない。前へ出ている。


 凛の攻撃より早く、木刀の外側へ踏み込んでいた。


 彼方の左手が凛の右手首を掴む。正面から力で止めるのではなく、凛自身の前進を利用して腕を身体の外側へ流した。


 凛の上体が引かれる。


 踏み止まるより早く、彼方が背後へ回った。


 首筋へ冷たい気配が触れる。


 木刀の先端が、皮膚へ届く寸前で静止していた。


 道場から、音が消えたように感じた。


 凛は木刀を持ったまま動けない。ほんの僅かでも彼方が腕を動かしていれば、勝敗では済まなかった。


「三本」


 彼方の声とともに、先ほどまでの気配が消えた。


 張り詰めていたものが切れ、凛は大きく息を吸った。止まっていた肺が、ようやく動き出したような感覚だった。


 彼方が手首を離す。


 凛は振り返り、信じられないものを見るように彼方を見つめた。


「……何、今の」


「何って?」


「とぼけないで。今までと全然違った」


「少し真面目に構えただけだ」


「あれを少しで済ませるな」


 凛は自分の胸元を押さえる。心臓が速い。全力で打ち込んだせいだけではない。


「本気で、動いたら死ぬかと思った」


「木刀で殺したりしないぞ」


「そういう意味じゃない!」


 彼方は困ったように頬を掻いた。


 凛は全国優勝を狙えるほどの実力を持っている。だからこそ分かってしまった。先ほどの彼方には、技術や速度とは別の何かがあった。


 試合に勝つための構えではない。相手の戦意を折るための威圧でもない。


 ただ最短で、確実に、目の前の相手を倒すための姿だった。


 そんなものを彼方がどこで身につけたのか、凛には見当もつかなかった。


「前より強くなってる」


「そうか?」


「そうだよ。前はもう少し動きに無駄があったし、力で誤魔化してたところもあった」


「よく見てるな」


「だから、何年一緒にいると思ってんの」


 凛は額の汗を袖で拭い、彼方を睨んだ。


「しかも、まだ本調子じゃないでしょ」


 彼方は答えなかった。否定もしない。


 その反応だけで十分だったらしい。


「全国で優勝しても、一回くらい勝たせてくれてもよくない?」


「勝たせても意味ないだろ」


「分かってるけど、言いたくなるの」


「今の三段目は良かったぞ」


「本当に?」


「二段目で反応させて、三段目を本命にしたところ。普通なら当たる」


「普通なら、ね」


「右足をもう少し内側へ置けば、軌道を変えた時に身体が流れない。今は最後の小手で肩が先に入ってた」


 凛は自分の足元を見下ろし、今の動きをゆっくり再現した。右足の位置を変え、木刀の軌道を確かめる。


「……確かに」


「あと、二段目を捨てるのが少し早い。俺が動く前に三段目へ意識が移ってた」


「そこまで分かるの?」


「呼吸に出てた」


「顔って言わないんだ」


「顔にも少し出てた」


「最初からそっち言うな」


 凛は不満そうに返しながらも、何度か同じ動きを繰り返した。指摘の意味をすぐに理解し、身体へ反映できる。それ自体が、彼女の実力の証明だった。


 彼方は木刀を肩へ担ぎ、その動きを眺めた。


 全国優勝を狙える技術。反応速度も判断力も、同年代では抜けている。


 それでも彼方には一本も届かない。


 彼方が単純に速いからではない。凛より力が強いからでもない。


 彼方にとって戦闘とは、決められた技術を競うものではなかった。相手の視線、呼吸、重心、関節の向き。床の状態や壁までの距離。手に持っている武器だけでなく、身体そのものと周囲に存在するすべてを利用し、相手より先に勝敗を決める。


 剣道でも、武術でもない。


 勝つために必要なものを、必要な瞬間に使う。


 それだけだった。


「ねえ」


 動きを確認していた凛が、彼方を振り返った。


「今、すごく嫌なこと考えてなかった?」


「考えてないぞ」


「私のこと、弱いとか思ってたでしょ」


「全国優勝候補を弱いとは思わない」


「じゃあ何?」


「強くなったなって」


「それ、子供を見るみたいで腹立つ」


「一個下なんだから、子供みたいなものだろ」


「一歳しか違わない!」


 凛は声を上げると、反射的に木刀を振り上げた。彼方はその動きを見て、笑いながら一歩だけ後ろへ下がる。


「稽古は終わったぞ」


「今から四本目!」


「三本って言ったのは凛だろ!!」


「延長!」


「お前いっつもそうじゃん!! 疲れてる状態で続けても、悪い癖がつくだけだからやめとけって!!」


 声を張った彼方に正面から言い切られ、凛は木刀を振り上げた姿勢のまま固まった。


 なおも食い下がろうと口を開きかけたものの、彼方の言っていることが正しいのは本人にも分かっている。身体が疲れた状態で無理に打ち込みを続ければ、足運びが乱れ、腕の力へ頼る癖がつく。境井家の道場で幼い頃から何度も注意されてきたことだった。


 凛は不満を隠そうともせず、木刀をゆっくりと下ろした。


「……ムカつく」


「褒めたのに」


「上からなのがムカつく」


「年上だからな」


「一歳だけ!」


 凛は最後まで納得していない様子だったが、彼方の横を通り過ぎ、木刀を壁際の掛け台へ戻した。その手つきは少し乱暴だったものの、木刀同士がぶつからないよう最後だけは丁寧に置いている。腹を立てていても、道具を雑に扱うことまではできないらしい。


 彼方は肩をすくめながら、自分の木刀も元の場所へ戻そうとした。


「ちゃんと身体は動いてるみたいだけど、無茶はしないでよ」


 背後から聞こえた声に、彼方は足を止める。


「しない」


「信用できない」


「三本取った相手に言われても説得力がないん?」


「それとこれとは別」


 凛は即答した。


 つい先ほどまでの不機嫌そうな雰囲気は残っている。それでも彼方を見る目には、拗ねた感情とは別のものが混じっていた。


 稽古の三本目で感じた、あの冷たい気配。


 対峙しただけで身体が動くことを拒み、一歩先に死があると錯覚させられた感覚。それは凛がこれまで全国大会や境井家の道場で向き合ってきた、どの強者とも異なるものだった。


 彼方が強いことは昔から知っている。


 だが、あんな戦い方をする人間ではなかった。


「本当に、何に使うの?」


 凛がドローンの収められたケースへ視線を向けた。


 指定地点での待機、自動追尾、顔を隠した状態での識別、通信圏外での録画保存。彼方から要求された機能を改めて並べれば、道場の稽古を撮影するためだけのものではないことは明らかだった。


 彼方はすぐには答えなかった。


 幼い頃から一緒にいる凛へ、適当な嘘は通用しない。正直に話せば止められるだろうし、止められなかったとしても、無用な心配をかけることになる。


「そのうち話す」


 結局、彼方は先ほどと同じ答えを返した。


 凛の眉間に皺が寄る。


「それ、さっきも聞いた」


「ちゃんと帰ってきたらな」


「だから、その言い方やめてって言ってるでしょ」


「大丈夫だ」


「彼方の大丈夫は信用できないって言ってんの」


「俺の実力は知ってるだろ」


「知ってるから心配してるの」


 凛は彼方の言葉を遮った。


「自分が強いって分かってる人ほど、普通の人なら諦める場所まで平気で行くでしょ。危ないと思っても、自分なら大丈夫だって勝手に判断する。彼方は昔からそうじゃん」


 彼方は返す言葉を失った。


 否定しようと思えばできた。だが、これから実際に向かおうとしている場所を考えれば、凛の指摘はあまりにも正しかった。


 沈黙した彼方を見て、凛は小さくため息をつく。


「今日、どこか行くつもり?」


「少し出掛けるだけだ」


「どこに?」


「山の方」


「何しに?」


「自然の中で稽古」


 凛は数秒間、無言で彼方を見つめた。


「最初に言ってたやつじゃん」


「ちゃんと伏線を回収したな」


「笑ってる場合じゃないから」


 彼方が冗談めかして笑っても、凛の表情は緩まなかった。


 凛は床に置かれたケースの蓋を閉じ、留め具がきちんとかかっていることを確認する。それから両手で持ち上げると、彼方の胸元へ押しつけるように渡した。


「何をするにしても、壊さないで。これ、寝る時間を削って作ったんだから」


「ありがとう」


「それから」


 凛はケースから手を離さないまま、彼方を真っ直ぐに見上げた。


 彼方の実力を信用していないわけではない。むしろ、その強さを誰より身近で見てきたからこそ、危険な場所へ平然と踏み込んでしまうことを恐れている。


「絶対に怪我しないで」


「善処します」


「そこは『分かった』って言いなよ」


「分かった」


 彼方が言い直すと、凛はようやくケースから手を離した。それでも表情から不安が完全に消えることはなかった。


「絶対だからね」


「ああ」


 短く答えた彼方を、凛はなおも疑わしそうに見つめていた。


 それ以上問い詰めても、今の彼方が答えないことは理解したのだろう。凛は自分の荷物を手に取り、道場の出口へ向かった。


 玄関の戸へ手を掛けたところで、一度だけ振り返る。彼方の顔を見たあと、その腕に抱えられた黒いケースへ視線を落とした。


「変なことしたら、絶対怒るから」


「何もしてなくても怒ってないか?」


「彼方が変なことする前提だから」


「信用ないな」


「日頃の行い」


 最初と同じ言葉を残し、凛は今度こそ境井家を出ていった。


 戸が閉じる音に続いて、玄関先から足音が遠ざかっていく。彼方はしばらくその場に立ったまま、腕の中にあるケースを見下ろしていた。


「……悪いな、凛」


 最初から、道場の稽古を撮影するために頼んだものではなかった。


 彼方はケースを道場の奥へ運ぶと、壁際に掛けられていた狐面を手に取った。祭りの屋台で売られているような安価なものではない。白地へ赤い線が引かれ、目元から頬にかけて細い黒の模様が描かれている。


 続いて、先ほどまで稽古に使っていた木刀を手に取る。凛との三本勝負によって身体の感覚は多少馴染んだものの、頭の中に残る動きと現在の肉体との間には、まだ僅かなずれがあった。


 それでも、打ち込み台だけを相手にしていた時よりは遥かにいい。凛ほどの実力者が全力で放つ攻撃を前にしたことで、身体は実戦に近い速度と緊張を思い出し始めていた。


 防具を持っていくつもりはなかった。重い装備で足運びを鈍らせるより、攻撃を受けないことを優先する。現在の彼方にとって、それが最も戦いやすい選択だった。


 もちろん、それが過信になり得ることも理解している。


 知識や経験があっても、今の身体がすべてを再現できるとは限らない。凛と向き合った際にも、以前なら意識すらしなかった動作で筋肉へ負担がかかり、僅かな遅れが生じていた。


 そのずれを抱えたまま、どこまで戦えるのか。


 彼方は木刀を握り直し、ドローンの収められたケースを持ち上げた。


 凛と交わした約束は、頭の片隅に残っている。


 絶対に怪我をしない。


 それを守るつもりはある。


 ただし、危険なことをしないとは約束などはしていない

というわけでヒロインちゃん登場です。

名前に関してはとても大変でした...


華か凛で悩んだ結果凛のほうがヒロインちゃんの性格にあっているかなーと

漠然と思った結果採用しました。


今後ヒロインちゃんに関しては主人公君の常に後ろを追っかけてもらおうと思っています

自分も十分強いのにそれ以上に別次元に強いがいたらどうしても勝ちたくなるよね。

でもそれって勝ちたいという気持ちだけなのでしょうか...?楽しみですね^^

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