黒針、天を穿つⅤ
黒い針が出現してから、およそ一か月が経過した。
あの日、日本各地の空を貫いた異様な黒は今も変わらずそこにある。雲を押し退けるように伸びる黒い針も、その根元に開いた巨大な孔も消えてはいない。それでも人々は仕事へ向かい、学校へ通い、店を開けるようになっていた。異常が解決したわけではない。ただ、一か月という時間が恐怖を日常の隣へ押し込んだだけだった。
『政府は本日も、全国で確認されている黒色構造体および内部空間の調査を継続しています』
朝のニュース番組では、黒い針に関する定例報道が流れていた。画面下部には《針の孔・調査開始から一か月》という文字が表示されている。
『政府は内部空間を引き続き「針の孔」と仮称していますが、一般には「ダンジョン」という呼び方が急速に定着しています。報道各社でも、混乱を避けるため両方の名称を併記する動きが広がっています』
画面が切り替わり、上空から撮影された横浜の映像が映し出された。
神奈川県横浜市、みなとみらい地区。横浜赤レンガ倉庫に隣接する七街区は、かつて催事や臨時駐車場として利用されていた頃の面影を失っていた。
敷地を取り囲む仮設フェンスの外側には、さらに車両の突入を防ぐコンクリート製の防護柵が並び、主要な出入口には二重の検問所が設けられている。周辺道路は一部が封鎖され、通行できる車両も政府関係者や物資輸送車に限られていた。土地の管理権限は特別措置によって国へ一時的に移され、周辺施設の所有者や事業者に対しては使用制限と営業損失に応じた補償手続きが進められている。
敷地内には仮設の指揮所、通信棟、医療棟、研究棟、資材倉庫、休憩施設が並び、大型発電機の低い駆動音が途切れることなく響いていた。迷彩服姿の隊員たちがコンテナを運び、白衣の研究員が資料を抱えて建物の間を行き交う。その間を警察車両や消防の特殊車両が通過し、黒い針の根元へ向かう専用通路では、内部へ入る部隊の装備確認が行われていた。
観光地の一角に築かれたその場所は、もはや臨時施設ではない。
未知の領域を調査するための前線基地だった。
現場の指揮権は自衛隊が持ち、その指揮下に警察、消防、医療関係者、通信技術者、国内研究機関から派遣された専門家が組み込まれている。科学的な調査方針は各分野の責任者が提案するが、実施の可否や進入経路、撤退判断は自衛隊の現場指揮官が決定する。全国各地に発生した針の孔へ部隊を展開し、長期間にわたり人員と物資を維持するには、明確な指揮系統が不可欠だった。
なかでも横浜の拠点は、全国で最も調査が進んでいる場所の一つとされている。その理由は都市部に近く、道路や港湾を利用した物資輸送が容易だったことに加え、最初期から内部調査が継続されていたためである。
黒い針の根元では、灰色の軽装備に身を包んだ自衛隊員たちが隊列を整えていた。
「第三偵察小隊、装備確認終了。欠員なし」
「通信状態は?」
「入口から第二中継点まで良好。第三中継点以降は不安定です」
「予定どおり携帯機で補う。設置物は最低限、異常があれば放棄して撤収しろ」
「了解」
隊員たちの背中には測量機材や記録装置が固定されている。彼らは合同調査隊とは別に編成された、自衛隊のみで構成される偵察部隊だった。
任務は通路の安全確認と測量、簡易的な地図の作成。研究者を伴わず先行し、経路上の危険を排除した後、合同調査隊が生物や環境の詳しい調査を行う。第一層の地図が一か月でほぼ完成したのは、彼らが交代しながら毎日内部へ入り、分岐の一つ一つを確かめ続けた結果だった。
「第三偵察小隊、進入開始」
指示を受けた隊員たちは、黒い針の根元に開いた巨大な孔へ入っていく。その姿は暗闇に呑まれることなく、淡く照らされた内部へ溶け込んでいった。
発生直後にはライトを向けなければ足元すら確認できなかった洞窟は、一か月の間に完全に姿を変えていた。
岩肌に似た壁面そのものが、ごく弱い光を帯びている。光源らしいものは見当たらないにもかかわらず、通路全体は薄明るく、足元の凹凸や数十メートル先の曲がり角まで肉眼で確認できた。明るさは日中の屋外には遠く及ばないが、歩行や周囲の警戒には十分だった。
調査隊はこの現象を内部環境の安定化と記録している。
世間はもっと単純に、ダンジョンが完成したと呼んでいた。
◇
未知粘性生物を人類が初めて討伐したのは、調査開始から間もない頃だった。
当時の第一層では、通信範囲を拡張するための中継器設置が何度も試みられていた。岩壁に固定した機器は外部との通信を安定させ、調査隊の安全を大きく向上させるはずだったが、設置から時間を置かずに未知粘性生物が現れ、機器へ接近する事例が続いていた。
理由は分からない。人間を無視して設置物へ向かう場合もあれば、温度の高い隊員へ反応する場合もある。何度機器を置き直しても同じことが起こり、現場では設置と回収を繰り返すしかなかった。
「固定完了まで二十秒!」
通路の壁際で、二名の隊員が通信中継器の脚部を固定していた。周囲では護衛を担当する自衛隊員が通路の前後を警戒し、後方では技術者が通信状態を確認している。
「前方、対象確認!」
警告と同時に全員の視線が前へ向いた。
曲がり角の奥から、一体の未知粘性生物が姿を現す。半透明の身体を地面へ広げるようにして移動し、その中央には濁った球状の核が浮かんでいた。
「距離十二、進行方向は中継器」
「設置を中止、回収しろ」
「固定具が外れません!」
技術者が留め具へ手を伸ばす間にも、未知粘性生物は近付いてくる。動きは人間が走るほど速くない。それでも重い機材を外し、持ち上げ、退避するには時間が足りなかった。
「下がれ、こっちで引き離す!」
一人の隊員が中継器の前へ出た。手にした警棒を使うか迷ったのは一瞬だった。液体に近い身体へ打撃が通用する保証はなく、刺激すれば未知の物質を放出される可能性もある。
その迷いの間に、未知粘性生物の一部が中継器へ伸びた。
隊員は反射的に右足を振り抜いた。
蹴り倒そうとしたわけではない。ただ機材から遠ざけるため、迫ってきた身体を横から払いのけようとしただけだった。しかし軍靴の先端は半透明の外皮を突き抜け、その奥に浮かんでいた核を正確に捉えた。
硬いものが砕ける感触が、靴底から伝わる。
未知粘性生物の動きが止まった。
「離れろ!」
隊員たちが一斉に距離を取る。攻撃への反応を警戒したが、液体が飛ぶことも、身体が膨張することもなかった。
代わりに、核を中心として半透明の身体へ亀裂のような光が走った。
黒。
そして白。
二色の光が複雑に混ざり合い、未知粘性生物の全身を内側から崩していく。輪郭を失った身体は地面へ溶けるのではなく、無数の細かな光粒子となって宙へ舞い上がった。
粒子は風のない洞窟内をゆっくり漂い、数秒後には跡形もなく消えた。
死体は残らなかった。
液体も、組織も、核の破片すら見当たらない。
「対象……消失」
誰かが絞り出すように報告した。
蹴りを放った隊員は、自分の足と何もなくなった地面を交互に見ていた。
「今のを記録したか?」
「映像、測定値ともに残っています」
「回収できるものを探せ。素手では触るな」
全員が周囲を確認する。その場に残されていたのは、親指の先ほどの透明な物体だけだった。
光を受けているわけでもないのに、内部には淡い輝きが揺れている。鉱石にもガラスにも見えたが、洞窟内の壁面や地面とは明らかに異なる物質だった。
「これが核の残骸か?」
「分かりません。形状も一致していません」
「封入容器を」
物体は専用の容器へ回収され、厳重な管理の下で地上へ運び出された。
その日、人類は未知粘性生物に明確な弱点が存在することを知った。同時に、ダンジョンの生物は死亡すると黒と白の光粒子へ変化し、死体を残さず消滅するという最初の事例を記録した。
そして、消滅した個体が何らかの物体を残す場合があることも。
◇
一か月後の第一層では、当時の緊張が嘘のように調査が進められていた。
「前方、二体」
「核を確認。右は低い、左は中央」
「第二分隊が処理する。測量班は待機」
偵察小隊の前方で二体の未知粘性生物が通路を塞いでいた。隊員たちは慌てることなく間隔を広げ、先頭の二名が短い棒状の器具を構える。
先端には衝撃を集中させるための金属部品が取り付けられている。銃器の使用も検討されたが、狭い通路内での跳弾や壁面への影響、核を外した際の危険を考慮し、第一層では接近して核だけを破壊する方法が基本となっていた。
一体目が温度の高い隊員へ向きを変える。囮役は一歩だけ前へ出た後、決められた位置まで後退した。引き寄せられた未知粘性生物の側面から別の隊員が踏み込み、器具の先端を核へ叩き込む。
乾いた破砕音が響き、半透明の身体が黒と白の粒子へ変わった。
もう一体も数秒後には同じように消滅する。
「残留物なし」
「記録。通路を確認後、前進する」
床に何も残っていないことを確かめ、隊員たちは測量を再開した。
討伐方法が確立したことで、未知粘性生物は第一層における最大の脅威ではなくなっていた。核の位置を見誤らず、複数人で対処すれば大きな危険はない。温度差による誘導方法も手順化され、初期に使われていた全身を覆う完全防護服は標準装備から外されている。
現在の装備は、長時間歩行と素早い回避を優先した軽装が中心だった。皮膚への付着に備え、腕や脚は保護されているものの、以前のように動きを阻害する厚い防護服ではない。未知粘性生物の接近前に核を破壊できるようになった以上、機動性を失う方が危険と判断されたためである。
ただし、油断が許されるわけではない。
「足元、段差」
「確認」
「左の分岐は前回未測量、二名出す」
第一層は大規模な地下迷宮ではなかった。入口から主要な経路を進めば、通常の歩行で三十分ほどの位置に地下へ続く巨大な通路がある。
しかし途中には大小の分岐があり、一部は別の通路とつながり、一部は行き止まりとなっていた。似た景色も多いため、位置を誤認すれば同じ場所を何度も巡ることになる。自衛隊の偵察部隊は距離、方角、高低差、通路幅を細かく記録し、複数の小隊が別方向から照合することで第一層の地図を完成へ近付けていた。
壁面へ恒久的な目印や通信機器を設置すると、未知粘性生物が現れて破壊しようとする場合がある。そのため設置物は必要最低限に抑えられ、隊員たちは携帯機器と紙の地図を併用していた。
「東支路の測量終了。前回記録との誤差〇・八メートル」
「許容範囲だ。座標を更新する」
「これで第一層の未確認区画は北側の細道だけです」
小隊長は端末に表示された地図へ目を落とした。入口から分岐を経て第二層入口へ至る道筋、その周囲に伸びる支路の大部分が線で結ばれている。
「北側を確認後、第二層入口へ向かう。入口周辺の再測量を行う」
「了解」
彼らが第二層入口と呼ぶ場所は、第一層の奥にある急な下り坂の先に存在していた。
人工的な階段ではない。岩肌のような床が大きく傾斜し、その先で空間が一度狭まった後、下方へ向かって広がっている。内部の光も境界付近から弱くなり、奥の様子までは確認できなかった。
発見当初、現場では単なる下層通路として扱われていた。しかし、周辺の温度や空気の流れが第一層と異なり、壁面の質感にも変化が見られたことから、政府資料では《第二層入口・仮称》として登録されている。
入口そのものは、すでに見つかっている。
問題は、その先へどのような体制で入るかだった。
◇
横浜赤レンガ倉庫七街区の研究棟では、初めて回収された透明な物体が複数の装置に囲まれていた。
物体は掌に収まるほど小さい。表面は結晶に似ているが、明確な結晶構造は確認できず、既知の鉱物にも生物由来の組織にも当てはまらなかった。切削や加熱を行う許可は下りておらず、研究員たちは非破壊検査を中心に分析を続けている。
「質量変化なし。表面温度も室温と一致」
「内部の発光は?」
「一定ではありません。周期性も確認できていない」
「電磁波との相関は」
「今のところなしです」
研究員が深く息を吐いた。
回収された物体は一つではない。討伐が重ねられるにつれ、未知粘性生物が同様の物体を残す事例は何度か確認されていた。
ただし、すべての個体が残すわけではない。
数体続けて確認される日もあれば、数十体を討伐しても一つも残らない日もある。個体の大きさ、核の位置、出現地点、討伐方法との関連も見つかっていなかった。
「今日の回収数は?」
「横浜ではゼロです。ほかの拠点から二件の報告がありますが、形状は同一ではありません」
「分析資料は共有されたか」
「国内の指定機関のみです。国外への提供は認められていません」
「当然でしょうね」
未知物質が何に利用できるのかは分からない。エネルギー源かもしれず、ただの残留物かもしれない。人体へ影響を与える可能性さえ否定できない。
分からないからこそ、政府は情報を厳重に管理していた。
海外からは共同研究や試料提供を求める申し入れが相次いでいるが、すべて保留されている。黒い針が日本だけに出現したわけではないとしても、日本国内で得られた成果を無条件で公開する理由はなかった。
「これを結晶と呼ぶのも、そろそろ見直すべきでしょうか」
「正式な分類ができない以上、便宜上はそれでいいでしょう。少なくとも『ドロップアイテム』よりはましです」
若い研究員の言葉に、室内で小さな笑いが起きた。
世間ではすでに別の名前が定着している。
ニュースが《未知残留物》と報じても、SNSでは誰もがドロップと呼んでいた。
◇
「一か月です!」
国会議事堂の中で、野党議員の声が響いた。
「黒い針の出現から、すでに一か月が経過しています。政府は調査を進めていると繰り返しますが、国民へ示された情報はごく限られたものに過ぎません。内部で何が発見され、何が危険なのか。いつまで『調査中』で押し通すおつもりですか」
議場がざわめく。
答弁席へ立った内閣総理大臣、篠部真治は手元の資料へ一度視線を落とした後、正面を向いた。
「政府としては、国民の生命と安全を最優先に、関係機関が連携して調査を進めております。第一層と呼ばれる区域では地形の把握が進み、内部に存在する対象生物への対処方法についても一定の成果が得られております」
「一定の成果とは何ですか。具体的にお答えください」
「対象生物の反応条件、ならびに無力化の方法について再現性のある結果を確認しております。ただし、現場で活動する隊員の安全や、今後の調査に影響する情報も含まれるため、すべてを公表することはできません」
「都合の悪い情報を国家安全保障の一言で隠しているのではありませんか」
野党席から声が上がり、与党席から反論が飛ぶ。
議長が静粛を求める中、質問は土地の管理へ移った。
「発生地点周辺では長期の立入制限が続き、地権者や周辺事業者は土地を利用できない状態にあります。補償は十分に行われているのですか」
「発生地点および周辺の安全確保に必要な区域については、特別措置に基づいて国が管理しております。土地の所有権を一方的に失わせるものではなく、使用制限、休業、移転などに生じた損失について、個別の事情を確認した上で補償を進めております」
「手続きが遅いという訴えも出ています」
「前例のない事態であり、査定に時間を要していることは承知しております。担当部門の増員を指示しており、迅速化に努めてまいります」
篠部は慎重に言葉を選んでいた。
調査を急げば、隊員に被害が出る。
慎重に進めれば、国会と世論から遅いと追及される。
国外へ情報を出せば安全保障上の懸念が生まれ、隠せば政府不信を招く。
どの判断にも責任が伴う以上、政府内では決定に時間を要していた。それでも現場は待ってくれない。毎日、新しい観測結果が上がり、次の判断を迫ってくる。
「第二層と呼ばれる区域が発見されたとの報道があります。政府は進入を認めるのですか」
議場の空気がわずかに変わった。
「第二層という名称も現時点では便宜的なものです。第一層とは異なる環境が続いている可能性が確認されており、現在、進入計画の最終確認を行っております」
「いつ開始するのかと聞いています」
篠部は一拍置いた。
「安全確保に必要な準備が整い次第、速やかに開始いたします」
明確な日付は口にしなかった。
その時点ですでに、横浜の現場では開始時刻まで決められていた。
◇
夕刻。
横浜赤レンガ倉庫七街区臨時調査拠点の作戦会議室には、各部門の責任者が集められていた。
壁面には第一層の地図が大きく表示されている。複数の分岐、未知粘性生物の出現地点、通信可能区域、退避に利用できる空間が細かく記され、最奥部には赤い枠で囲まれた場所があった。
《第二層入口・仮称》
その横には入口付近を撮影した写真と、測定された温度、湿度、空気成分の変化が並んでいる。
「第一層の未確認区域は北側支路の一部を残すのみです」
偵察部隊の責任者が報告する。
「第二層入口までの主要経路は三本。最短経路で通常歩行二十八分、負傷者搬送を想定した場合は四十五分。予備経路を含め、すべて再測量を完了しています」
「通信は?」
「第一層中央部までは安定しています。それ以降は携帯機器を使用。固定中継器は対象生物に破壊される可能性が高いため、第二層内部への設置は状況を確認してから判断します」
「医療班は入口側と第一層中継地点へ配置。第二層へ同行する救護要員は二名です」
「研究班は生物、地質、環境測定から各一名。現場での採取は指揮官の許可を必要とします」
報告が途切れると、室内の視線が上座へ集まった。
現場指揮官である自衛隊幹部は、第一層の地図から第二層入口の写真へ目を移した。
「第一陣は自衛隊の偵察部隊を中心に編成する。目的は第二層入口周辺の安全確認と退避経路の確保。研究班は必要最低限に留め、未知の対象と遭遇した場合は観測を優先する」
誰も口を挟まない。
「第一層の成功例を、そのまま第二層へ当てはめるな。光があることも、空気が安全であることも、対象生物の弱点が同じであることも保証されていない。想定外が一つでも発生した場合は撤退する」
「了解」
「進入予定は明日〇九〇〇。各班は〇七〇〇までに最終確認を完了せよ」
返答が重なる。
会議が終わり、責任者たちが次々と席を立つ中、壁面の地図だけが明るく照らされていた。
人類はこの一か月で、第一層の地形を調べ、未知粘性生物の行動を観察し、倒す方法まで見つけた。死体が残らず黒と白の光へ変わることも、時折正体不明の物体を残すことも知った。
それでも、黒い針が何なのかは分からない。
内部がなぜ生成されたのかも、第二層の先に何が存在するのかも分からない。
ただ一つ確かなのは、人類がそこに留まり続けるつもりはないということだった。
翌朝。
日本は初めて、第二層へ足を踏み入れる。




