黒針、天を穿つⅡ
黒い針が空を穿ってから、数時間が経過していた。それでも、それは消えなかった。
地上から遥か上空へと伸びる黒色の構造物。その先端は雲を突き抜け、さらにその上へと伸びている。周囲には直径百メートルほどの円形の快晴域が生まれ、そこだけが世界から切り取られたかのように青い空を晒していた。
異常は、未だ終わっていない。
そして黒い針の根元には、もう一つの異常が存在していた。
巨大な洞窟。
人間が何人も横一列に並んで歩けるほどの幅を持つ入口。その奥は地下へ向かって続いており、外からライトを向けても、どこまで続いているのか確認することはできない。
発生から数時間。政府は、この未知の空間に対してまだ一歩も踏み込めていなかった。
官邸では、関係各所から集められた情報が整理されている。
「黒い構造物について、追加の報告は?」
「現在まで消失、縮小、移動などの兆候はありません。発生時からほぼ同じ状態を維持しています」
「地震との関連性は?」
「現時点では判断できません。発生から約一時間後に広範囲で地震が発生したことは確認されていますが、因果関係を示す根拠はありません」
「周辺の環境への影響は?」
「現段階では明確な異常は確認されていません。ただし、黒い針そのものについては未知の部分が多く、継続的な観測が必要です」
報告が続く。
黒い針。快晴域。地震。そして、地下へ続く巨大な空洞。
分かっていることは増えている。だが、それ以上の速度で分からないことが増えていた。
「入口の内部については?」
「外部から確認できる範囲では、地下方向へ続く洞窟状の構造になっています」
「内部調査は?」
「まだ実施していません」
「理由は?」
「安全性が確認できていないためです」
短い返答だった。
未知の構造物。未知の地下空間。発生原因すら不明。
そんな場所に人間を入れて、何が起きるかなど誰にも分からない。
「……では、現段階では周辺の安全確保を優先してください」
それが、今の政府にできる最も現実的な判断だった。
まずは周辺の立入規制。消防・救急の待機。研究機関による観測。警察を中心とした現地の警戒。必要に応じて自衛隊との連携。
いきなり内部へ人員を送り込むのではなく、まず外から情報を集める。
未知のものに対して、分からないまま踏み込まない。それは当然の判断だった。
しかし、別の問題があった。
規制するべき場所が、あまりにも広い。
黒い針の根元にある巨大な洞窟。その周辺をすべて警察官で囲い、誰一人近づけない状態を作ることは難しい。
発生直後から続く混乱。周辺住民への対応。交通規制。地震による被害確認。各自治体との調整。報道への対応。そして、黒い針そのものの観測。
一つの異常現象に対して、必要な仕事はいくらでもある。
だからこそ。
完全な封鎖には、どうしても穴ができる。
◇
SNSでは、黒い針に関する情報が溢れていた。
『あれ何なんだよ』
『近くから見たけどデカすぎる』
『根元に洞窟あるらしい』
『警察がいるから近づけない』
『でも裏側ならまだ行ける場所あるぞ』
投稿された写真の一枚に、規制線の張られていない場所が映っていた。
黒い針の根元へと続く道。その先にある、巨大な入口。
それを見つけた人間がいた。
「……本当に入るの?」
入口を目の前にした瞬間、先ほどまでの勢いは消えていた。
「いや……」
誰かが言葉を濁す。
目の前にあるのは、ただの洞窟ではない。
つい数時間前まで存在しなかった。原因も分からない。何のためにあるのかも分からない。そして、その奥に何があるのかも分からない。
それでも入口だけは、嫌になるほどはっきり見えている。
人間が何人も横一列に並んで歩けるほど巨大な空間。外から見える範囲には何もない。だが、ライトの光が届かない場所から先は、完全な闇だった。
「……なあ」
「ん?」
「やっぱ、やめね?」
誰も笑わなかった。冗談で言っているわけではない。
「別に、無理して入る必要ないだろ」
「じゃあ帰る?」
「……」
誰も答えない。
帰ればいい。そんなことは分かっている。
それでも、目の前にある未知を前にすると、足が動かなかった。
入口の奥から風が吹いている。
冷たい。
外とは違う空気だった。
「……俺、ちょっとだけ行く」
ようやく一人が口を開いた。
「ちょっとだけって、どこまで?」
「分かんねえよ。入口から見える範囲だけ。ヤバそうならすぐ戻る」
「……マジ?」
「マジ」
自分に言い聞かせるような返事だった。
スマートフォンのライトを点ける。
白い光が暗闇を切り裂いた。それでも、奥までは届かない。
「おい……マジで行くかよ?」
「お前らも来いよ」
「いや、俺は――」
言いかけた男が、入口の外を振り返った。
まだ戻れる。
ほんの数歩後ろへ下がれば、外の光がある。
だが、先に進んだ仲間の背中は、すでに暗闇の中へ半分消えていた。
「……くそ」
結局、全員が後を追った。
最初の一歩は、それほど怖くなかった。外がまだ見えていたからだ。
二歩。三歩。さらに進む。
やがて外の光が小さくなる。そして数十メートル進んだところで、ほとんど見えなくなった。
不幸中の幸いなのはライトを照らすと壁が光が反射して意外と見やすいということだろうか
「……」
誰も口を開かない。
聞こえるのは、自分たちの呼吸だけ。
「……はぁ……はぁ……」
誰かが息を呑む。その音さえ、やけに大きく聞こえた。
ずり……。
ずり……。
靴底が岩肌を擦る音。
ピチョン……。
「……」
ピチョン……。
水滴が落ちる音。
「なあ」
先頭の男が立ち止まった。
「……何?」
「今の、聞こえた?」
「水?」
「違う」
男はライトを奥へ向けた。
白い光が暗闇を照らす。
何もいない。
「……じゃあ何だよ」
「分かんねぇ」
声が、明らかに震えていた。
誰も先へ進みたくなかった。
「……戻ろうぜ」
一人が小さな声で言った。
「俺もそう思う」
「じゃあ――」
その時だった。
――ジュリ。
暗闇の奥から、何かを引きずるような音がした。
全員が固まった。
「……今の何?」
「知らない」
「……帰ろう」
今度は誰も反対しなかった。
一歩、後ろへ。
そしてもう一歩。
その瞬間。
ライトの先。
薄暗い洞窟の奥で、何かが動いた。
「……え?」
半透明の液体が、ゆっくりと蠢いている。
その内部。粘性のある液体に包まれるようにして、丸い石のようなものが浮かんでいた。
「……何だ、あれ」
誰かが呟いた。
それが何なのか、誰にも分からない。
目はない。顔もない。
ただ、液体の中にある丸い石だけが、こちらの存在を知らしめるように静かに揺れていた。
次の瞬間。
それが、ぐにゃりと大きく歪んだ。
「……動いた」
「逃げるぞ」
「え?」
「なんかしてくる!いいから逃げるぞ!」
直後。
びゅっ!
透明な液体が飛んできた。
――バシッ!
「うわっ!」
腕に直撃する。
思わず水を払った。
「何だ今の!」
痛い。
――いや、違う。
痛いというほどではない。
だが、確かな衝撃があった。
「水……?」
「いや、水じゃねえ!」
かばったせいで腕に当たり、その腕を押さえた男子が叫ぶ。
「……っ」
しばらくして、腕がじわじわとひりつき始めた。
「……なんか、ヒリヒリする」
「え?」
「ここ。水が当たったところ」
男は袖を捲った。見た目には大きな変化はない。だが、刺激は確かに残っている。
「普通の水じゃない」
そう言ったのは、先ほどかばった男だった。
濡れた腕と、地面に落ちた液体を交互に見ている。
「……何で分かるんだよ」
「水が当たった場所だけヒリヒリしてる。それも、当たった瞬間じゃなくて少し経ってから」
「だから?」
「水道水とか雨水なら、こんな刺激は出ないだろ」
彼は自分の服に付着した液体を見る。
「それに、さっきの液体が付いたところだけだ」
「……」
「たぶん酸性だ」
「酸性?」
「強いものじゃないと思う。でも、普通の水じゃないのは確か。phがわかんねぇから何とも言えないけど、目に入ったらちょいやばいかも。」
言われた瞬間、全員の視線が、目の前の生物へ向いた。
半透明の身体。その内部に浮かぶ、丸い核。
そして――
それが、ぐにゃりと身体を縮めた。
「……また来る!」
びゅっ!
水鉄砲のように液体が飛ぶ。今度は誰にも当たらなかった。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
今度こそ全員が走り出した。
粘性のあるそれも身体を大きく収縮させる。
ぐっ。
身体が縮む。
次の瞬間。
べちゃっ。
前へ伸びる。
ぐっ。
べちゃっ。
ぐっ。
べちゃっ。
まるで身体そのものをバネのように使い、少しずつ距離を詰めてくる。
「来てる!」
「分かってる!」
「そんな速くない! 走れば逃げられる!」
確かに速くはない。人間が全力で走れば、引き離せる程度だ。
それでも怖い。
暗闇の中で、何なのか分からない生物が追ってくる。洞窟ということもあり足場も悪い。
しかも、時折こちらへ液体を飛ばしてくる。
――だが。
それは、人間の姿を見て追っているわけではなかった。
暗闇の中。粘性の液体に包まれた丸い核が、僅かに揺れる。
視覚など存在しない。
それでも、逃げていく人間の位置を見失うことはなかった。
生きた人間が放つ熱。その温度を、それは感知している。
だから追ってくる。
だから、逃げても離れない。
ただし、その動きは遅い。
ぐっ。
べちゃっ。
ぐっ。
べちゃっ。
人間が走り続ける限り、追いつくことはできない。
――転ばなければ。
「――っ!」
一人の足が、岩に引っ掛かった。
ズザッ!
「うわぁっ!」
身体が前へ投げ出される。
ドンッ!
「大丈夫か!」
「……っ、あ……」
倒れた男が、腰を押さえた。
「立て!」
「無..理ッ……!」
「は?」
「腰……やった。動けない!」
「ふざけんな!」
「本当に無理なんだよ!」
後ろから。
ぐっ。
べちゃっ。
ぐっ。
べちゃっ。
それが近づいてくる。
「……来てる」
誰かが呟いた。
「分かってる!」
「早く!」
「でもこいつ――」
倒れた男の顔が青ざめる。
「置いていくなよ……!?」
「置いていくわけねえだろ!」
一人が肩を掴んだ。
「立てるか!」
「無理!」
「じゃあ引きずる!」
「え?」
「早くしろ!」
両腕を掴む。
「せーの!」
ズルッ!
「痛っっっだ!」
「ごめん! でも我慢しろ!」
ズルッ。
ズルッ。
足を引きずりながら、必死に進む。
その後ろ。それが迫っている。
ぐっ。
べちゃっ。
「近い!」
「分かってる!」
「もうすぐ入口!」
「見えた!」
暗闇の先に光が見えた。
外だ。
全員の顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。
だが、その直後。
びゅっ!
「うわっ!」
液体が飛んできた。
今度は背中に当たった。
「熱っ……!」
「大丈夫か!」
「大丈夫! 走れ!」
ズルッ。
ズルッ。
転んだ男を二人がかりで引きずる。
「あと少し!」
「早く!」
光が近づく。
そして。
「出た!」
全員が洞窟の外へ転がり出た。
地面へ倒れ込む。
「はぁ……! はぁ……!」
「……来てない?」
誰かが振り返った。
巨大な入口。その奥は、相変わらず暗い。
それは出てこなかった。
「……助かった」
一人が呟いた。
誰も笑わなかった。誰も、もう一度入ろうとは言わなかった。
「とりあえずさっきの変な生き物にかけられたやつを袋に入れるか...」
「今日ほど化学の授業ほど感謝したことはねぇわ...とりあえず水で洗い流さないと..あと警察にも...」
ただ一人。震える手でスマートフォンを拾い上げた男が、画面を確認する。
「……これ」
「何?」
「動画」
「撮れてんの?」
「……最初から最後まで」
全員が画面を覗き込む。
暗闇。逃げる自分たち。そして、液体を飛ばしてくる半透明の生物。
「……これ、何なんだよ」
誰も答えられなかった。
◇
その動画は、その日のうちにSNSへ投稿された。
最初は、誰も信じなかった。
『CGだろ』
『釣り乙』
『こんな生物いるわけない』
『本物ならヤバすぎる』
だが、映像は投稿者の手を離れた。
保存され、転載され、切り抜かれ、別のSNSへ流れていく。
動画だけではない。投稿者本人の証言。同伴者の証言。そして、実際に負傷して帰還した人間がいるという事実。
やがて、その情報は現地警察へ届いた。
◇
「……これ、本当に本人が撮ったんですか?」
「本人の端末から確認しています」
「内部へ入ったという証言は?」
「一致しています」
警察官は画面を見つめた。
何度も再生する。停止。拡大。再生。
映っているものが何なのかは分からない。ただ、少なくとも既知の生物ではない可能性が高い。
そして、現地から上がってきた報告には、もう一つ気になる記述があった。
『付着した液体による皮膚への軽度の刺激を確認』
警察官は画面を見つめた。
「……これ、本当に地下にいたんですよね?」
「はい」
「報道には?」
「まだ正式な発表はありません」
「……そうですか」
情報は現地から県警へ。県警から関係機関へ。そして、さらに上へ。
◇
夜。
官邸の一室。
新たな資料が机の上に置かれた。
「先ほど、現地の地下空洞へ侵入した一般人が帰還しました」
報告を受けた側が顔を上げる。
「侵入?」
「はい。規制区域外から入ったものと思われます」
「……それで?」
「内部で、未知の生物に襲われたと」
室内の空気が変わった。
「未知の生物?」
「はい。現在、映像の解析を進めています」
「被害は?」
「現時点では侵入者は3名中。1名は転倒し、未確認生物から攻撃を受けたのは軽傷者が2名。主な症状は、皮膚への軽度の刺激とのことです」
「……それで、映像は?」
「あります」
スクリーンに映像が表示された。
暗い洞窟。揺れる画面。荒い呼吸。逃げ惑う人間。
そして。
半透明の何かが、身体を収縮させながら追ってくる。
画面の中で、それが身体を震わせた。
次の瞬間。
びゅっ。
液体が飛ぶ。
映像は大きく揺れた。
誰も、その生物の名前を知らない。
誰も、その生物がどこから来たのか知らない。
ただ。
黒い針の地下には、人間の知らない何かがいる。
その事実だけが、政府へと届けられた。
1章は主人公がメインで描写はしません
もし実際にダンジョンが発生した時ってこんな感じなんだろうなっていうのを想定して作っていますので1章はダンジョンが出たことによる社会の影響について書いていこうと思ってます。
2章からは主人公メインでがっつり社会に影響を与える側登場してきます。
なのでもう少し本編が始まるまでお待ちください。
2章は社会を引っ掻き回せたらいいなってプロット作成してます。




