020.
謁見の日、王宮の小広間には、過剰ではないが十分に儀礼的な設えが整えられていた。
金糸の織り込まれた幕、磨き上げられた黒曜石の床、壁面に並ぶ歴代国王の肖像。それらは王権の継続を無言で語る装置であり、訪れる貴族たちに自らの小ささを思い知らせるための舞台でもあった。
王太子ルシオンは、玉座ではなく一段低い主賓席に座していた。まだ国王ではないため、形式上はあくまでも国王代理なのである。だが、王太子ルシオンは、自らこそが国王であるかのように、相手に国王代理であることを感じさせないほど尊大に背を伸ばし、指先で肘掛けを叩いていた。
傍らにはフェルナン伯爵が控え、数名の侍従と記録官が沈黙している。他にも謁見の間には、見学に来ていた大勢の貴族がいた。扉の外から取次の声が響いた。
「シリウス男爵レイディアント様、ならびに婚約者セレスティア様、参上にございます。」
アレクシスは、当然のように老いた男を想像していた。
二年前、王宮に挨拶へ来たシリウス男爵家の代表者は、白髪の目立つ老人だった。落ち着いた物腰で、古い家名を守るだけの、いかにも地方貴族らしい男。田舎からやってきた、華麗な貴族とはほど遠い田舎貴族。
アレクシスの記憶にあるシリウス男爵とは、その老人の姿で固定されていた。だからこそ、扉が開き、軍服姿の若者がセレスティアを伴って入室した瞬間、王太子は驚きを隠しきれなかった。
レイディアントは背筋を伸ばし、儀礼にかなった歩幅で進み出た。戦場帰りの英雄として飾り立てられてはいないものの、胸元には新たに授けられた軍章が控えめに光り、若さに似合わぬ静かな威厳があった。
セレスティアは、その半歩後ろに寄り添い、王宮の空気にも臆した様子を見せない。二人が並ぶと、号外の写真が誇張ではなかったことが、そこにいる全員に理解された。
「シリウス男爵レイディアント、王太子殿下に拝謁の栄を賜り、恐悦至極に存じます。」
レイディアントは膝を折り、恭しく礼を取った。セレスティアもまた優雅に頭を下げる。その所作は完璧で、非の打ちどころがない。謁見の間にきていた者の多くは、その優雅さに心を奪われかけた。
それほど、レイディアント・シリウス。セレスティア・ヴァレンタインの二人は、絵になる二人だったのである。二人が並び立つ姿は、建国の英雄譚に出てくるような物語にいる姿にも見えており、特にレイディアントの光り輝く黄金の髪が、金の王冠にすら見えてしまう。
一部の貴族はレイディアントに危うさを感じた。自身の妻や娘が、レイディアントの姿に心を奪われかけており、嫉妬してしまったのである。
王太子ルシオンも、自身に迫る格好良さと本人が勝手に思ったレイディアントに嫉妬した。
「貴様は誰だ?シリウス男爵は、老人ではなかったのか?」
小広間の空気が、目に見えぬほど細く震えた。
フェルナン伯爵がわずかに瞼を伏せる。侍従の一人は呼吸を止めた。初対面の貴族に対する第一声としては、あまりに無遠慮であった。だがレイディアントは表情を崩さなかった。ほんのわずか、疑問を覚えたように瞳を動かしただけである。
「恐れながら、殿下。二年前に王宮へご挨拶申し上げましたのは、私の祖父でございます。当時、私は軍学校に在籍しておりましたため、祖父がシリウス男爵代行として参上いたしました。」
「軍学校?」
王太子ルシオンは、そこでようやく事情を理解したというより、別の嘲笑の材料を見つけたように唇を歪めた。
「貴族でありながら、領地におらず、実際に軍学校へ通っていたというのか!」
「はい。王国軍人として必要な課程を修めるために通っておりました。」
「ふん。軍学校に籍を置く貴族など、たいていは名を置くだけであろう。実際に通い、貴族としての仕事を祖父に任せるとは、なんという不真面目な貴族なのだ。」
レイディアントは何も言わない。
貴族学園には、大勢の貴族がいたのだが、貴族学園卒業後の軍学校には貴族が在籍しているものの、見かけなかったため、すでにその事実を知っていたからだ。
貴族は、軍学校に籍を置いているだけで、全く通っていないことをレイディアントは知っていた。だが、レイディアントは、軍学校で血反吐を吐くように魔力制御を学び、戦術を叩き込まれ、共和国軍との実戦に晒されたのである。勤勉に学んだからこそ活躍したレイディアントに対して、王太子ルシオンは、それを怠慢と断じたのである。
小広間の端で、軍務院から同席していた記録官の頬がわずかに強張った。
王太子の言葉は、レイディアント個人のみならず、軍学校そのもの、ひいては軍務に就く貴族全体を軽んじるものだった。だがアレクシスは、それに気づかない。
セレスティアの指先が、ほんのわずかに動いた。レイディアントを侮辱された怒りが、完璧な礼法の奥で、静かに火を上げたのである。
しかし、レイディアントはセレスティアを目で制した。セレスティアは唇を閉じ、深く息を沈めた。
「ご指導、ありがとうございます。殿下のお言葉、今後の戒めといたします。」
レイディアントは穏やかに答えた。
その声音には怒りも皮肉もない。謁見の間にいた貴族は、その返答の見事さに内心で息をついた。
反論すれば王太子の機嫌を損ねるし、黙れば侮辱を認めた形になる。だがレイディアントは、感謝という形で言葉を受け流し、同時にそれ以上の追及を封じた。レイディアントは、軍事的才覚だけでなく、貴族的才覚も見せたのである。
「分かればよい。貴様は、節度ある貴族として励むがよい。昇爵を考えていたのだが、再考すべきだな。」
「殿下…。」
フェルナン伯爵が、耳打ちをする。
昇爵をさせないと、世論に問題が起きるのである。フェルナン伯爵に対して、周りからも王太子ルシオンが馬鹿なことを言わないようにという無言の圧力が起きていた。
「なんだ、フェルナン。あぁ、そうであったな。再考などしていたら、視察の時間がなくなるか。よしっ。ならば、昇爵を取りやめよう。こやつは、貴族の何たるものかを分かっておらん愚か者だからな。昇爵させないことで勉強になるというものよ。」
王太子ルシオンは満足げに頷いた。
自分が相手を教え諭したと思っている顔であった。王太子ルシオンは、昇爵の件について王室が前向きであったが、今回は見送ること。今後も王国に忠勤を尽くすべきこと、セレスティアもまた婚約者として王国の模範たるべきことを、薄い言葉で述べた。
側近のフェルナン伯爵は、このままでは不味いと思った。このまま英雄に何も与えないのは、王太子へ批判の声が出るのは間違いなく、フェルナン伯爵自身へも批判が出るのは間違いないのである。フェルナン伯爵は、王太子に耳打ちする。
「今後、セレスティア様を呼ぶおつもりがあるのなら、このままシリウス男爵婦人にしては呼ぶことはできません。適当な爵位を与えて、気が向いた時に呼びつけ、無理難題を伝えるのはいかがでしょうか?」
「こんな奴に爵位を?だが、俺様の命令で、こき使うのは面白い。くくっ。よい進言だ。」
「ありがとうございます。ちょうど、サヴォア準男爵が空爵となっています。サヴォア準男爵を受け継がせるのはいがでしょうか?」
「準男爵だと?まぁ、いいか。」
二人の小声での雑談は終わる。
だが、王太子の声だけは、レイディアントにもセレスティアにも聞こえた。本当に碌でもない考えすぎて、呆れるしかない。
「セレスティアよ。寛大な私から、貴様に栄誉を与えよう。これより、サヴォア準男爵を名乗るがよい。」
セレスティアとしては、断れない。
これは、フェルナン伯爵がレイディアントに貴族的昇爵ができなくなったからこそ、慌ててセレスティアに爵位を与えることで褒美とする策なのである。断っても、王太子が煩く喚くだけであり、フェルナン伯爵に恩をうっておいた方がよいと判断した。
「慎んでお受けいたします。」
この時、王太子ルシオンも、フェルナン伯爵も、王妃としての教育を受けたセレスティアが、英雄の婚約者として、貴族社会に復帰することの意味を、深く考えるべきだったのかもしれない。
王国は、貴族政治である。
準男爵とはいえ、悪役令嬢として冤罪にかけられたセレスティアが貴族の地位に戻る。セレスティアに力をもたせるのは、王太子に逆恨みをする可能性を踏まえても、悪手である。
「泣いて感謝するがよい。あーはっはっはっ。さぁ、アントワネットと街に視察にでも行くとするか。」
謁見は終わり、二人は礼を尽くして小広間を退出した。扉が閉じる直前、レイディアントは一度だけ王太子を見た。その視線は短く、静かで、あまりに礼儀正しかったため、王太子ルシオンはそこに何も読み取れなかった。だがその一瞬、レイディアントの胸中には冷たい失望が沈んでいた。
(こんなのが、次の国王なのか。)
声にはしなかったし、顔にも出さなかった。
戦場で無能な指揮官を見ることはある。臆病な貴族を見ることもある。自分の保身しか考えぬ軍人も見たことはある。
だが王太子という存在は、それらとは別種の重さを持っている。
王太子は次の国王である。王太子が愚かであれば、無知であれば、愚かな国策が生まれ、場合によっては、その代償を王国全体の血で支払うことになる。レイディアントは、王太子ルシオンに失望していると、セレスティアが低い声で言った。
「……よく、我慢なさいましたね。」
「セレスティア様が先に怒ってくれたから、私は冷静でいられたんですよ。」
「怒っておりません。」
「そうか。では、王宮の燭台が一瞬だけ震えたのは、私の気のせいですね。」
セレスティアは、わずかに目を伏せた。
無意識に魔力が出てしまい、燭台の炎が揺れてしまっていたのかと思った。
「冗談ですよ。」
「レイディアント様も冗談を言うのですね。それにしても、殿下は、本当にご存じないのですね。軍学校が何を教える場所か。戦場が何を奪う場所か。貴族が名だけで責任を果たせるほど、王国は平穏ではないということも。」
レイディアントは歩みを緩めずに答えた。
「知らぬまま人を裁き、知らぬまま国を動かす気でいるなら、それは災厄になるかもしれませんね。」
セレスティアは何も言わなかった。
王宮の長い廊下の窓から、王都の光が差し込んでいる。外ではまだ、若き英雄とその美しき婚約者の名が熱を帯びて語られているだろう。だがその熱狂の中心にいる二人は、王国の未来に対して、誰よりも冷えた不安を抱いていた。
レイディアントは、胸の奥で残念に思っていた。王太子に別の候補者がいればよかったと本気で思っていたのだ。王国を背負うに足る、別の誰かがいればよかったのだが、現実はいつも都合の良い選択肢を用意してはくれない。
民間人を見捨てた軍の失態を英雄譚で覆い隠されたように、王太子の愚かさもまた、王家の威光という金箔で覆い隠すのだろう。
レイディアントは静かに息を吐いた。
「それにしても、サヴォア準男爵か。おめでとうといえばいいのですかね?」
「ご冗談を。貴族社会になど、もう戻りたくないと思っていたんですよ?」
「実は、シリウス領の領地を共同統治として、セレスティア様に任せようと思ったのですよ。」
「マイナン様と同じで、領地経営に興味ないんですね?」
「出来る人に任せた方が領民に取って幸福だと思っているだけですよ。」
レイディアントは、口には出さないが、セレスティアの知識は領地経営でこそ、輝くと知っている。だからこそ、セレスティアに委ねるつもりである。
「行きましょう、セレスティア様。ここは長くいるほど、戦場よりも疲れます。」
「同感です、レイディアント様。」
二人は並んで歩き去った。
その背を見送る者たちは、まだ知らない。王国の未来を本当に憂いていたのが、主賓席に座る王太子ではなく、その王太子に鼻で笑われた若き男爵と婚約者であったことを。
この二人は、後に覇道の道を歩むことになる。しかし、人々がそのことを知るのは、まだずっと先の未来であった。




