019.王太子①
帝国暦において、勝利とはしばしば政治の都合によって拡大され、敗北とはしばしば沈黙によって埋葬される。だが、この日の王都に流布されたニュースは、敗北の臭気を、偽りの勝利の香水で覆い隠した、きわめて華麗な英雄譚であった。
国境星区における守備隊の撤退、民間人を置き去りにしたという、軍史においても消しがたい汚点となるべき事件は、試造星帆戦艦の奇跡的な急行と、シリウス男爵レイディアントおよびその婚約者セレスティアによる救出劇によって、まるで最初から美談であったかのように作り直されていた。
共和国軍を欺くため、わずか二機で別方向から攻勢を仕掛け、民間船団を牽引する時間を稼いだ勇気。魔導機アリエスの性能を引き出した若き貴族の判断力。レイディアントの傍らに立つ婚約者セレスティアの気品と沈着。とりわけ民衆を熱狂させたのは、二人が並んで写った一枚の写真であった。
レイディアントとセレスティアは、まだ若く顔もスタイルも良い。軍服を着てても、どこか貴族的な華やかさがあり、二人の清廉さが滲み出る。まさに、絵になる二人だったのである。
人々は英雄譚に華麗な装飾をつけるかのように、勝手に物語を補った。戦場で結ばれた愛、愛国心ある行動、古き騎士道の再来、と数々の創作された物語が出来上がる。
王宮の東翼にある王太子執務室にも、そのニュースは新聞として届けられていた。だが王太子アレクシスにとって、民衆の歓呼も軍部の失態も、遠い劇場で演じられている演目に等しかった。だからこそ、読むこともしない。はっきりといえば、興味ないのである。
王太子ルシオンにとって重要なのは、恋人であるアントワネットとのデートプランであり、虚栄心を満たすための彩られた世辞の数々の言葉である。
王太子ルシオンにとって、王国の政治に対しての興味は薄い。
「技術省は、いまだに全自動押印機を作れないのか。」
王太子ルシオンは、国印を押す作業すらやりたがらない。全て機械に任せてしまおうという愚かな指示をしていたのだが、技術省は王太子ルシオンの冗談と思い、自動押印機を用意しない。
そのため、豪奢な机の上には、側近がまとめた押印待ちの決裁書類が置かれている。そこには、レイディアント・シリウス男爵の軍功、昇進案、さらに男爵家の昇爵についてが簡潔に記されていた。
王太子ルシオンは、銀細工のペーパーナイフで封蝋を弄びながら、退屈そうに眉を動かした。彼は戦場を知らない。知らないことを恥とも思わない。むしろ、戦場に出る者とは、自分のような高貴な者の命令を形にするための道具であると、疑いなく考えていた。
「殿下、軍務院および内務院より、シリウス男爵家の昇爵について正式な内諾を求められております。今回の件は、世論の反応が大きく、王室としても報いる姿勢を見せるべきかと。」
側近のフェルナン伯爵は、言葉を選びながら頭を垂れた。彼は凡庸ではなかったが、王太子の機嫌を読むことに才能の大部分を費やしてしまった男である。
机の上の報告書には、レイディアントとセレスティアの写真が大きく刷られていた。アレクシスはそれを指先で押さえ、セレスティアの横顔だけを眺めた。レイディアントの写真を見ているのだが、レイディアントのことは、全く頭に入っていない。セレスティアにだけ注目していた。
「シリウス男爵か。たしか、あの悪役令嬢を妻に迎えるよう、こちらから話を通しておいた家だったな。」
「はい。セレスティア嬢の件でございます。」
「ふん。王都中が騒ぐほどの女だったか。写真写りが良いだけではないのか。」
口ではそう言いながら、ルシオンの視線は紙面から離れなかった。彼は自分が望んだものは、当然自分の手元へ来るべきだと信じていた。
セレスティアに対する執着も、恋情というより所有欲に近い。かつて自分の婚約者候補から外された令嬢、あるいは自分に従順であるべき貴族社会の一部。その程度の認識でしかない女が、いまや王国中の称賛を浴びている。そのことが、彼の浅い自尊心に小さな棘を立てていた。
「昇爵については、許可してよい。」
アレクシスはあっさりと言った。
フェルナン伯爵はわずかに安堵した。王太子が妙な嫉妬から昇爵を差し止めれば、軍務院と内務院の双方に無用な波紋が立つ。だがその安堵は、次の一言で凍りついた。
「ただし、シリウス男爵を王宮へ呼べ。セレスティアを連れてくるように伝えろ。」
「……セレスティア嬢を、でございますか?」
「当然だ。王家の恩寵によって昇爵するのだ。婚約者を伴い、礼を尽くすのが当然であろう。」
筋という言葉を、ルシオンは好んで用いた。
だが彼の言う筋とは、常に自分に都合よく曲がる棒であった。フェルナン伯爵は、シリウス男爵とセレスティア嬢がいま世論の中心にいることを考えれば、王太子が直接会うことそのものに政治的意味が生じると理解していた。
だからこそ、慎重であるべきだった。しかし彼は、それを王太子に説得する困難さも同時に理解していた。
「畏まりました。謁見の名目は、昇爵内示への謝意確認および今後の王室行事への協力要請、という形にいたします。」
「好きにせよ。ああ、それと。」
ルシオンは椅子にもたれ、退屈を装った声で付け足した。
「シリウス男爵の老人には、以前の話を忘れていないと伝えるな。いや、伝える必要はないか。本人が来れば分かる。」
フェルナン伯爵は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。以前の話とは、セレスティアを妻に迎えよという、王太子からシリウス男爵家への半ば命令に近い指示である。
その指示は、王太子によるセレスティアへの嫌がらせだったのだが、貴族社会からは度を越してた私刑であると嘲笑されていたのである。
「殿下、念のため申し上げますが、今回のシリウス男爵は世論の注目を浴びております。軍部も彼を英雄として扱う方針です。お言葉には、ある程度のご配慮を――」
「配慮?」
アレクシスは鼻で笑った。
「男爵風情にか?」
その一言に、部屋の空気が薄くなった。
フェルナン伯爵はそれ以上言わなかった。王太子は知らないのである。世論の風向きが時に王権を震わせることを。軍功というものが、爵位の低さを一時的に無効化することを。そして何より、名を上げた若い男が、民衆の想像のなかでどれほど危険なほど美化されるかを。
王太子ルシオンは、その危険を政治的に理解するには幼く、感情的に認めるには傲慢であった。
「呼びつけろ。セレスティアを伴ってな。」
「御意。」
フェルナン伯爵が退出すると、王太子ルシオンは再び号外を手に取った。紙面の中で、セレスティアは静かに微笑んでいる。何度見ても、レイディアントの写真が目に入らない。
「英雄の婚約者か…。英雄…。」
彼は呟いた。その声には嘲笑があった。
しかし、ほんのわずかに混じった不快感を、本人だけが気づいていなかった。王国は英雄を必要としていた。軍は失態を覆う旗を必要としていた。民衆は美しい物語を必要としていた。そして王太子は、自分以外が喝采を浴びるという事実を、まだ必要なものとして受け入れるだけの器を持っていなかった。




