第6話 一日目 朝
「すまない。父も母もすぐに顔を見せる」
言うリチャードのすぐ隣を歩き、アリスがクライン公爵家敷地に足を踏み入れる。
スチュアート家と同様、庭も広く屋敷も大きいが、どちらかというと古い様式だ。威厳がある、と言い換えてもいいかもしれない。代々の趣味か、それとも政治的、貴族的な意味合いがあるのか。わからないが、とにかく大きくて立派な形をしていた。
「なにかあったのですか?」
表庭を進みながらアリスが問いかける。
嫡男、リチャードの婚約者が来訪するというのに、屋敷の主が姿を見せない。なかなか考えにくいことだった。
嫌われている、という考えは頭になかった。先日の王宮でもそうだったが、当代のクライン公爵には会うたびに良くしてもらっていた。夫人からも同様である。自分がなにかを話すごとに、公爵らは感激したように瞳を潤ませていた。
「母が体調を崩してな。今は父が介抱している」
「え……大丈夫、ですか?」
「突然のふらつきだったが、症状は軽い。問題ないだろう」
「そうですか……なにがあったのでしょう」
「それがわからなくてな──」
話し込む二人の後ろでは、アレフが『なんでわからねえんだ……』とつぶやいていた。ゴロゴロとキャスターを鳴らすミシェルは察したのか、一言も話さない。ただ、隣のアレフに少し憐れみの視線を向けた。
屋敷の表門までたどり着く。
扉の前には侍女、執事がずらりと並んでいた。
「マーサさん」
アリスが中央にいた年配侍女の名前を呼んだ。
呼ばれたマーサはにこりと微笑んだあと、少し意地の悪い顔つきに変化し、深々とお辞儀をした。
「お帰りなさいませ。旦那様、奥様」
「だんっ……!?」
「おくっ……!?」
二人がピキッと固まる。話しかけようとしたアリスなんて笑顔のまま固まっている。
(おく……おく……オクサマ? オクサマッテナニ?)
次に頭の中で反芻する。マーサからはこれまで『アリス様』としか呼ばれなかった。そのマーサがなにを言っているのか?
オクサマという家名だろうか? 残念、私はスチュアートだ。一文字も合っていない。忘れちゃったのかしら。私はクラインで……あれ? なんだっけ? クラインがスチュアート? あれ? オクサマなんて言葉、どこにも……
ぐるぐると混乱するアリスを見たマーサはくすりと笑う。
先に復旧したリチャードが詰め寄った。
「ま、マーサ! 打ち合わせと違うだろう!?」
「申し訳ございません。このマーサ、少し先走ってしまいました。…………本当に手間のかかる」
「なにか言ったか!?」
「いえ、なにも」
「……はっ!」
アリスも遅れて混乱から脱出する。目の前で騒ぐ彼を見て、徐々に言葉が頭に浸透していく。
そう、マーサはなにも間違えていない。今の呼ばれ方は、もうすぐの未来なのだ。お出かけから帰ると、決まって言われる言葉なのである。
それに彼からの手紙にもあったとおり、このお泊りは『予行演習』みたいなものなのだ。ならばマーサがそれに合わせた態度を取るのも、使用人なりの気遣いなのだろう。いずれこの程度で慌てふためくことがないように、どちらかというと付き合ってくれているのだとも思う。
では自分はどうすればいいか。決まっている。『夫人』として接すればいいのだ。合格点に至れるかはわからないが、やることに意味がある。
アリスは挨拶をするのではなく、両手を組んで精一杯の笑顔を見せた。口の端は引きつっているし、顔は真っ赤になっているが、いつもミシェルやコリーナに向けている笑顔を頑張って作った。
「た、ただいま……」
「アリー!」
小さく言った彼女に驚いたリチャード振り向く。
アリスは表情を変えずにつつっと近づき、彼の腕にそっと手を回した。
「は、入りましょう……あ……あ、あ……なた……」
首まで赤くしてうつむく。
言われたリチャードはアホ面で彼女を見たあと、同じように赤面して空を見上げ、
「あ、あぁ……」
ガクガクとした動きでエスコートした。手と足が揃ってしまっている。
マーサや他の使用人は微笑ましそうに、おかしな動きをする二人が屋敷に入るのを見届ける。
「なぁ」
「言いません」
「…………」
その後ろ、申し出を即時で却下されたアレフが肩を落とした。うつむいきながらもちらっ、ちらっ、と横目でうかがう。
「……はぁ。ほら、行きますよ」
呆れたようなミシェルだったが、こちらもまた、アレフの腕を取って二人のあとに続く。現金なもので、アレフはすぐに笑顔になった。
ミシェルは表情も変えずにすましていたが、耳が少し赤くなっていた。
アリスを迎賓室に招き入れたあと、リチャードは使用人に混ざってお茶の準備を進めていた。
本来、こんなことはしない。リチャードは嫡男で、未来の主人だ。周りの世話は使用人に任せるのが当然である。
だが、今回はどうしても自分で振る舞いたかった。愛する彼女を直接もてなしたかったのである。それになにかの本で読んだ。夫と言えど、今は妻をねぎらうのが主流になりつつある、と。
「アリス様は気概がございますね」
マーサが手順の指摘をしつつ言った。
「……その言い方だと、俺に気概がないみたいだが」
「あら、ぼっちゃま。ようわかっておらして」
「ぐっ……!」
リチャードがうめく。
マーサは彼が生まれる前から公爵家に仕えている、ベテランの侍女である。何人もの若輩を育てあげてきた。その中には子供のリチャードも含まれている。幼い彼にあれこれ指導と教育をしてきた、人生の大先輩である。
そのため、リチャードはマーサに頭が上がらない。『ぼっちゃまはやめろ』と何度も言ってきたが、決まって『ぼっちゃまはぼっちゃまです』と返されてきた。
「はやく私どもに本当の意味で『旦那様』と呼ばせてくださいませ」
「むぅ……わかってはいる──」
「いいえ、わかっておりません」
マーサがぴしゃりと言った。不機嫌な視線に構うことなく続ける。
「アリス様には、今もなお縁談が舞い込んでくるみたいですよ」
「なにっ!?」
リチャードが持っていたフォークを落とす。テーブルに当たってかちゃん、と音が鳴った。
「侯爵様らがすべてはねのけているそうで、アリス様本人はご存知ないようですが」
「……なぜ、そんなことを知っている?」
「夫人が会合でぼやかれておりましたので」
衝撃の事実に動けないリチャードに代わって、マーサがフォークを拾う。
クラインもスチュアートも高位貴族である。王家も混ざった会合はたびたびとして開催されている。ただの顔合わせの時もあれば、小難しい話をする時もある。民を先導する者として当然の、必要な会議だ。マーサは側仕えとして頻繁に足を運んでいた。
対して、リチャードはまだ数回ほどしか顔を出したことがない。いずれは自分がやらないといけないことだが、それはもう少し先の話だった。
「ば、かな……」
わなわなと震える。それは怒り、そして情けなさ。
自分という存在がいるにも関わらず、婚約済みの女性に恥ずかしげもなく釣書を渡してくる。そんな愚行をしでかす輩に怒りを覚えると同時に、そうさせてしまっている自分に腹が立つ。
努力はしているつもりだった。贈り物や今回のイベント提案など、不器用ながらも着実に進めている、つもりだった。
しかし、どうやら周りはそうは思っていないらしい。アレフやマーサだけではなく、互いの家を飛び越した他人までもが。
「今回で口づけの一つくらい、成し遂げておみせなさい」
「む、むぅ……」
「後悔してからでは、遅いのですよ──」
「リック様?」
目の前のアリスに呼ばれたリチャードは我に返った。つい先ほどの記憶にふけってしまっていたらしい。
「なんでも、ないぞ」
ごまかすようにお茶を飲む。不思議そうに見てくる視線から顔をそらし、可能な限り自然な態度を演じる。
お茶を運んできてから、リチャードらはしばし談笑となった。両親がやってくるまで少し時間があるため、ミシェルやアレフも含めて四人で待っているところである。
「それにしても、アリス様もけっこう大胆ですね」
「なぜこっちを見るのでしょうか」
従者二人も席についている。ミシェルは客でもあるため当然だが、アレフは呼んでもいないのに普通にいた。いや、いるのはいい。己の世話係兼兄貴分なのだから。
「それに、また一段と綺麗になったんじゃないですか?」
「まぁ。アレフ様ったら」
だが、なぜこやつはペラペラと喋るのか? 足まで組んでいやがる。偉そうに、自分より余裕たっぷりの態度で歯が浮くようなセリフを吐いている。
そのことに、彼女も特段不機嫌にはなっていない。口元に手を当てて上品に笑っている。とても可愛かった。
「このお茶、美味しいですね」
「ね、ミシェル。一気に好きになったかも」
「……ん、あぁ。母が好きな品種でな」
「よく淹れられたな。一ヶ月の練習の成果はあったか」
「アレフ!」
「そうですか……ありがたく存じます」
お礼を言ったアリスが、静かにカップに口をつける。リチャードはその姿に釘付けになった。
綺麗な形をした唇。口紅は席につく前にある程度落としたのか、カップに跡が残っていない。なのに血色良く、潤い豊かな色艶である。少し触れればぷるんとした手触りであることは、容易に想像できた。
リチャードの脳裏に、マーサの言葉が蘇る。
『今回で口づけの一つくらい、成し遂げておみせなさい』
『口づけの一つくらいしなさい』
『口づけしろ』
最後のほうは混濁した記憶が作った幻影だが、言葉とマーサがリチャードの頭を駆け巡る。
口づけの一つくらい、口づけの一つくらい、口づけの一つくらい……
「ぬおおおぉっ!」
雄叫びをあげたリチャードがテーブルに突っ伏した。
「リック様!?」
ぎょっとしたアリスが慌ててカップを置いた。あわあわと、手を伸ばしたり引っ込めたりしてから、アレフを困り顔で見る。
アレフはため息を吐いてから、リチャードの背中に手を置いた。
「もうだいぶいっぱいいっぱいなんですよ、こいつ」
「リック様……」
「いや、いくらなんでも早すぎる限界だけどな……わかってやってください」
アレフの言葉がリチャードの心にしみるも、身体はなかなか言うことを聞いてくれなかった。情けなさが頂点に来て──手に柔らかい感触を覚えた。
見上げると、頬を染めたアリスが手を重ねてくれていた。
彼女はもう片方の手を胸に当て、
「私も、ずっとドキドキして、います……」
「アリー……」
「同じ、ですね」
ふんわりと笑った。
その柔らかい手のひらと表情に、リチャードの心がじんわりと温かくなる。
向こうも楽しみにしてくれていた。自分と同じように緊張し、不安でいっぱいだったかもしれない。それでも、今日こうして会いに来てくれた。
リチャードが上からさらに手を乗せる。
ぴくっと跳ねたアリスだったが、目を細めて両手を重ねてくれた。
ぎゅっと握り合って、お互いの目をじっと見つめる。彼女の蒼色の瞳に吸い込まれそうになり──
「おい、こら」
「お嬢様」
『ふぁっ!?』
聞こえた声に二人はばばっと手を離して、ソファに縮まりこんだ。
「あのなぁ……俺らもいるんだぞ」
「す、すまん……」
「せめて私たちがいない時に」
「ご、ごめんなさい……」
真っ赤になってカップをかちゃかちゃする。ちら、と視線があい、揃って目をそらした。
ミシェルとアレフが顔を合わせ、似たようなため息を吐きそうになった時──
何かがゆっくりと裂ける音と、続いて地面に激突したような音が遠くで鳴り響いた。それは木を切り倒す音とよく似ていた。
「……?」
アリスが音の方向を見て首をかしげる。ミシェルも不思議そうな表情だ。
リチャードとアレフは頭を抱えた。
「その、なんだ……気にしないでくれ……」
「リック様?」
「ちょっと元気のいい……よすぎる木こりがいてな……」
「木こり、ですか……? このような場所で?」
怪訝なアリスの言葉どおり、ここはクライン公爵家屋敷内である。木を切り倒す音が聞こえるなどありえない。やるならもっと森の奥か、別の場所にするだろう。
だが、リチャードとアレフは聞き慣れているとでも言わんばかりの態度で、どんよりとした表情を浮かべた。
「長らく不在だったんだが……今日はたまたま帰ってきてだな……」
「はぁ」
「とにかく気にしないでくれ」
「……聞かれたらあとが怖いぞ」
「わかっている」
「?」
ひそひそと話す二人に、アリスが首を傾げっぱなしにしているところに──
今度は廊下のほうから『どたどたどた!』という音が聞こえてきた。
「……?」
アリスがドアを見てさらに首をひねる。
リチャードはぶわっと背中にイヤな汗が湧き出た。
そうだ。闖入者はあと一人いる。考えようによっては、あの危険思想を持つ者よりさらに破天荒な人物が。予想の斜め上を軽々と飛び越える、『常識』と書かれた紙を容赦なく踏んづけていく──
『くまー! くまがないよー!』
『待って! 待ってください! その姿はだめです! せめてこれを──』
『りっくん! りっくーん! くまー!』
『待って! 待って──待てっつってんだろこらぁっ!』
聞き覚えのある声がどんどんと近づいてくる。みんながドアの方向を見ている。アレフも諦めた顔だ。もはや間に合わない。
リチャードがそう思った直後、ドアが盛大に開かれた。
「りっくん! 私のお気に入りだったくまさんスポンジがないよ! くまさんスポンジが!」
そう言ってぷんすか仁王立ちする、なかなか良いプロポーションの女性。胸はそれほど大きくないが、腰のくびれなんかは扇情的な形をしている。白く伸びる太ももも、健康的で滑らかである。
なぜそんなことがわかるかというと、半裸だったからである。巻いているのはバスタオルだけ。それも、けっこう際どいところでずり落ちそうになっている。とてもではないが、屋敷内をうろつくような姿ではない。しかも妙齢の女性が。
アリスがあんぐりと口を開ける。言葉も出てこないようである。
ミシェルは眉をひそめて、『信じられない』とでも言いたげな顔だ。
アレフは目を閉じ、顔を背けて見ないようにしている。
リチャードは両手で顔を覆った。
「りっくん! 聞いてるの!? 捨てないでって言ってたのに!」
四人の様子など目に入っていないのか、女性はぷりぷりと怒っている。
その後ろから、追いかけてきた侍女が急いでバスローブを肩から羽織らせた。まだまだ人様に見せる格好ではないが、ないよりはマシ、といったところか。
侍女はそのまま女性の腕を力いっぱい引っ張りだした。泣きそうな顔で、こっちを見て首だけぶんぶんと上下に振る。
それでやっと気づいたらしい。
女性は周りと、奥に座るアリスを見た。『誰?』とでも言いたげな顔をしてから、続けて自身の姿に目を落とす。
身体を隠すこともせず、指を顎に当てて『うーん』と声に出して考え込んでから、
「えへ、ごめんなさーい」
すごすごと引き下がっていった。
ばたん、とドアが閉じられる。廊下からは侍女の叫びとのんびりとした声が聞こえた。
四人が固まること数秒。
かたっ、という音でリチャードが顔を上げると、テーブルの向こうでアリスが震えていた。ドアをじっと見て、そしてこっちを見た。
これまで見たこともないような表情。なにかとんでもない誤解をしている。
「違う、違うぞ、違うんだ」
違うの三段活用で必死に弁明をするリチャードだったが、アリスは青ざめた顔でふらつき立ち上がった。
「おじゃま……しました……」
「アリー!?」
ふらふらと、ドアの方に力なく歩いていく。
リチャードも立ち上がって、必死の形相で彼女の腕を掴んだ。
「離して……!」
だが、返ってきたのは激しい拒絶。腕を振られ、為す術もなく引き剥がされる。
そして。
振り向いた彼女の瞳からは、ぼろぼろと涙がこぼれていた。
「あ、アリ──」
「最初から言ってくだされば……!」
なおも踵を返して離れようとする。
ここで帰してしまうと、もう二度と元の関係には戻れないかもしれない。リチャードは再度、彼女の腕をつかんだ。
「やっ──」
それでも振り払おうとしてくる彼女に、リチャードは腹の底から声を張り上げた。
「姉だ! あれが長女のエリノアだ!」




