第5話 一日目 早朝 淑女の場合
場所も時間も変わってスチュアート侯爵家。
待ちに待ったお泊まりの日がやってきて、アリスは早朝から、両親とエントランスホールで向かい合っていた。
「それでは行ってまいります。お父様、お母様」
「向こうによろしくね」
「はい、お母様」
「手土産はちゃんと渡すのよ?」
「もう。子供じゃありません」
あくまで自然に、普通に娘の見送りをしているリエンナとは違い、ジークは隣でアリスのことをじっと見ていた。
「あなた」
リエンナから肘でつつかれ、そろそろした足取りでアリスの前に立つ。
「アリス……」
「……お父様」
「その……ここは君の家だからね」
「はい……」
「……寂しくなったら、いつでも帰ってきてくれていいからね」
「はい、お父様……!」
「アリス!」
お互いぐすっと涙ぐみ、ひっしと抱き合う。今生の別れのような様子である。
リエンナはため息を吐いた。
「明日には帰ってくるというのに……」
「はい、奥様。夕食までには戻りますので」
答えたミシェルの手には巨大なキャリーケース。この日のために選別した、アリスの私物が大量に入っている。
準備は、それはもうえらい騒ぎだった。やれ『もしかすると必要になるかも』とか『どっちも選べない』とか『え、選んでもらうとかもありかも!』とか。
最後まで絞り込めず、片っ端から詰め込んだケースは膨れてしまい、なんとかかんとか押し込んでいた。
「アリスのこと、お願いね」
「はい」
「でも、貴女も自分のことを考えてもいいのよ?」
「えっ」
「約束があるんでしょ? その時は自分を優先しなさいな」
「そ、それは……」
「ふふ」
「お、奥様……!」
リエンナにからかわれ、ミシェルがたじろぐ。アリスとジークはまだ抱き合っていた。
「あの……時間が来ちゃい、ますよ……」
表玄関のドアに手をかけたコリーナが、言いにくそうに告げた。
「ふぅ……」
窓の向こうを見て、アリスはため息を吐いた。
物憂げな表情で景色を眺める。流れていく木々や山並み。魔導車が発する音と振動。それらが一体となって、アリスの胸中に渦巻いていく。
「はぁ……」
「緊張されていますか?」
もう一度ため息を吐いた彼女に、隣のミシェルが声をかけた。
アリスは景色を見たまま、
「ううん……緊張は、もちろんしているけれど……」
「ですが、先ほどからため息が多いようですが……」
「ん……」
心配そうなミシェルの声に、ようやくアリスは窓から目を離した。
隣をちらっと見たあと、手をぐーぱーぐーぱーにぎにぎしてから、ミシェルの肩にもたれかかった。
「お嬢様」
「……不安、なの」
胸飾りをいじりながら、ぽつりと漏らす。
ここ最近、アリスは不安を募らせていた。
お泊まり自体は、楽しみである。ずっと待ち望んでいた。具体的には一ヶ月くらい前から。衣装などの準備を始めたのもそれくらいである。
しかし、それとは関係なく不安が内から内から湧いてくる。具体的に何が、とは言えないが、漠然と感じていた。日にちが進み、嫁ぐ時期が近づくに連れて、その気持ちは膨れる一方だった。
マリッジブルー。あとでリエンナから聞いた、アリスの不安の正体である。
「お嬢様も、もうそんなご年齢なんですね」
二人の会話を聞いていたのか、運転士が前方、フロントウィンドウから視線は逸らさずに言った。
「マイク」
「初めてお会いした時はあんなにお小さかったというのに。月日が経つのは早いものです」
「ふふ、そうね」
「マイク様は変わりませんね」
「はは。私だってもう、昔のようにはいきませんよ、ミシェル殿」
魔導車の操舵装置──ステアリングを握りしめたまま、運転士のマイクが朗らかに笑った。
マイクは侯爵家に長年仕え続けている御者で、アリスの幼少時代を知っている数少ない使用人である。誰に対しても丁寧に接する姿はまさに紳士であり、アリスが理想とする男性像の一人でもあった。
「まだまだ若い者には……と言いたいところですが、寄る年波には勝てませんね」
「マイク……」
「お嬢様が縁を結ばれるのを見届ける頃が、ちょうど引退時でしょう。老い先も短いですからね」
「そんなこと言わないで、マイク。私、貴方が好きなの」
子供の頃に会ってからというもの、アリスはマイクに懐いていた。一緒に馬にまたがって近場を散歩したのは、一度や二度ではない。彼の趣味である庭園いじりにも付き合ったことがある。その都度、父のジークは嫉妬心のようなもので対抗し、間違えて『おじいちゃん』と呼ぶたび祖父が姿を見せたものだったが……
マイクは侯爵家にとって、アリスにとって代わりのきかない家族のようなものだった。
アリスの言葉に、マイクは声をあげて笑った。
「はっはっは。もう四、五十年若ければ、今のお言葉に浮足立ったでしょうね」
「もう、マイクったら」
「本当にお美しくなられました、お嬢様。このマイク、感無量といったところです」
「……ありがとう、じいさま」
「そう呼ばれるのも久々ですね。では、その爺からアドバイスといきましょう」
「アドバイス?」
マイクは魔導車を道の端に停止した。そしてアリスに振り返る。
その顔は、アリスが昔から見知った『おじいちゃん』の顔をしていた。
「大いに悩みなさい、若人よ。不安を恐れず、しかしその不安を忘れないでおきなさい」
「忘れない……」
「年長者に相談するのもよいでしょう。経験豊富な女性に助言をいただくのもいいと思います。それでも、今感じられているご不安は、抱えられているお悩みはたしかに貴女独自のものです」
「私自身の……」
「苦しいこともあるでしょう。悲しいことだって、この先何度だって起きるかもしれません。しかし、それらはきっといつか、すべてが貴女の優しさとなります」
「…………」
アリスが胸元に手を当てる。
この不安が、この悩みがいつか、自分の力になる。
今すぐうなずくのは難しい。経験しないよりは、あったほうがいいのはわかる。それに不安になるのは当然とも言えた。なにせ別の家に移るのだから。不安にならないほうがおかしい。
だが、これが本当に解消して、己の経験値として活かすことができるのか。アリスにはわからなかった。
自信なさげな表情をするアリスを、マイクは真正面から見つめる。
「お嬢様。貴女は貴女自身の道を歩みなさい。他の誰でもなく、スチュアートとしてでもなく、ただ一人の女性、アリスとしての行き方、軌跡をお作りなさい」
「マイク……」
「近くの婚姻でもありません。直近の出来事でもありません。生まれてからこれまであったこと、そしてこれからの生き様。それらを意識して、日々をお過ごしなさい。さすれば自ずと糧となり知識となり、そして力となるでしょう」
マイクの言葉に目を閉じ、思いを馳せる。
生まれた時はわからずとも、これまでの人生の分岐点くらいはわかる。今はもう選べない、過去にあった別れ道。これからあるであろう、未来に用意された岐路。
将来どうなるかは不明だ。後悔だってするかもしれない。どうしてあの時ああしなかった、と悔みに悔やみきれないことだって、あるかもしれない。
しかしそれもまた、自分の選択が作る人生、歴史になる。侯爵家の令嬢としてではなく、自分だけの、自分のための一生。それは誰にも否定できない、させない。
無数に枝分かれする可能性。歩んでいく未来。近くに迎える結婚もまた、その中の一つである。もっと言えば、ただの分岐の一つ。人生はまだまだ、長いのだから。
アリスは閉じていた目を開け、マイクの視線をしっかりと受け止めた。
「まだ理解できないこともあるし、立派に成し遂げられるかはわからないけれど……私自身の軌跡を、歩んでみることにするわ」
「はい。それにお嬢様はまだお若い。何度だってやり直しが可能でございます」
「ふふ。もし私が失敗したら、その時はマイクにもらっていただこうかしら」
「おおっと。それはまた、侯爵様への説明が大変です」
マイクが頭に手を当て笑う。
その姿にアリスの心は少し軽くなった。
そうだ。悩んでいても仕方ない。どうせいつか来る将来なのだから、受け入れるしかないのだ。失敗を恐れて縮こまっていても、明るい未来は開けない。ならばがむしゃらでもなんでも、自分を信じて選んでいくしかない。
まずは今回のお泊まりを精一杯楽しむ。あれこれ考えるのはそのあとでもいい。
ひとつ息を吐いたアリスが、笑顔を作る。
「ありがとう、マイク。やっぱり貴方は、私のもう一人のおじいさまよ」
「それはよかったです。祖父君様に聞かれると怖いところですが」
「お祖父様は昔からマイクに意地悪だわ」
唇をとがらせたアリスに、マイクは今日一番の破顔を見せた。
「それもお嬢様のことを大切になされているからですよ」
「私はどっちのお祖父様も大事なの。……今度、一緒にお庭いじりしてもいい?」
「はい、ぜひ。ありがとうございます、お嬢様」
「うん!」
「お時間いただいてすみません。では……おや?」
停止していた魔導車を再発進させようとしたマイクが疑問の声をあげる。
アリスが視線を追うと、隣のミシェルはなにやらぶつぶつと考え込んでいた。
「……自分の……選択……今回、いえ、ですが──」
「どうやら、ミシェル殿も思うところがおありのようで」
「へっ!?」
にやりと笑ったマイクに、ミシェルが驚愕の表情で顔を上げた。
アリスは顎に指を当てて首をかしげた。
「アレフ様のこと?」
「お、お嬢様!?」
「はは。ミシェル殿に想われるとは、その方も幸せ者ですね」
「マイク様!?」
「……あのね、明日ね、ちゃんと二人にさせるから──」
「なにを!?」
騒がしいまま、彼女らを乗せた魔導車は音を立てて走り始めた。
しばらく走ったあと、マイクが到着間近であることを告げた。
「ミシェル」
「はい」
ミシェルから手鏡を受け取ったアリスが、髪や衣装をちょんちょんと整えていく。鏡の中の自分をじーっと見つめたあと、表情をころころと変えて最終チェックを進める。
いろんな角度から眺め、問題ないことを確認してからうなずいた。
「問題ないわね」
「今朝もチェックしていたでしょう。すぐには乱れませんよ」
「……でも、ミシェルの横髪、跳ねてるけれど?」
「本当ですか!」
慌ててミシェルもアリスの手元をのぞきこむ。髪は跳ねていなかった。
「ぷっ」
「……お嬢様」
「ごめ、んなさい」
顔を背けてぷるぷると震える姿を、騙されたミシェルはじろっとにらんだ。
マイクが笑いながら魔導車を進める。数分もすると、クライン公爵家の屋敷が遠目に見えてきた。速度を落とし、ゆっくりと走らせる。
と、前方に二人の人物が立っているのが見えた。
「おや」
「リック様?」
アリスが後部座席から身を乗り出す。運転席に手をついて、フロントウィンドウの向こうをのぞきこむように視線を集中する。令嬢らしからぬ行動だが、身体が勝手に動いていた。
「どうやら待っていてくださったようですね」
「……うん」
小さく言って姿勢を戻す。座席にももたれない。ぴん、と背筋を伸ばして、綺麗な所作を作り上げる。
彼も楽しみにしてくれていたようだ。わざわざ屋敷の外、しかも正門を超えたところで訪問を待つのだから。
でも、だからといって車から飛び出すわけにはいかない。そんなこと、彼の婚約者としてできるわけがない。
本当は今すぐ飛び出したい。マイクに停めさせ、ドアを蹴り飛ばす勢いで開け放ちたい。彼の名前を叫んで飛び込みたい。どっしんと体当たりしたい。
(平常心、平常心だから……)
ほんの少し身体を揺らして、じっと耐える。もし、はしたない真似をして驚かれたら。『ええー……』なんて渋い顔をされたら。車ごと屋敷に逃げ帰るかもしれない。
「明日の午後にお迎えにあがりますので」
言ったマイクがさらに速度を落とし、最徐行で近づいていく。
ここにきてさらなる焦らし。『いいの! 突っ込んでいいの!』と言いたいのをこらえ、手元をただ見つめる。
魔導車が停止する。少しばかり身体を揺らされるが、マイクの運転は見事だった。発する音も最小限である。
まだ飛び出さない。先にミシェルが降りていくのを感じながら、我慢してその時を待つ。
はやる気持ちが頂点まで達する直前。
マイクが外から開けてくれた。
「お嬢様」
「ありがとう、マイク」
差し出された手を取って、できる限り静かに降り立つ。
満を持して目を向けると、彼の姿が間近に映った。普段の歩みで、心なしいそいそと足を速く動かして、待っていてくれた彼に近づく。
「リック様」
「アリー」
迎えてくれたリチャード・クラインは、無事に到着したことに安心した様子で、穏やかな笑顔を見せた。




