もうひとつのエピローグ
日差し良い季節の真昼。王都にあるマンションの一室にあった部屋の窓際で、一人の女性が本に目を落としていた。
外からは歓声が聞こえてくる。今日は王位継承の日だ。大人も子供も入り混じった、楽しそうな声が耳に届いてくる。
めったにないイベントに、民は浮かれ騒いでいた。売り買いの威勢のよい声に、ぽん、ぽん、と花火のような音も上がっている。
女性は静かにページをめくっていく。開かれた窓から吹いてきた風が、彼女の紫色の髪を揺らした。
「お母さん!」
勢いよくドアが開かれ、一人の少女が姿を現した。
満面の笑みでこちらを見つめている。頬は紅潮していて、大きな瞳は楽しみに輝いているようだった。
顔を向けた女性が、少女──己の娘の名前を呼んだ。
「アリサ」
「もう始まってるよ! おじいちゃんもおばあちゃんも、下で待ってるのに!」
その言葉に女性が苦笑する。約束の時間はまだ先だというのに、もう着いてしまったようだ。
子供ができてからというもの、両親は顔をだらしなくにやけて、孫を思う存分甘やかしていた。実家を飛び出した頃とは大違いである。顔を合わせる機会も増えていた。
彼女は机の上にあった栞を取り、本のページに挟もうとするが、とてとてとてっと寄ってきたアリサを見て、開いたままの本を机の上に置いた。
膝の上に登ったアリサが頬にキスをしてくる。それから、机の上に置かれた本を不思議そうに見た。
「お母さん、いつもそれ使ってるよね?」
「……ええ、私の宝物ですよ」
「ふぅん? おかしな形だけど……なんだか素敵!」
にっこり笑う娘の顔に、彼女の心も温かくなる。
名前だけでなく、あの凛とした恩人のように育ってほしい。栞を本に挟んでから、娘の頭を優しく撫でた。
「そのうち、貴女にあげる時が来るかもしれませんね」
「ほんと!? ぜったい大事にする!」
いつか、あの人のように恋でもしたら。その時は、理由や経緯と一緒に譲ろう。
顔を見合わせて笑っていると、ドアの方から壮年の男性の声がした。
「あぁ、ここにいたのですか」
見知った、優しげな表情で近づいてくる。
ぴょん、と膝から飛び降りたアリサが、男性に向かって飛びついた。
「お父さん!」
「おっと……アリサは先に下りていてください」
抱き合ってくるくると回ってから、男性がそっと下ろす。
「はーい!」
元気に返事をしたアリサが、部屋の外に出ていった。ぱたぱたぱた……という、階段を下りていく音がする。
二人がドアの外を暖かな眼差しで見つめる。しばらくして、男性が手を伸ばした。
「では、行きましょうか」
「はい、しさ──あ、あなた……」
女性が慌てて言葉を正す。気をつけていないと、すぐに昔の呼び名が口に出てしまう。
男性が呆れたような笑いを浮かべた。
「いや、さすがにもう慣れてくれないと……」
「は、はい……」
そうは言うが、なかなか思うようにいかない。何度か相談をしてきた、あの人のことを思い出す。『ムリムリムリムリ!』と、二人で首をぶんぶん振っていた頃が懐かしい。
「まぁ、ゆっくり──」
「ああっ!」
男性が着ていた服にほつれを見つけた女性が、大きな声を出して裾を掴んだ。
そしてぷりぷりと怒る。『あれだけ気をつけろと言ったのに』なんてくどくどとお小言を言い始めた。
男性はとぼけるように頭をかいた。
「真面目ですねぇ」
「もう! あなたの方こそ、いい加減にちゃんとしてください! 今日は挨拶もあるんでしょう!」
「はっはっは」
「司祭様!」
けっきょく、昔の呼び名を口にする。替えの服をばたばたと取り出し、丁寧な手付きで着せていく。
頭から足元までチェックする彼女にかまわず、男性がドアの方に向かって歩を進めようとした。
「さぁ、早くしないと遅れてしまいますよ」
「……そうやって、すぐごまかすんですから」
唇をとがらせた女性が隣に並び、二人いっしょに部屋の外に出る。
ばたん、とドアが閉じられ、次第に声が遠ざかっていく。
『オスカーやセリアも来ているそうですよ』
『ふふ。久々に会えますね』
『ええ。……しかし、オスカーが騎士団に入るとは、思ってもみませんでしたよ』
『もともと正義感の強い子でしたから──』
二人の会話が聞こえなくなる。
静まった部屋に、窓からの風がそよいだ。閉じられた本がぱらぱらとめくられる。
少ししてから風が鳴り止んだ。一つのページのところで止まる。
そこには、一枚の花弁を付ける押し花の栞があった。




