第15話 黒幕の末路
「なんたることだ!」
『がしゃぁん!』という音と大声が部屋に響く。あまりの怒りに、遠見を移していた水晶鏡を床に叩きつけていた。
きらきらと舞った欠片の一つが頬を浅く切り裂いたが、そんなことに構っていられるほどの冷静さは、今の彼にはなかった。
「クソ! クソ! クソッ!」
散らばった鏡の破片を苛立たしげに踏み潰す。ふぅふぅと肩で息をして、それでもおさまらないのか椅子を蹴飛ばし、さらに机を何度も何度も足蹴にした。
デイモンが見ていた水晶鏡は、彼の計画の全ての失敗を映していた。
最初は教会に放たれた炎だ。燃え盛る様子に頬杖を付いて、『お気の毒に』と他人事のように──実際他人事だった──眺めていたが、教会は何ごともなく持ちこたえてしまった。持っていたグラスをつるりと落とす。目をこすってもう一度見るが、やはり映像は変わらない、水晶鏡を掴んで間近まで顔を近づけ何度も見直すも、同じ光景しか映らなかった。
不発か何かか──無理やり納得した次は、ぴんぴんしたウィルが複数の人物と一緒に現れるところだった。燃え尽きるどころか火傷すらしていなさそうである。そもそもなんで教会以外から出てくるのか。『仕事は予定通りに行え!』と、ずれた怒りを抱いた。抱き合うシスターと孤児が忌々しかった。
そのあとは映像が乱れた。すでに割れてしまったが、この水晶鏡はかなりの品だ。こつこつと『内職』で溜めたあぶく銭を元に、怪しい行商人からふっ掛けられたものである。とは言え性能はしっかりとしており、見通せる距離も映像の鮮明さも通常の物とは一線を画していた。
うまくいかない焦りといら立ちにがんがんがんと何度か叩き、首をひねって位置を移動させたり高く持ち上げたり。部屋の中でいい歳したおっさんが怪しい動きを続け、ようやく映像がある程度戻ったと思ったら、侍女と鎧がぶつかり合っているところだった。
どちらの人物もデイモンは知らなかった。いや、侍女の方は王宮で何度か見かけたことがあった気もする。あれは誰が連れていたか……?
デイモンの思考は目の前の映像にかき消された。鎧の人物がど派手な魔法を使ったからだ。最初に見た炎なんか比にもならないくらいである。おそらくこの人物は例の組織の、その中でも上位の者だろう。何度か直接取引はしてきたが、彼が会えるのは組織の中でも下の方でしかなかった。
『やれ!』とか『そこだ!』とか、手足を動かし興奮して応援するが、けっきょく侍女に完敗を喫した。何をしたかはまったくわからなかったが、とにかくデイモンの声援虚しく鎧は倒れ伏せ、全ては失敗に終わった。
映像はそこで終わり。もはや何も映さなくなった水晶鏡を張り倒して、それは今、彼の足元に散乱していた。
「あのクズどもめ! 高い依頼料を求めておきながら!」
デイモンが支払った報酬は決して安いものではなかった。やれ準備料だの前金だのと何度も要求され、結果的に渡した金額は彼の給金数ヶ月分に及んでいた。
それも今だけの我慢だ。つまりは先行投資、必要な経費である。これが終われば自分の天下がやってきて、いくらでもすぐに取り戻せる。そう言い聞かせて、奴らの横柄な態度にも辛抱強く耐えてきたのだが──
「もしあいつらがげろを吐いたら……いや、いくつか経由したのだ。それに変装もしていた、ワシまでには手は及ばんだろう」
うろうろと部屋を歩き回り、言い聞かせるようにぶつぶつと独り言をつぶやく。
途中、かつんと鏡の破片に足が当たり、びきっと青筋を立てて思い切り蹴り上げる。飛ばされた破片は宙を舞ってから壁に当たり──
跳ね返ってデイモンの額に当たった。
「うがっ!」
額に手を当てうずくまる。手のひらを見ると、赤いものがてろりと付いていた。
びきびきびきっと追加の青筋が二つ三つ浮かび上がる。『ふしゅうううう!』と鼻息を荒らげ、鬱憤を晴らすための何かを探そうと部屋を見渡し、
『そんなとこで高みの見物か?』
「誰だ!?」
すぐ耳元で男の声がした。振り向くも、誰もいない。
レオナルドが出ていったあと、扉には鍵をかけた。覗かれたかと一瞬過ぎったが、部屋の隅にあった魔道具はしっかりと作動中である。間諜対策にはそれなりに力を入れていた。よそ者が入り込む隙間など、この部屋にはない。
「……空耳、か──ぁっ!?」
勘違い。力を抜こうとしたデイモンの首が誰かに掴まれ、ものすごい力で引っ張られた。
声を上げる暇もない。そのままデイモンは部屋の中央にできた真っ黒な穴に引きずり込まれ、姿を消した。まるで沼か何かに沈むような、とぷん、と音が聞こえてくるかのような消え方だった。
穴が消え、静寂が訪れる。あとには割れた鏡と倒れた椅子、そしてぴかぴかと今も作動する魔道具だけが残った。
リチャードが穴から腕を引き抜く。その手にはデイモンの首根っこが掴まれていた。
「……まさかそなたとはな」
「な、なんだ!? ここはどこだ! は、離せ!」
じたばたと暴れるが、リチャードの太い腕は微動にしない。力を込めて黙らせる。
「マローニ公爵様……」
「宰相……なるほど、貴方でしたか」
デイモンの姿を見たアリスが悲しげに眉を下げ、アレフは額に手を当て地面を見つめた。
マローニ公爵家はそれほど大きい家ではない。無論、公爵な以上ある程度の力はあるし、血もそれなりの物である。だが家格という点では、公爵の中では最下層と言ってもいい。リチャードが身を置くクライン公爵より、遥かに下である。それどころか、スチュアート家のほうがよっぽど力を持っていた。
ではなぜそのマローニ公爵が、宰相という立場を任されているのか。それはひとえに王家に対する忠誠の高さだった。
先代、先々代──いやもっと前。それこそ王国が基盤を作り上げる頃から、マローニ家は王家を支え続けてきた。表舞台には立たず、陰からひっそりと。自身の手柄は誇らず、だけれども誰かの顔は立てる。他の誰もが避けたくなるような単純作業や泥臭い仕事まで、率先して引き受けてきた。それはまさに縁の下の力持ち、と言わしめるものだった。
その功績は褒められて然るべきものだった。しかし勲章の数や褒賞は少ない。なぜあんな家の者が宰相の職についているのか。そう言って揶揄する者もいた。
だがわかる人にはわかる。この家なくして王家なし。聡いものにはそう評価されてきた。
デイモンの代になってもそれは変わらなかった。誰かの前に立つのはせいぜい進行役くらいで、普段は書類をさばくのが主な仕事である。偉いことには偉いが、光を浴びることは決してない。しかし王国の大動脈を担う者たち。それがマローニ公爵家というものだった。
アリスもリチャードもアレフも、それをわかっていた。家格なんかより歴史と風格、成してきたことに礼儀を示す。顔を合わせるのはパーティや祭式くらいだったが、相手は王国という一つの巨大組織の土台である。王家と同じかそれ以上に敬意を払う必要があった。
だからこそ、この計画を企てた者が彼という真実に、悲しみと憐れみを抱かずにはいられなかった。
そしてそれはウィルも同じである。ひょっとするとアリスたち以上に。なにしろウィルは、先代マローニ公爵が幼い頃の教育係だったのだから。
「……デイモン、マローニ」
人を引っ張り出したことに瞠目しつつも、ウィルが絞り出すような声で首謀者の名前を呼んだ。厳しくも快活で、いつだって王国を一番に考えていた『おじいちゃん』の顔を思い浮かべながら。
「うぃ、ウィルフィード……王子殿下」
「本当に貴方がやったのか?」
「な、なんのことでしょう、私にはさっぱり……そ、それよりこの狼藉者をなんとかしていただけますかな?」
汗と薄ら笑いを浮かべてから、リチャードの方を向いていけしゃあしゃあと言う。
その態度にウィルがぎゅっと目をつむり、拳を握りしめた。どうやら息子の育て方は間違えてしまったらしい。
「離してやってくれないかな」
ウィルの言葉に、リチャードは素直に従った。
解放されたデイモンはぎろりとリチャードをにらんだあと、四つん這いで移動してウィルの足に縋り付いた。
「おお……おお! 信じてくださいましたか!」
「……デイモン」
「さぁ、共にあの不躾な男を捕らえましょうぞ──」
「もしあいつらがげろを吐いたら、だったか?」
リチャードが見下ろして言った。デイモンは目に見えて狼狽する。
「な、なぜそれを!? あの部屋には魔道具が──はっ!」
「語るに堕ちたな」
「ち、違いますぞ殿下……こんな男の妄言を信じられては──」
「見苦しいぞ、デイモン」
なおも誤魔化そうとするデイモンだったが、レオナルドが前に出て腕を組む。
「レオナルド王子殿下……」
「俺が証人だ。忘れたとは言わせん。俺も貴様も、潔く罪を認めるべきだ」
「……よろ、しいのですかな。貴方もただではすみませんぞ」
脅すような言い方だが、レオナルドは静かに首を振った。
「俺はもう全てを話した。王宮に帰ったら沙汰を待つ。貴様も諦めろ」
「……婚約者殿も」
「そのフィフィに叱られてここにいる……あいつは俺より強い、遥かにな」
「尻に敷かれそうですね、兄上」
「……うるさいぞ」
話は終わり、静寂が訪れる。
デイモンが周りを見渡す。見下ろす王子二人に、仁王立ちするリチャード。その後ろで悲しそうに目を伏せるアリスに、背後に控えながらも怒りを露わにしているミシェル。横には呆れたように腰に手を当てるアレフがいた。
さらに視線を移す。こちらをじっと見ているケヴィンとアンナ、魔導車に群がり不思議そうに見つめる子供たち。司祭やシスター、運転士までもが様子を見守っていた。
周り全てが自分を見ている。味方はいなかった。逃げ場はない。
「ぐ……ぐぐっ……あああぁあぁぁっ!」
「!? デイモン!」
デイモンが声を上げて走り出した。躓いてこけそうになるも、子供たちに向かって突進する。手にはきらめくものが握られていた。
運転士が間に立つ。両手を広げて、子供たちを庇うようにデイモンの前に立ちふさがった。
「どけえぇぇ!」
必死の形相でデイモンが叫ぶ。運転士は怯みそうになったが、それでも動かない。身を挺して止めようとする。
どかないなら仕方ない。このまま刺し倒して子供を盾にし、なんとか逃げ道を作る。こんなところで終われない。なんのために高い金を出したというのだ。
デイモンは姿勢を低くし、ナイフを腰だめに構え無我夢中で突撃をして──
「がああぁぁあぁっ……あぁっ……あぁ?」
叫びは疑問の声に変わっていく。
走るも走るも運転士の姿が近づいてこない。すぐに届きそうな距離だというのに、一向に縮まらなかった。
「…………う、うおおぉ!」
足を止め、正面と足元を交互に見てから、眉に皺を寄せてまた走り出した。叫び声は上げておく。そうしたほうがなんだか良い気がしたから。もしかすると、自分の覚悟が足りなかったかもしれない。
「うおー! ……うおおおおぉー!」
声を一段と張り上げ、運動不足気味で痛みを訴える横っ腹を無視して頑張って足を動かすが、やはり運転士のところまでたどり着けない。
デイモンは気づいていなかった。己の足元、さらにその下にある地面が、動力コンベヤのように後方へと動いていたことに。
「ミシェル」
「はい、なんでしょうか」
「ううん……よくやったわ……」
壁を作るとか結界を張るとか、まともな方法はいくらでもあるにもかかわらず、陰険なやり方である。
アリスは何も言わず、しれっと答えたミシェルから目を逸らして、まだなお頑張り走り続けるデイモンに憐れみの視線を送った。皆もとろんとした目つきになっている。アレフは『うわぁ……』と声を出していた。
「ぜぇー! はぁー! な、なぜだ! なぜ追いつかん! なぜ……なじぇだぁ……!」
「も、もういいだろう」
汗だくになってヒィヒィ言う姿を見かねたリチャードが、デイモンの肩に手をかけた。
「は、離せぇ!」
「む」
しかしデイモンは腕を振り払い、ナイフをめちゃくちゃに振り回す。
魔法を使うまでもない。リチャードは慌てず騒がず、突き立てられそうになった銀色のそれを、人差し指の腹で受け止めた。摘むようにして奪い取る。
「ひぃっ!」
「ふん」
ぶん、と腕が振られ、デイモンが投げ飛ばされる。地面に叩きつけられた彼はうめき声を上げた。乱暴な扱いだったが、誰も同情はしなかった。
「う、うご……」
「デイモン・マローニ。国家転覆罪の疑いで、貴殿を拘束する」
「…………ぐぅ」
「はぁ……弁論くらいは聞いてあげるよ……」
項垂れたデイモンに肩を落としたウィルが、後方へ合図を出す。
司祭とシスターが縄を持ってやってきた。首謀者を縛ろうと近づいていく。
「触るな! そんなものいらん!」
デイモンが怒鳴り散らして追い払おうとする。困った二人がウィルを見た。
ウィルはもう一度ため息を吐いて、手を振って下がらせる。
「なにか言いたいことがあるみたいだね」
その言葉に顔を上げたデイモンが、王家への敬意も言葉遣いも忘れて声を張り上げる。
「そもそも王家が悪いのだ! ウチを軽んじ、あまつさえ褒賞や褒美も取らせない! 賜ったのは代々同じ宰相という立場だけ! 他にはなんの見返りもありゃせん!」
「……それが王家と公爵家の間で決めたことだよ」
「知っている! バカげた約束だとな!」
王家とマローニ公爵家では、ある取り決めを交わしていた。それは、決してマローニ公爵家を重用しないこと。過剰な褒美や華々しい勲章は不要。ただし、宰相という立場だけは確約してほしい。王の側近となり、国の礎としてその骨を埋める。そのための椅子を用意してもらいたい。
全ては我が王国の未来のために。それが、マローニ公爵家の掲げた家訓だった。
「父も何度も言っておったわ。『我々のために国があるのではない。そこに住む民と、民を先導する王家のためにあるのだ』とな」
「……そうだね、私も聞いたことがあるよ」
「はっ! そのたびに滑稽だと思っておったわ! 『約束』などという古ぼけた呪いにいつまでも惑わされ、安い給金で使い潰されている姿にな!」
「先代は……」
「聞きたくないわ! 体よく使っていた王家の言葉など! ……言っておくが、ワシの狙い通りになったほうが絶対にあとあとよかったぞ。ワシは変えようとしたのだ、歪んだ体制を廃止し、本来あるべき評価制度にな」
「……だから」
そこでアンナが一歩前に出た。宰相公爵という、遥か上の身分を相手にも関わらず話を遮る。大変に無礼なことだったが、彼女は止められなかった。
「ああ? なんだ」
「だから、子供たちはどうなってもかまわないと言うのですか」
震える声で問いかける。デイモンの話は、アンナにも一部だが理解できた。男爵令嬢である彼女は、学生の頃に不遇な扱いを受けたことがある。この職業を選んだ時は家とも喧嘩した。今だって不人気で、稀にだが蔑んだ目で見られることもある。評価されないということは辛い。それは身をもって味わっていた。
だが、親もおらず住むべき場所も失い、それでも懸命に生きる子供たちの命を蔑ろにするのは、どうしても許せることができなかった。
デイモンは『ふん』と鼻を鳴らして、
「子供にもいろいろおろう。ここが将来性のある者たちが集う施設なら、ワシも選ばんわ。だが孤児など、別にどうなろうが影響はない。むしろ消費が減るのだからな、有り難いことだ」
「そ、そんな……」
「財務や経理担当がどれだけ頭を悩ませているか知らんだろう。ただ浪費し、重要な職にもつかず保護制度に群がる屑どもにな。ちっ、なんの価値もない、薄汚い孤児ごときが──」
デイモンは最後まで言えなかった。いつの間にか眼前にいた、目にも留まらぬ速さで接近したミシェルに胸ぐらを掴まれたからだ。アリスやリチャードにすら反応できない速度である。デイモンが理解することは不可能だろう。
「ミシェル!」
「ぐあっ……な、なんだ貴様は……!?」
「…………」
「あっ……!? がぁっ……!」
アリスが呼ぶ声やデイモンのうめき声にも答えず、腕を上げて掴む身を持ち上げていく。
デイモンの足が地面から離れた。ばたばたと必死に動かすが、空中を泳ぐだけだった。
ミシェルの両手に光が集る。ブラムに向けたものより数段上。人間など塵一つ残さず木端微塵に吹き飛ぶ。それくらいの破壊力があった。
「ミシェル、ダメ……! やめて、お願い……」
このままではミシェルが罪に問われることになる。あとを追いかけたアリスが背中から抱きついた。腰に腕を回し額を背に当て、己の従者の暴走をなんとかして止めようと懇願する。
「……っ」
泣き出しそうな主の声に、ミシェルはぎりっと奥歯を噛み締めて手に力を込め──
集まった光を霧散させ、手を離した。どすん、と尻もちを打ったデイモンは、その場で咳き込んだ。
「がはっ……! き、きざま……! こんなことをしてただで──」
「…………」
「あ、あぁ、なんだ? なんだ!?」
首に手を当て呼吸を整えるデイモンの足元に、魔法陣が現れた。次にぼこぼこと地面が隆起し始める。
「ひっ、な、なんじゃこれは!」
尻もちを付いたまましゃかしゃかと手足を動かし逃げ出そうとするが、がつんと背中に壁のようなものが当たった。
振り返るが何もない。オスカーやグィンがやったように何度かぺたぺたと空中を触り、がんがんと叩くようにしたあと、閉じ込められたことを理解する。
そして一気に地面が上昇した。
「なんじゃあああぁぁあぁ!」
デイモン一人分より少し幅広なそれは、彼を乗せたままもの凄い速さで上に伸びていく。叫び声も急激に遠ざかっていった。
到達したのは数百メートルほど上空。つい先ほど下にいたはずなのに、今は風が吹きすさぶくらいの位置に、ぽつんとデイモン一人だけになっていた。
「ひぃひぃ……」
見なくてもいいのに見てしまう。デイモンがそーっと端からのぞきこんだ。壁は消えているようだった。
ミニチュアみたいな教会、米粒のような人影。森は向こうまで見渡せる。夕焼けで雲が煌めいていて、綺麗だった。写真ならさぞ楽しめたに違いない。
自分が今どこにいるか理解したデイモンの足が、がくがくと震えだす。飛べる者は降りられるだろうが、デイモンには無理だった。
「ひいいいぃぃっ!」
中央まで慌てて戻る。突風が吹いた。飛ばされそうになって、頭を押さえてうずくまる。
「た、助けてくれえぇぇぇ……!」
しゃがんだまま乞うが、誰もいない。こんな高さからでは声は届かない。
一歩も動けなくなった彼に、続けて不幸が訪れる。
今度はいきなり地面が消えた。
「ほへっ……」
間抜けな声を出す。漫画のワンシーンのように、一瞬その場で硬直したあと、彼は真っ逆さまに墜ちていった。
「ぶぎゃあああぁぁぁぁぁっ!」
豚の悲鳴のような叫び声を上げたデイモンは、確かに見た。己の生きてきた軌跡、生まれ落ちてからこれまでの人生のその全てを。小うるさく言っていた父の姿も含まれていた。
股間に温かいものが流れる。涙と鼻水も信じられないほどに溢れ出た。『それ見たことか』と父の言葉が聞こえた気がした。
そうしてデイモンは気絶した。地面に激突するよりかなり前だった。
「けっきょく、聞けず仕舞いか」
体液という体液を全て流れ出し、気を失っているデイモンを見たレオナルドが言った。デイモンからある程度の情報を聞き取るのが目的だったが、ぴよぴよと目を回している姿を見るに、もはや望めそうもない。
「申し訳ございませんわ……」
「たいへんすみませんでした……」
アリスとミシェルは小さくなって謝罪した。
「い、いい罰になったんじゃないかな……お咎めなし、ということで」
「……それに部屋で聞いた限り、大した情報も持っていないだろう」
ウィルもレオナルドも目を泳がせて不問にする。デイモンを見て、次に顔を見合わせた。『絶対に怒らせちゃいけない』と表情で語り合っていた。
「ありがたく存じます……ミシェルはしばらくお仕事控えて。頭を冷やしなさい」
「はい……」
自身の行いのせいで、主であるアリスまで謝罪するはめになっている。専属侍女としては失格だ。ミシェルはうつむき加減でうなずいた。
その姿に、アリスが細い息を吐く。
「……それと、罰として私といっしょに全部の孤児院を周ること。いいわね?」
「お、お嬢様……!」
「大変よ? 場所も多いし、お父様とお母様を説得しないといけないもの」
「はい! ぜひ私に、私にお任せください!」
胸に手を当てたミシェルが顔を輝かせた。そこからアリスと一緒にあれこれ話し合う。衣服の支給はどうか。おもちゃも必要だ。院の修繕はお任せを。寄付は相談しましょうね。微笑みながら予定を立てていく。
それを見ていたリチャードは、隣に立つアレフに声を顰めて話しかけた。
「……話したら夫人にバレるのではないか?」
「まぁなぁ。どちらにしろ、ここまで話が大きくなったら黙ってるわけにはいかないだろ」
「王妃殿下が不憫だな……考えようによっては、良き采配を振るったとも言えるが……」
「……そこに賭けるしかねーな」
「くちっ!」
王宮の一室で、テレサは可愛いくしゃみをした。
そのせいで書類のサインがずれてしまう。口元にハンカチを当て、跳ねた筆跡をぼへっと見つめた。
書類は近衛の出動要請に関するものである。ウィルから『緊急』と連絡を受け、全ての手順をすっ飛ばして彼女の元に届けられていた。
心配にはなったが、友人の娘もついている。しかも、ウィルが言うにはその婚約者も従者も揃っていた。なんの憂いもないだろう。
「あら、風邪ですか? 医師を呼びましょうか?」
執務補佐を担当していた女性法官が手を止め、気遣うような声を出した。
「失礼……そう、かしら。少し悪寒がしたの」
「それはいけません。明日の公務はキャンセルしましょう。至急、呼んでまいりますので」
「ええ、お願いね」
ぱたぱたと出ていく姿を見届け、『明日はゆっくりしましょ』と声を出してから、新たにサインをし直す。
彼女は、忘れていた。怖い怖い友人へ口止めしていたことを。
「……制度も見直したほうがいいね」
「ウィル……」
「悪しき風習……とまでは言いません。立場を超えた美しい友情だと思いますよ。ただ、やはり実力主義──は言い過ぎですが、結果に見合った対価は払うべきだと」
倒れるデイモンを見る。デイモンが悪いか、と言えば純度百パーセントで悪いと言い切れたが、そうさせたのは古くから続く口約束である。同情の余地はあった。王家にも見直すべきところがある。
「……お前ならやれるさ」
きっぱり言い切るウィルの横顔に、レオナルドはニヒルに笑った。
「兄上……それですが──」
「う、ぐう……」
ウィルの言葉は聞こえてきたうめき声に中断された。
皆の視線が一箇所に集まる。見ると、リチャードが昏倒させた大剣の男が息を吹き返していた。
目覚めた彼はまず首を動かして横を向き、驚きに目を見張ってから痛む身を起こそうとして──縛られていることに気付いたのか、諦めたように力を抜いた。
「はぁ……ブラム様もやられちまったのか……」
天を仰いでぼそっと漏らす。もう一度首を動かし、リチャードの姿を見つけて『にかっ』と笑った。
「あんた、つえーな。なんも見えんかったぜ」
「ふむ。貴様もなかなか早い目覚めで驚いたぞ」
「そりゃどーも」
男の態度はサバサバとしたものだった。悲観も恨みごとも言わない。まず間違いなく、こういう状況に慣れていると見えた。
「聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
ウィルの声に男の視線が向けられる。だが口は開かない。じっと見続けていた。
「情報によっては恩赦もあるよ」
もう一度話しかけ、辛抱強く待つ。
恩赦というのは冗談ではなった。有力情報には見返りを。場合によっては刑期の短縮や、監視付きとはいえある程度の自由を与えることもある。能力の高さから騎士団に放り込む時もあった。
それは男もわかっているのだろう。考え込むように地面を見つめていた。
「ね、教えてくれないかしら」
アリスが男のすぐ隣に膝を折った。手を腿に添え、顔をのぞきこむ。
男は彼女を呆けたように見たあと、にやりとした笑みを作った。
「……そうだな、あんたが相手をしてくれるなら──って嘘うそ、冗談だって。そんな怖い顔で見るなよ」
「うん? 手合わせくらいなら、別にいいのだけれど……?」
男の言葉に首をかしげるアリスの背後には、どぎつい目でにらみつけるリチャードがいた。軟弱な者なら視線だけで殺せそうである。
「あんた、彼氏かなにかか。……危なっかしいからしっかり見ておけよ」
「貴様に言われるまでもない」
腕を組んで不機嫌な声を出す。アリスはまだ首を捻っていた。
「はあ、わかったよ……どうせ戻れやしないんだからな。知ってることはあんまりねーが、なんでも聞いてくれや。と、その前に」
「ん?」
「これ、もうちょっと緩めてほしいんだけどな」




