その2
「料理を、ですか?」
いきなりのお嬢様登場に、やや億劫そうな顔と声で、侯爵家料理長のジェフが聞き返した。
侯爵家で長いこと料理人をやってきた彼は、侯爵夫妻やその娘息子の好みまで完全に把握している。腕もいい。彼の作る料理は誰もが絶賛していた。
使用人では年長の部類に入る彼でも、この突然な話には困惑した様子だった。
「そうなの! 手料理が、リック様が、胃袋が──」
「お嬢様は少しお静かに。はい、調理を知っていれば将来の役に立つかと。公爵夫人としても、招く客の相手をするのに必要な知識になるかも知れません」
「ふむ……私としては、全て任せて欲しいといった気持ちなのですが」
暗にでもなく黙ってろと言われたアリスが不満げなのを後目に、ジェフが顎に手をやる。『己の領分に関わらないでいただきたい』とでも言いたげだった。
それはそうだろう。侍女だって指示は受けるが、仕事の邪魔はされたくない。主は高いところからふんぞり返っていればいいのだ。
「お気持ちはわかりますが、どうかお嬢様のために」
そう言って頭を下げるミシェルを見たアリスは、罪悪感がこみ上げて来たようだ。自分が邪魔になっていることをひしひしと感じて、頭を下げまではしないが、手を合わせてお願いをする。
「ごめんなさい、ジェフ。私、どうしても料理をしてみたいの」
『ダメ?』と聞くその姿に、どうやらジェフも根負けしたらしい。彼女が生まれる前から侯爵家に仕えており、幼いお嬢様の好き嫌いを克服させるため、あれこれ手を費やしてきた彼もまた、アリスには甘かった。
「わかりました、お嬢様。 ──マイ!」
「ひゃぁいっ! 料理長!」
こちらをちらちら見ながら根菜らしき物の皮むきをしていた女性が、ジェフの声にその手を止め、近寄ってきた。料理の邪魔にならないようにポニーテールにした髪が、歩くのに合わせてぴょこぴょこと揺れている。
「お嬢様、料理人のマイです。彼女から説明を受けてください」
「ええっ! 私がですか!」
「マイ」
「あっ!」
呼ばれた女性、マイがアリスを見る。
しゅんとしたその姿に、土下座せんばかりの勢いでぺこぺこ謝りだした。
「すみません! そういう意味ではなく! わ、私なんかがという……!」
「いいの……よく考えてみたら、自分でも邪魔だなって思うもの……」
「おぉっ! お嬢様!」
『気づくのが遅いですよ』というミシェルの声も相まって、アリスがどんどんしょんぼりとしていく。
マイは料理人だ。しかも料理長のような役職付きでもない。下ごしらえや掃除が主な、ただの下っ端である。それからすると、仕えている家の娘なんて雲上人に等しい。そもそもお目にかかれることがめったにない。
それなのに失礼な態度を取り、なおかつ落ち込ませてしまった。気難しい令嬢なら、今この場で『なにこいつクビよ』と言われても不思議でない状況だった。
「し、失礼いたしました! 誠心誠意、やらせていただきます! で、ですから……!」
「……ありがとう。よろしく頼むわ」
「お、お嬢様……はい、お任せください!」
まだちょっと落ち込み気味な笑みではあるものの、怒ることも叱ることもしないアリスの姿に、マイはじわりとした目をごしごしと擦った。そしてやる気に溢れた顔つきになる。
マイクがほっと息を吐いた。
「ふぅ……よろしくお願いします、マイ。今の貴女の作業は、私から他の方にお願いしておきますので」
「は、はい!」
「そうですね……そろそろ貴女も、次のステップに移ってもいいかもしれませんね」
「えっ!」
「貴女の仕事の丁寧ぶりはわかっていますから。人に教える難しさを、今回でいくらか学んでおきなさい」
「料理長……ありがとうございます! 頑張ります!」
「お嬢様の胸をお借りできること、ありがたく思うように」
「お嬢様のお胸ですか!」
マイがアリスの胸をじっと見る。『でかいです』と口が動いていた。
アリスは両手で隠すようにして後ずさった。
「そうではありません……」
「す、すみません料理長!」
「謝る相手が違うでしょう……申し訳ございませんお嬢様、そしてミシェル殿。こんなのですが、マイをよろしくお願いいたします」
「え、ええ……って、ミシェルもなに見てるの」
「お胸です」
「はっきり言わなくてよろしい」
ジェフが奥に引っ込み、残された三人はまず、アリスにエプロンを着けてもらうところからにした。料理人の服は予備があるが、さすがにそれを着てもらうわけにもいかない。
初めて着けたそれに、アリスは嬉しそうにくるっと一回転した。マイと同じようにポニーテールにした髪が、一拍遅れて捻る身体を追いかける。
「どうかしら?」
「似合うか似合わないか、で言うと、大変に微妙なところですが……」
「でも可愛いですね……いけない新妻感が半端ないというか……」
「そう、ですね……」
「に、新妻って……そんな……やだっ」
「なんですかね、その反応も……」
「そうですね……これはなんというか……卑怯ですね」
その美貌と、普通にしていれば溢れ出る気品。
決してお似合いだとは言えなかったが、余所行きではない部屋着だったこともあり、エプロンを着けたアリスの姿は、新婚奥様のコスプレをしたような破壊力があった。
「で、ではまず、お嬢様は料理のご経験は?」
「ないわ。まったく。これっぽっちも」
気を取り直したかのようなマイに、きっぱりと言い切るアリス。
マイは特に落胆することもなく『そうですか』と考え込んでから返事をした。
「ちなみに、なぜ料理をしようとお思いになられたのですか?」
「えっ!」
「えっ?」
「なぜ、なぜって、それはだって……」
ごにょごにょ言うアリスが指をつけたり離したりする。ちらっとミシェルを見るが、『ご自分でどうぞ』とすました顔だ。
(思いやりがないわ!)
ぷんっとしてから、またもじもじ話し出す。
「あの、ね。本でね、読んだのね」
「本ですか?」
「そのね、料理ができるとね、その、殿方から、好まれるってね、書いてあった、から……」
尻すぼみのその声は、最後の方はほとんど聞き取れなかった。
それでもマイは目を輝かせた。
「わかりますそれ!」
「マイ?」
「私は平民なので、お嬢様のような貴き血を持たれる方とは違うかも知れませんが。でも、私も最初に料理を始めた理由は、相手に好かれたかったからなのです」
「そうなの!?」
「はい!」
恥ずかしげもなく笑顔でそう言ったマイに、アリスはまるで人生の教師を見るかのような目になる。
やっぱりそうなのだ。料理ができる、それは男性に非常に魅力的に映るのだ。あの本に書いていることは正しかった。
『ほーらご覧なさい!』と、勝ち誇った顔をミシェルに向けた。
『また余計なことを』と、ミシェルは顔を片手で覆った。
それを見て満足したのか、アリスは『ふふん』と鼻で笑ってマイに向き直った。
「それではそんなお嬢様に、秘奥の料理をお教えしましょう」
「秘奥!?」
「はい。簡単なのに奥深く、時間がなくてもぱぱっとできて、なおかつ味もいい。しかも男性の心を掴んで離さない、そんなスペシャルなやつです!」
「すごい! すごいわそれ! スペシャルだわ!」
「私の彼も大好物なのですよ!」
「そんなに!?」
「あまり調子に乗らせないでください」
「ミシェルは黙ってて!」
『聞けなくなっちゃうじゃない!』と、エプロンを握りしめぷんすか怒る。
ミシェルは今日何度目とわからないため息をついた。
「それで、その料理名ですが」
「料理名ですが……?」
ごくりと飲み込んで先を待つ。勿体ぶった物言いにじれじれとするが耐える。この料理名だけは聞き逃さないようにしないと。そう思ってじっと待った。
マイの口が動く。
「卵焼きです!」
「たまごやきぃ!?」
たまごやきぃ……
まごやきぃ……
やきぃ……
「なにそれ?」
『えっ』




