作戦その三 ~悩みを聞いてあげましょう~
またしばらくはお勉強タイムが続いた。
とはいえ、ルークは優秀である。さきほどの時間でだいたいの不安要素は解消されたのか、それほど質問も飛ばない。
愛しくも誇らしい気持ちで見つめるアリスと、静かに勉学を進めるルーク。侍女が注ぐお茶の音だけが、ひそやかな部屋に響いていく。
そんな時間が少し続いてから──
「ね、ねぇルーク」
アリスが口を開いた。
「はい、なんでしょうか」
「えっとね……」
「?」
「お勉強以外の悩みとか、な、ない?」
アリスの次の作戦が開始された。つまり弟の悩みを聞いてあげる姉である。
ルークはまだ十二歳。思春期に足を踏み入れた年齢である。交友関係とか恋愛関係だとか、そういった方面で悩みもあるだろう。人生の先輩として姉として、何か助言できることがあるかもしれない。
そう考えての第三の作戦だった。
『これはどちらかというと』
『どちらかというと?』
『お嬢様のほうが悩み多いのではないでしょうか』
『ぐっ……』
(気にしていることをずばっと言ってくれちゃって!)
昨日の打ち合わせの時に言われた言葉は、彼女の心に深刻なダメージを与えた。
しかし言い返せない。だって本当にそのとおりなのだから。毎日毎日悩んでいる。
だがそれでも姉である。大人の女性である。弟よりも六歳も年上である。
彼はまだデビュタントも迎えていない。勉学面は優秀でも、これからの社交や貴族特有のねちっこい嫌がらせ、派閥争いやらなにやらで、苦労する場面もきっと多い。
だから悩みを聞いてあげたいという想いは、まぎれもなく本物だった。
(じ、自信はあまりないけれど……)
作戦そのニは練習することもできたが、さすがにこれは本番ぶっつけだ。シミュレーションくらいはしてみたものの、苦手な話題──つまり恋愛方面で来られたら、己の脳内ですら受け答えできていなかった。
「悩みですか?」
「え、ええ。なにか気にしていることとか、ないかしら?」
なるべく話しやすい雰囲気を、隠そうとしても隠せていない不安混じりな声で、彼女はできるだけ笑顔で作ろうとした。
「悩みですか?」
「え、ええ。なにか気にしていることとか、ないかしら?」
悩み。
ある。
ルークは即思いついた。まさに今直面している、大変に精神が消耗していく悩み。
「姉上」
「な、なぁに?」
「あ、いえ……」
「え? あ、そう?」
悩みの元凶、悩ませる張本人をちらっと見たルークは、手元のカップに目線を移した。無理に作ったということがありありと感じられる笑顔を見て、何も言えなくなってしまう。
他にも悩みと言われたら、少しはある。
王女殿下との婚約や、三年後に迎えるデビュタント、いずれは家を継ぐというプレッシャー。未来への不安は、誰にだって伸し掛かってくる問題だ。
だが、それらはまだ先の話だ。成長するにつれて、次第に精神や力も鍛えられていくだろう。もちろん今から準備しておくに越したことはないが、今すぐなんとかしないと、という話ではない。
そう、今すぐなんとかしないと──というより『今すぐなんとかしてくれ』といった悩みの解決が先である。
ルークがもう一度姉を見る。
何度も言うが、彼女は大変に美しい。思いやりがあって、性格もいい。今も無理に悩みを聞いてくれようとしている。
そんな彼に思い浮かんでくるのは、少し昔、友人を家に招いた時のことだった。
遠馬をやろう。友人がそう言いだした。
さすがにまだ初等部高年。遠方ではなく近場に馬を走らせる、遠馬と言うには可愛いものではあったが、乗馬の練習やちょっとした散策も兼ねて、スチュアート侯爵家が選択された。
親に許可を取り、馬丁に頼んで厩舎から馬を呼び寄せ、自室で友人と予定走路を話していた時だ。姉が挨拶に顔を見せたのは。
『こんにちは』
姉が微笑んで言った瞬間、空気が変わったことがはっきりと感じられた。
『姉のアリス・スチュアートです』
『ルークと仲良くしてくれてありがとう』
『遠馬でしたっけ? 気をつけないとダメよ?』
『怪我なんてしたら怒っちゃうんだから』
そう言って姉が部屋を出ていったあと、案の定大変な騒ぎになった。
『今の誰!? お姉さん!?』
『お、俺の姉貴と違う……』
『むしろ怒られたい……』
『わかる!』
『なんで隠してたんだよ!』
隠してなどいない。姉がいる、そう言ってきた。その日集まる前にも。
けっきょく予定は崩れて、そのあとは自室で姉談義となってしまった。一人が部屋を出て盗み見しにいこうとしたから、全力で止めた。
なおもそのあとその友人は『本当に罵られたいんだよ』などと言って家に来ようとしたため、付き合うのをやめるか本気で悩んだ。
あの時、姉に邪険になってしまったのは申し訳ないと思う。だけどどうしても素直になることができなかった。婚約者にはともかく、これ以上友人に姉を見せたくない。わかっていないのだ、姉は。
記憶を振り返りながら、ルークが悩みを打ち明ける。
「……では聞いてもらえますか」
「あ、あら、あるの? 悩み……」
「はい」
「ど、どんときなさい」
ルークが話し始めた。アリスは相槌を打ちながら聞いていく。
「その、ある人に迫られておりまして」
「ある人?」
「ええ。その人は……その、大変に綺麗な方で……」
「え!? 女性の方!?」
驚いたアリスが、ずずっと身を乗り出してルークに近づいた。
「ええ……」
「王女、殿下……?」
「違います! クローゼ──ではありません、別の人で……」
「まぁ!」
頬を赤らめ口に手をあて、さらに驚く。
(も、もしかして、ルークっておモテさん?)
そうかも知れない、とアリスがルークを見るが、それはそのとおりである。
彼の母親譲りの淡い金髪は、王族の血を少し匂わせる。顔も整っていて、なおかつ優秀。しかも侯爵家跡取り。かなりの優良物件だろう。王女がアタックしている以上、他の令嬢には手を出せないとは思うが、それでも魑魅魍魎はびこる地獄──ではなく、学園である。
女性は男性より早熟だ。乗馬だ狩りだと少年の心をいつまでも忘れない男性よりも、女性は将来に貪欲だし、殿方が持つ魅力と権力を敏感に察する。なんなら性知識も得るのが早い。まだまだ遊びたい年頃な中等部でも、すでに女性は社交場として認識し、未来の旦那探しに躍起する。例外が目の前にいるが。
事実、彼は王女がいないとき、よく令嬢に囲まれていた。
アリスは急激に弟のことが心配になっていく。
「それで、えっと、迫られてるって……」
「そうですね……急に抱きつかれたり、手を握られそうになったり──」
「身体に触れてくるの!?」
「え、ええ。なんとか振り払ってはいるのですが」
(そ、そんな……)
弟の悩みの凄まじさに、アリスは戦慄を覚えた。そんなもの、自分の手に負えられるわけがない。己の脳内シミュレーターが白旗を挙げていた。煙をぷすぷす上げているようにも感じる。赤いアラートがびーこんびーこんやかましく鳴っていた。
それでも、弟のためになんとか声を出す。
「だ、ダメ、よ……? 関わりない相手に、その、身体をゆ、許すのは……イヤならちゃんと言わないと……」
「…………」
「ルーク?」
「……ないです」
「え?」
「イヤでは……ないのです……」
「…………ふぇ」
変な声を出したアリスの顔色が、どんどんと悪くなっていく。
嫌ではない。それはつまり、身体だけではなくある程度心を許しているということ。
彼女の頭の中では、腰をくねらせて弟に引っ付く謎の美しき少女と、その肩を抱く弟の姿、そしてそれを遠目にぽつんと見る、王女の絵ができあがっていた。
ついこのあいだに婚約の話が出たばかりだというのに、あろうことか、弟は二股をしている──
「ダメよ!」
アリスが声を荒げて立ち上がった。
「姉上!?」
「あ、ご、ごめんなさい……」
すぐに座るが、ひたいに汗を浮かべてまたも考え込む。
どう言えばいいのか。この不貞野郎、か。まずは家に紹介しろ、か。王女殿下にけじめをつけてからにしろ、か。王家と両親の交渉を無視してでも、今この場で言うべきだろうか。
(む、ムリよ……)
そんなことできるはずもなかった。悩みを打ち明けてくれる弟にも酷いことは言えない。そう、彼だって悩んでいるのだ。
自身の決断力の無さに情けなくなるアリスだったが、弟も王女も悲しませたくない彼女は、けっきょく、付き合いが長いほうの味方を選んだ。
「……それでも、ちゃ、ちゃんと断らないと」
「え?」
「『近寄るな』とか『関わるな』とか、その、ちゃんとお断りを──」
「言えるわけないでしょう!?」
その言葉に今度はルークが声を荒げた。
『ばん!』と叩かれたテーブルが震える。カップからお茶がこぼれそうになった。
「えええ!?」
「あ、す、すみません……」
「う、ううん……」
ルークの反応にアリスはなおも驚くが、これまで以上に驚いたのが『断れるわけがない』と彼が言ったことだった。
つまりそれは、権力が高い人物に言い迫られているということ。侯爵家より遙かに上だろう。王女殿下という王家に属する、しかもそれぞれの親公認とも言える仲を無視して迫っているのだ。留学に来た隣国の王女とか、そんななのかもしれない。まさか弱みでも握られているのでは。
それはもはや両親や王、王妃を交えて話をすべき案件だった。
「る、ルーク」
だが、これだけは聞いておかないといけない。
「その人のことは、好き、なの?」
「……ええ」
アリスがソファから立ち上がって魔法を唱え始める。使うのは伝達、宛先は母親。父親とのデート準備のために忙しくしていたが、緊急の用件である。混乱しているためか、必要数以上の鳥がどんどんと生まれていった。
慌ててルークとミシェル、さらには侍女が三人がかりで彼女を止める。
「あ、姉上!」
「お嬢様! 早まらないでください!」
ミシェルが必死に羽交い締めにするが、
「離して! お母様に連絡を……! ルークが! 王女が! どろどろが!」
「僕が悪かったです! やめてください姉上!」
「いいの! 私は貴方の味方だから! お母様に伝えて助けてもらいましょう!」
「やめてください!」
「お嬢様!」
「離してったら!」
それでも涙顔で暴れるアリスに、ミシェルは少し──いや、だいぶ魔力を込めてしがみついている。ルークは魔法をキャンセルしていき、侍女も彼女の腕を取り押さえていた。
わかっていたことではあるが──
作戦は失敗した。
■途中経過報告
そこまで困ってはいない、相手も悪気や下心はない、愛情を持って接してくれているだけ。
ルークからそのように言い聞かされたアリスは、なんとか落ち着いたものの、ソファに横になっていた。
ミシェルが気を鎮める魔法を唱えている。それを心配そうにルークが見つめていた。
「申し訳ございません、姉上……」
「ううん、私こそ……ごめんね、本当にダメなお姉ちゃんだよね……」
アリスが声を震わせる。
悩みを聞くどころか、取り乱して迷惑をかけてしまった。勉強の時間も奪ってしまっている。何が作戦だ。そんな力もないくせに。けっきょく大失敗してしまった。
顔を覆う両手の隙間から、涙がこぼれる。
「そ、そんなことはありません!」
ルークが声を震わせた。
「ルーク……」
両手を顔から離したアリスがルークを見た。
彼はその手を取って、ぽつりと告げる。
「……嬉しかったです」
「えっ……」
「その……悩んでいることは本当ですが、勉強を見てくれようとしたのも、悩みを聞いてくれようとしたことも、僕は姉上の気持ちが嬉しかったです」
だから泣かないでください。彼はそう言った。
だが、そう言われたアリスは魔法の效果を跳ね除け、先ほどの比ではないくらいに両目からぶわっと大量の涙を溢れさせた。
「るーぐうぅ……ひぐっ……ううぅえぇ……!」
「姉上!?」
姉の号泣にどうすればいいのかわからないルークは、とにかく手を握る力を強める。困ったように見られたミシェルが、ふぅ、と呆れた息を吐いた。
「こうなったらしばらくはこうですよ」
「ふぐっ……るーぐぅ……」
アリスがもう片方の手も伸ばす。ルークは慌ててそちらも掴むが──
「ぢがう!」
「えっ!?」
「ごっぢ!」
なぜかアリスは怒った様子で彼の手をべしっと払い除け、もう一度両腕を伸ばした。
意図を理解したルークが、『うっ』と声を詰まらせる。
「あ、姉上……それは──」
「やっぱりぎらいなんだああぁあぁ……!」
「なぁっ!?」
『わああ』と大声でまたも泣き出す。もはや作戦云々、いいお姉ちゃんがどうのこうのではない。大変に子供な姿だった。
ルークは迷った様子を見せたが、
「うううう……」
泣きながらもちらちら見てくるアリスのほうへ静かに寄って、
「あ、姉上……」
「ん……」
ぎゅっと抱きついたのだった。
ここ最近避けてきた行動と同じではあったが、子供のようにしがみつくアリスに、ルークもこれまでのような邪念を抱くようなことはなく、拒絶感もなかった。
「姉上……その、嫌ってなどいませんので……」
「うん……!」
まだ多少涙を流してはいるが、アリスはすでに笑顔になっていた。
「あのね、ルーク……」
「……なんでしょうか?」
ひとしきり満足したのか、姉の姿に戻ったアリスが、ルークの頭を撫でながら話しかける。
「さっきの話ね……本当にその、なにもないのよね?」
「ええ、それはそうです。少し困ってはいますが」
「そう……たぶん、たぶんだけどね、その人もルークのこと好きなんじゃないかって、そう思うの」
「…………」
「あ、もちろん、その、あ、愛とか恋じゃなくてね……」
「……ええ」
それはわかっているルークだったが、黙って話の続きを聞く。
「だからね、きっとその人もどうしたらいいかわからないと思うの」
「…………」
「なんとか仲良くなりたくて、でもそのやり方がわからなくて……そうして引っ付いちゃうの」
私がそうだから、とアリスが言った。
「姉上……」
「その結果困らせちゃって、でも他の方法がわからなくて、また困らせちゃって」
「……たしかに、そうですね」
「ね? だからね、ちゃんと時間を作って話そうって、私は思ったの」
アリスはゆっくりと、ここ最近から今日にかけての内容を話した。仲良くしたいこと、避けられて悲しかったこと、母からお小言を言われたこと、勉強を見るのもお茶を淹れるのも、全て仲を深めたいがためにやったこと。悩みを聞くのは失敗したけれど……
そして姉の考えを理解したルークは、虚心で考えてくれていたことに胸が熱くなった。
「恥ずかしいね」
「いえ、そんなことは……ありがとうございます、姉上」
「ふふ。だからね。その人とも話し合えばね、きっとなにを考えているか、わかると思うの」
「……そう、ですね」
「ルーク」
弟の名を呼び、抱きつく力を強くする。
「も、もういいでしょう!」
「あっ……」
ルークがさっと身体を離す。アリスはもの凄く残念そうな顔をした。
「ルークぅ……」
「よ、用を足してきますので!」
侍女を連れたルークが、早歩きで部屋の外へ出ていった。
残されたアリスがソファから身を起こす。
「けっきょく失敗しちゃった」
「いえ──」
大成功じゃないですか。
そう言ったミシェルの顔を、アリスは不思議そうに見つめた。




