作戦その一 ~お勉強を見てあげましょう~
(あら、お疲れかしら?)
弟の部屋に入ったアリスは、彼の顔を見てそう思った。
少し心配になるが、逆にこれはチャンス。自分が癒やしてあげないと。いいお姉ちゃんは弟の体調にも心を砕くのだ。
きっとお勉強疲れなのだ。昨日に練習した甲斐があったというもの。このあとの作戦の成功率が、ぐっと上がった気がした。
「なんだかお疲れね?」
「……誰のせい、だと」
「ん?」
「……いえ、なんでもありません、姉上」
なんでもない。そう言いながらも、何かもの凄く言いたいことがあるような感じを受ける。
アリスは子供に向けるような笑みを浮かべた。
(まったく、男の子なんだから)
素直じゃないのよね、と彼女は近づいていく。
近づくにつれて、ルークはどんどんと挙動不審になっていった。
「あ、姉上……どう、されました?」
「ルーク」
「……なんでしょうか、その顔は」
「ふふ」
「姉上……?」
そうして彼女はルークの目の前まで行き、仁王立つ。
「ほ、本当になんでしょうか」
「えっとね、お勉強」
「は?」
「お勉強の調子はどう?」
どうやら勉学の様子を聞きに来たようだ。
ルークはほっとした。またなんか突拍子もないことをされるのではないかと、気が気ではなかった。
ずんずんとこちらに向かってくる雰囲気も怖かった。こっちは全力で防衛しているというのに、そんな心境お構いなくに突進してくる姉に危険を感じる。婚約者にはあんなにぽんこつなくせに。その仕草と度胸を、ちょっとはあの人にも向けてやれ。
「そうですね、自力ではやはり限界があって……あ、姉上からいただいた教材はわかりやすく、感謝しています」
「そう」
己の感情を出さずに答えると、姉がにまりと笑った。
ほっとしたのもつかの間、その笑顔を見たルークはまたしても不安になる。
「あ……姉上?」
「ほら、こっち」
机に座る彼を追い越してソファの方に行ったアリスが、テーブルをぺしぺし叩く。
「お勉強、見てあげようと思って」
「あ、姉上……」
その言葉に、ルークはじーんとした。
何をされるんだろうか、そんなことを考えていた自分を恥じる。姉はこんなにも思いやりがあるというのに。
きっと、数日後にはまた別邸に戻る自分のことを、気にかけてくれたのだろう。会うのが、雰囲気が怖いなんて思った自分がバカだった。
申し訳無さを隠して笑顔を向ける。
「ありがとうございます、姉上。正直助かります」
「うん、ほら」
アリスが『おいでおいで』とソファから手招きをする。
素直に従って腰をかけると、彼女が隣りに座った。
……なぜ隣?
「姉上」
「なぁに?」
隣に座る姉がにこやかに笑った。
近い。
隣でも、もうちょっと離れていてもいいはずなのに、腕が触れ合えるか否か、といったぎりぎり具合。いや、ドレス部分がすでに触れている。さわさわした感触が心を揺らした。
それに、この前に直で嗅いだほど強烈ではないが、もの凄くいい匂いがしてくる。おかしい、使っている洗髪剤などは大差ないはずなのに。
「あの……」
「ん?」
問いかけようとするも、まだ笑顔を浮かべながら首を傾けてくる。その仕草にどきりとした。目を細めているせいで、慈愛のような雰囲気を醸し出している。それに釘付けとなってしまった。
「な、なぜ隣なのです?」
「お勉強を見るなら隣の方がいいでしょう?」
全力を振りしぼって言いたいことを声に出したのに、あっさりと返されてしまった。しかも正論で。
先からいた侍女、それと彼女が連れてきたミシェルへ助けを求めるように視線を向けるが、どちらもふるふると首を振る。
諦めろ。
そんなことを言っているような気がした。
「わ、わかりました」
「うん!」
「うっ……よ、よろしくお願いします」
「えぇ!」
「うっ……」
これは本当に死ぬかもしれない……
きらきらした姿からテーブルへと目を逸らしたルークは、漠然とそう思った。
二人から少し離れて傍観していたミシェルと侍女が、揃って同じ目を向ける。輝かんばかりなアリスと、死の宣告を言い渡されたようなルークに、二人ともが哀れみの視線を向けた。
そうして拷問という名のお勉強タイム……逆だった。お勉強タイムという名の拷問は始まった。
「どこまでやったの?」
「そうですね。このあたりまでは理解ができていると思います」
「あら」
ルークから示された学習内容を見て、アリスは感心した。すでに高等部として学ぶべき範囲を、ある程度進んでいたのだ。別邸での家庭教師は延期になったはず。であれば、これは純粋に彼の実力。
弟が優秀である。そのことに傲岸な気持ちで胸を張りたくなるが、同時に作戦の成功率に不安を抱く。
「ルーク」
「はい」
「あのね、もう少しおバカさんでもいいのよ?」
「は!?」
おバカでいろ。
勉学を見てくれるはずの姉からそう言われたルークは、愕然とした。
「あの、姉上……教えてくれるのですよね?」
「そうよ?」
「そ、そうですか……」
意味がわからないルークが黙り込む。
作戦を知っているミシェルはため息を吐いた。
「不安なところとかある?」
問われたルークが少し考え込む。
それなりに理解はしてきたつもりであるが、不安と言われるとけっこうあった。特にいま苦戦しているのは、王国各地にある領地ごとの特色だ。
どこどこの伯爵家は小麦の収穫量が豊富、なになにの子爵家は領地こそ小規模であるが人脈が広い、だれだれの侯爵家(自分らのことである)は王家に顔が利く──
要するに楽しくない内容である。
ルークはどちらかというと算術が得意だった。答えは一つだというのに、そこに至る過程は数多。彼はその過程を見つけるのが好きだった。
だが自分は跡取りである。幸い、両親のおかげで今は豊かではあるし、他領とも友好的な関係を築けているが、それを完璧に受け継いでさらに広げていくことが、自分の役目だった。
「そうですね、この科目が──」
そういう考えで、彼が苦手でありながらも力を入れたい分野を伝えようとした時、
「んー?」
アリスが顔をすっと近づけた。
「──不安でぁっ!?」
顔が、さらに、近い。
横を向いたら頬に唇が当たるのではないか。それくらいの距離。
彼女の整った鼻立ち、きめ細かく透き通るような白い肌、なのに赤みがかった頬、潤ったような血色良い朱唇、びっくりするほど長いまつ毛。
それらがはっきりと見て取れた。なんなら産毛まで見えてしまいそうな気がする。
さらには、さらっとした銀髪が邪魔にならないよう、髪をかきあげるような仕草をしたことで、形の良い耳が丸裸になっている。そしてまたしても襲ってくる芳香。
「あぁ、ルークはどちらかというと計算が好きだったわね──どうしたの?」
見惚れて固まってしまったルークを、アリスが不思議そうに見つめる。
近距離で話しかけられたため、彼女の甘い息が耳をくすぐった。
「う、うわあああああ!」
復旧したルークが怯えとも取れる声を上げて、彼女から慌てて身を離した──と言ってもソファの端までであるが。
「ルーク!?」
「はぁー! はあぁぁあ!」
「ど、どうしたの? 平気?」
「なんでもありません! そう、なんでもないのです!」
「そ、そう……」
胸に手を当て早い呼吸を繰り返すルークと、またしても距離を取られて落ちこむアリス。
そんな二人に、ミシェルと侍女は揃ってため息を吐いた。
そのあとしばらくは、わりと普通に進んだ。
あれから少しだけ距離を取ったルークと、つつっと近づくアリスでもうひと悶着あったが、概ね順調と言える滑り出しだった。
弟が質問をし、姉が答える。的確な質問と明瞭な回答。それは、まぁ傍目に見ても、姉弟の触れ合いと思えるようなものだった。
「休憩にしましょ?」
始まってからほどほどに経ったころ、アリスが休憩をうながした。
「そうですね。ありがとうございます、姉上。大変にわかりやすいです」
「ふふ、ありがと──」
「姉上?」
異論のないルークは素直に頷いてこれまでのお礼を言うが、すっと立ち上がった彼女に不思議そうな顔をした。
彼を置いて、アリスは部屋の外に出ていこうとする。
「待っててね」
「はぁ、わかりました」
ドアの前で振り返ったアリスに、わからないながらも大人しく首を縦に振る。
彼女はそのままミシェルを引き連れて、部屋から出ていった。
「なんだろう?」
「おそらくですが……」
「わかる?」
「……ふふ。ルーク様は愛されておりますね」
「んん?」
どうやら侍女は理解しているようだ。
さっぱりわからないルークは、とりあえず待つことにした。
■途中経過報告
「いい感じ、いい感じよ!」
厨房に向かったアリスは、興奮した様子でかちゃかちゃと茶器を揃えていた。料理人から受け取ったお菓子とともに、慣れない手付きで準備を進める。
「まぁ……今のところはそうですね」
それをはらはらして見守るミシェルが、気の入らない相槌を打った。今回は『手伝うな』と言われているため、必死に我慢しているようだ。ついでに料理人もはらはらしている。
「また距離を取られた時は失敗したかと思ったけど……」
「あれはお嬢様が悪いですよ」
「なんで!?」
がちゃん、と大きな音を立てて驚くアリスに、ミシェルはもう何度目かわからないため息を吐いた。
「これまではお嬢様の得意分野でしたから、それなりに上手くは進んだと思いますが……」
「そうでしょそうでしょ」
「ここからはぽんこつなので本当に気をつけてくださいよ」
「さっきから失礼ね!」
うるさく準備を終えたアリスは、厨房をあとにした。
「ポットと茶葉を忘れています」
「あ、あら……」
「本当に大丈夫ですか」
「だ、大丈夫よ」
うるさく準備を終えたアリスは、今度こそ厨房をあとにした。




