ブリーフィング
「準備はいいわね」
手紙を出したあと、王家から訪問の挨拶が来る前。
スチュアート侯爵家の長女、アリス・スチュアートはこの日のために練った、弟であるルークと仲良くなるためのその戦術を披露しようとしていた。
『アリス』
『はい、お母様』
『貴女バカでしょ』
『お母様!?』
彼女が母からそう言われたのは数日前。ルークに抱きついたあとだった。
少しでも仲良くしてあげなさい。
寝室でそう言ってきた母の言葉通り、アリスは少しでも仲良くしようと、隙を見つけては弟に抱きついた。
だが返ってきたのは激しい拒絶。両手で押しやられ、引き離され、さらにそのあとも近づいては逃げられる。もはやアリスは、可愛い弟と引っ付きたくとも引っ付けない状況に陥っていた。
何が悪いのか。わからないだけで、やっぱり嫌わているんだろうか。
そう悩んでいた時にまたしても母から呼び出された彼女が、開口一番言われたのが先ほどの言葉だ。
『貴女ね、直接的すぎよ』
『でもお父様は』
『あれは参考にしちゃダメ。ダメな見本だから』
『ダメ? 見本?』
『……他になにか、無理に近づこうとしてないわよね』
『えっと、別に──あ、手を繋ごうとしました』
『…………』
『でも握ってくれませんでした……』
『…………』
『良い姉になると誓ったのですが、これでは……』
『はぁ……』
『はぁ……』
母娘揃った仕草で、しかしその性質が全く異なるため息を吐く。
アリスはとにかくいいお姉ちゃんになりたかった。だが、どうもうまくいかない。
少し昔、ルークが友人を家に招いた時、彼女は姉として挨拶した。弟と仲良くしてくれていることに、感謝を伝える。彼女は良き姉として普通に挨拶をしたつもりだった。
だがその日、友人が帰ったあとの弟は、なんだか不機嫌だった。
『どうしたの』と聞いては見たものの、答えは返ってこず。わけのわからぬまま、彼女は悶々と過ごした。
あからさまに嫌われている感じがしないのも、またアリスを不可解にさせる。
この前も出かける際に見送りに来てくれた。沈んでしまった雰囲気を変えようと、自分のことを慮ってくれた。
弟の思いやりを、彼女は感じる。だからこそわからなかった。
「お母様の言う通り、まずはお勉強を見てあげましょう」
わからないことだらけだったが、もうすぐルークは王都の別邸に移ってしまう。それまでには何かしら、仲を深められるようなことをしておきたい。
そのように考えたアリスは、今日は用意した作戦を使って、弟に一日ついていてあげることにしていた。
「本当にやるのですか」
いっしょにいた専属侍女のミシェルが、心配そうに見てきた。
「そうよ。昨日も言ったじゃない」
「……大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ。男の子はね、素直じゃないだけなの」
まったくミシェルもまだまだね。そう言ってドヤ顔で腰に手を当てる。
ミシェルは残念な人を見るような顔をした。
「ふっふっふ」
「母君様からも注意されたのでしょう? あまり躍起になっては……」
「そんなこと言って、行っちゃったら元も子もないじゃない」
「それは、たしかにそうですが……」
「今日でいいお姉ちゃんになるのよ!」
拳をぐっと握りしめて気合を入れるアリスとは別に、ミシェルはもの凄く不安そうである。
「さぁ、行くわよ」
「本当に大丈夫でしょうか……」
「直接的は、ダメ……ダメ……」
そうぶつぶつ言って、アリスは作戦を実行に移した。
「…………」
スチュアート侯爵家の長男、ルーク・スチュアートは、自室で静かに勉学に励んでいた。
学園が閉じられたのは残念だった。晴れて中等部首席になれ、さあこれからだと思っていたのに、まさかの休校である。本当に件の令嬢は余計なことをしてくれた。本来であれば、学園のカリキュラムで復習をしつつ、王都の別邸に家庭教師を呼び、高等部教育の修学を始めていたはずだった。
だが学園があんな事になった以上、別邸にいても仕方ない。家庭教師とは休日のみという内容で契約を交わしていたのだ。それだと平日は、すでに修了している部分を独りで復習するしかない。向こうだって暇ではないだろう。予定が変わったから平日も来てよ、とは言えなかった。
そのため、どうせなら全てのスケジュールを延期。領地に戻り、住み慣れた環境で復習と予習をする方を選んだ。王女殿下も同じようなことを言っていたため、自分だけではない、と考えた彼は安心して実家に帰ることにした。去り際、少し寂しそうにしていた、別邸専属の執事と侍女の顔を思い浮かべる。
ただ、実家に少しでも帰ることが出来るのは単純に嬉しかった。特に今回は帰郷と両親の帰宅が重なり、わずかな間ではあるが、姉も含めて家族が揃ったのだ。
両親が帰ってくると聞いた時は、少しだけではあるが、事をしでかした当事者に初めて感謝の気持ちを抱いた。
(姉さま……)
姉から譲り受けた、手元にある教材を見つめる。最低限に、だが本当に重要な点は逃さずにマーカーが引かれ、留意点や補足などが綺麗な字で書かれていた。
その字を指でなぞりながら、彼は想いを馳せる。
姉、アリス・スチュアート。
怜悧であり利発。自分もこの歳で中等部の学業を修めることができたが、姉はさらにその先、デビュタントまでに高等部教育を修了させている。さらには夫人教育、ダンス、マナー、作法といった、おおよそ女性が成人までに学ぶべきことは、全て終えていた。
しかも魔法技術も高い。洗礼で稀有な加護を得たのが主な理由ではあるが、幼い頃から訓練に明け暮れていたと聞いていた。高ランクの冒険者ですら躊躇するような魔物にも、勇猛果敢に突進する。災厄討伐の時は凄かった。自分は残念ながら普通の洗礼で終わったが、別に気にはしていない。むしろ成長するに従って、魔法を知れば知るほど、姉の凄さに誇りを感じていた。
さらには、弟の自分でも意識をしっかりと保っていないと、あっさりと飲み込まれそうになる、その美貌。うっかりしていると、家族への情以上の物が容易く生まれてしまいそうで怖くなるほどだ。
それだけでなく、使用人に対しても柔和に接する、一視同仁な性格。柔らかく微笑めば、麗容と合わさって敬服してしまいそうな雰囲気を出す。
そんなおおよそ完璧と言っていいくらいの姉。
そのうえ。
そのうえ──
「……帰ってきたのは失敗だったかな」
ペンを口の下に当てたルークがぼそっと言った。そばにいる侍女がぴくりと動く。
それを感じて振り返ると、侍女はうつむいて口元に手を当てていた。どうやら笑いのツボに入ってしまったらしい。
「……ねぇ」
「失礼……しております」
「なんで進行形かな……」
仏頂面で文句を言いながらも、ルークは侍女が笑う理由をはっきりわかっていた。
姉が、迫ってくる。
例えでもなんでもなく、本当に迫ってくるのだ。
この前は驚いた。食事中に腕を伸ばして何をしているんだと思ったら、いきなり抱きつかれた。
一瞬、頭がフリーズした。
柔らかな感触が脳髄を直撃した。特に胸部のそれは、凄まじい衝撃を身体と心に与えてきた。ふっくらむにゅっと、おおよそ人が持ち得る最高の肉質を、姉は保有するに至っていた。
ふわっと漂ってきた芳しい香りも、己の生存根源にズシリと来た。そのパンチ力と言ったら。香水なんかじゃ絶対に出せない、本能を刺激してくるような馨香。それが鼻孔をこれでもかとくすぐってくる。慌てて引き剥がしたが、すでに後の祭りだった。
「ううっ」
思い出してしまったルークが、頭をぶんぶんと振る。
姉のことは、好きである。昔からいろいろと面倒を見てきてくれた。両親も含め、家族には恵まれていると思う。
だが、このままでは自分の生理現象の要因が、主に姉となってしまう。それだけは絶対に許容できない。王女殿下にも顔向けできなくなる。
「姉君様は奔放な方でございますから」
彼の様子に、侍女が眉を下げて笑った。
奔放。
そう、そのうえ奔放なのだ。成熟した、黙っていれば成人女性の雰囲気を持つ姉は、その実、子供のように無邪気だった。
それが彼を困らせる。
ここ数日──具体的には両親が帰ってきたその日から、何があったのかは知らないが、姉はその天真爛漫な性格で、だが煩悩を直撃するような身体で迫ってきた。
隙を作ってしまっては、それを逃さずに狙い撃つかのように引っ付いてくるため、気を張っているのが大変な労力だった。なんとかこれまで逃げては避けてきたが、そろそろ精神も限界である。ついでに身体も。
部屋から出るのが怖い。次は何をしてくるのか。まさか一緒に寝ようとか考えているのではないか。ありそう。なにせあの姉だ。なんだか当たり前のように提案してくる気がする。
「ね──姉上は、いったいなにを考えているんだろう……」
「ルーク様」
「このままだと僕は死ぬと思う。ごめん、不甲斐ない跡取りで……」
「ルーク様、ちょっと、しっかりしてくだ──失礼します」
遠い目をしたルークを侍女が言い聞かせようとした時、ドアがノックされる。
様子を伺いに行く姿を見て、彼は非常に嫌な予感がした。
「……ルーク様」
「……誰?」
「……姉君様です」
嫌な予感はすぐに的中した。心の中で遺書を書きながら、入室の許可を出す。
「……どうぞ、お入りください、姉上」
「ルークー?」
ドアを開けたその隙間、盗み見するような形で、疲弊の元凶が顔を覗かせた。




