7話
時が経つのは早いもので、船員見習いとしての日々が始まってから、すでに三週間が経過していた。
最初の一週間はひどいものだった。
筋肉痛と関節痛のコンビが、寝ている間すら休ませてくれない勢いで全身を襲ってきた。
特に、初日の修行を終えた翌朝は本当に酷かった。
アルバは「倒れるまで」と言った。
てっきり大袈裟な言い回しかと思っていたのだが、彼は見事なまでにその宣言を実行した。
腕が上がらなくなるまで木剣を振らされ、膝をつけば少しだけ休憩。ようやく終わったと思えば、
「よし、もう一回だ」
と、何事もなかったように再開させられた。
スパルタにもほどがある。
あの男はきっと、鬼か悪魔の生まれ変わりに違いない。
半べそをかきたくなることもあったが、そのたびに砂潜鮫の牙が脳裏を過ぎる。
あれに喰われるよりはマシだ。
そう自分へ言い聞かせながら、どうにか毎日の修行を乗り切った。
もっとも、アルバもただ無茶をさせているわけではなかった。
僕がどこまで耐えられるのかを見極めながら、身体をぎりぎりまで追い込み、それでも大きな怪我をする前には必ず止める。
苦しいことに変わりはないが、今振り返れば、その加減は驚くほど絶妙だった。
その甲斐もあってか、ここ数日は翌朝になっても身体がひどく痛むことはなくなった。それどころか、今では修行とは別に毎朝自分から素振りをするのが日課になっている。
リエリエッタが起きてくる前に朝食を済ませ、その後は甲板へ出て木剣を振る。そして、彼女がようやく朝食を終えた頃に船長室へ向かう。
そんな流れが、ここ何日か続いている。
そこで知ったことが一つある。
リエリエッタは、どうやら朝に弱い。
最初の頃こそ、それなりにしゃんとして食堂へ現れていたのだが、日が経つにつれて少しずつ化けの皮が剥がれてきた。
朝食の時間が遅くなり、席へ着いてもしばらくは目を細めたまま、何やらもにょもにょ言っている。
パンを片手にぼんやりとしている姿は、初めて出会った頃に抱いた、凛として隙のない船長という印象からは随分とかけ離れていた。
ところが不思議なもので、仕事を始める頃にはいつものリエリエッタへ戻っている。
背筋を伸ばして書類へ目を走らせ、船員からの報告にも淀みなく答える。
――いや。
どちらが本来のリエリエッタなのだろう。
最近は少し分からなくなってきた。
船長室は、もともと人の出入りがそれほど多い場所ではない。
毎日掃除をしていれば当然汚れも減り、最初の頃ほど時間を取られることもなくなっていった。
リエリエッタの書類仕事も一段落しつつあるらしく、次の街へ到着するまでは、机を埋め尽くしていた書類の山ともしばしのお別れらしい。
ならば手持ち無沙汰になるかと思ったが、そうはならなかった。
空いた時間を使って、今度はリエリエッタが文字や算術を教えてくれるようになったからだ。
文字については、最初こそ見知らぬ記号の羅列にしか見えなかった。
けれど毎日繰り返し教わっているうちに、少しずつ形と音が結びついていく。今では簡単な文章であれば、時間をかければ読める程度にはなった。
自分の名前も書けるようになった。
ナナシ。
仮の名前ではあるけれど、自分の手で初めてそれを書けたときは、思っていた以上に嬉しかったし達成感もあった。
算術の方も、簡単な足し算や引き算程度であれば問題はない。
数字そのものの考え方は、どうやら記憶を失う前から知っていたらしい。ただ、この世界で使われている数字の書き方が分からなかっただけのようだ。
この数週間は、自分にできることが日に日に増えていった。
身体は以前より動くようになり、剣も振れるようになった。文字も少しずつ読めるようになり、船の仕事についてもほんの僅かではあるが分かるようになってきた。
自分が少しずつ前へ進んでいる。
そんな実感を持てることが、素直に嬉しかった。
けれど、そんな中でもまるで進歩している気がしないものが一つだけあった。
見張りだ。
リエリエッタと共に、毎日昼過ぎから夕方前まで見張り台の上で過ごしている。
音を聞け。
匂いを嗅げ。
揺れを感じろ。
そう何度も言われているものの、未だにその感覚を掴めずにいた。
耳を澄ませても聞こえてくるのは、風が帆を撫でる音や木材の軋む音ばかり。床へ手を当てても伝わってくるのは、船が砂の上を走る一定の振動だけだ。
リエリエッタには、それらの中から何か別のものを拾い上げることができるらしい。
だが、僕にはさっぱりだった。
その日も、いつもと変わらない砂海が広がっていた。
砂海では天候が大きく変わること自体が珍しいらしく、今日も狂ったような陽光が黄金色の砂を容赦なく焼いている。
マストの上に設けられた見張り台は、風こそよく通るものの、日差しを遮るものがほとんどない。
黙って座っているだけでも汗が滲み、首筋を伝って服の中へ流れ込んでくる。
「暑い……」
袖で額の汗を拭う。
その隣では、リエリエッタがいつものように横になっていた。
眠っているのか、見張りをしているのか。
最近ではもう、その判別をすること自体を諦めつつある。
そんなときだった。
閉じていたリエリエッタの片目が、ぱちりと開いた。
「ナナシ。右手側を見てみろ」
「え?」
唐突に言われ、促されるまま顔を右へ向ける。
黄金色の砂丘と、白く焼けた空。
それ以外には何も見えない。
「……何かあります?」
「いいから、見とけ」
先ほどまで眠そうだった声から、僅かに緩さが消えていた。
訝しく思いながらも、言われた場所へ目を凝らす。
最初は、本当に何もなかった。
ただ遠くに、陽炎で輪郭を歪ませた砂丘が続いているだけ。
けれど、しばらくして。
「……あれ?」
砂丘の一角で、細い砂煙が立ち上った。
風に巻き上げられただけかと思った。
だが、それは消えない。
むしろ周囲の砂を次々と呑み込みながら、見る間に太く、高くなっていく。
砂が、地上から空へ逆流するように吸い上げられていた。
一本の柱だったものが捻れ、膨れ、周囲の景色を霞ませながら巨大な渦へと姿を変えていく。
「なんだ、あれ……」
「死の砂嵐だ」
いつの間にか、リエリエッタは起き上がっていた。
見張り台の手すりへ肘を預け、遠くに生まれつつある砂嵐を興味深そうに眺めている。
「運がいいな。誕生する瞬間なんて、そうそう見られるものじゃない」
「……あれが」
死の砂嵐。
その名は、リエリエッタの授業やアルバとの修行中に何度か耳にしたことがある。
エーズ地方に存在する、最も恐ろしい災害の一つ。
何の前触れもなく生まれ、進路上にあるものを見境なく呑み込んでいく巨大な砂嵐。
人も、船も、砂中に潜む生き物でさえも。
巻き込まれれば、まず助からない。
だからこの地方では、こんな言い伝えまであるという。
――死の砂嵐は、エーズの神が気まぐれに吐き出す息吹なのだ、と。
遠くにあるはずなのに、砂の壁はみるみるその存在感を増していく。
天と地を繋ぐように立ち上がる濁った柱を見ているだけで、喉の奥が乾いていくような感覚がした。
「……あ、あれ」
声が僅かに裏返る。
「あれ、こっちに来るんですか?」
「んや」
リエリエッタは気軽に首を振った。
「あれは来ない。進んでる方向が、こっちとは真反対だ」
「……本当ですか?」
「本当だよ。これまた運がいいな」
身体を強張らせる僕とは対照的に、リエリエッタはまるで街中の芸事でも眺めているような気楽さだった。
遠くでは、今も砂嵐が膨れ続けている。
「じゃ、じゃあ……」
思わず唾を飲み込む。
「もし、こっちに来てたらどうするんですか?」
「ん?」
リエリエッタがこちらを見る。
そして、何でもないことのように答えた。
「祈る」
「……はい?」
「祈る。それだけだ」
「そんな……祈るだけなんですか?」
「ああ」
リエリエッタは再び遠くの砂嵐へ顔を向けた。
「一般人にどうこうできる代物じゃないからな」
あまりにもあっさりと言う。
冗談なのかと思ったが、その横顔には先ほどまでのふざけた色がなかった。
「逃げるのも無理なんですか?」
「距離と風向き次第じゃ逃げられる。捕まったら……手はない訳じゃないが、ほぼ助からないな」
そこでリエリエッタは、ふっと口元を緩めた。
「だから普段から敬虔に祈っとけよぉ。エーズの神は気まぐれだからな」
結局、最後にはいつもの調子へ戻る。
けれど僕は、とても笑う気にはなれなかった。
遠くで渦巻く砂の柱へ、もう一度目を向ける。
あれに追いつかれれば、船も人も、すべてまとめて呑み込まれる。
そう考えると、開いた口がなかなか塞がらなかった。
しかし、リエリエッタの軽口のおかげだろうか。
先ほどまで身体を強張らせていた緊張も、少しずつ解れていった。
少なくとも、あの砂嵐がこちらへ向かっていないことは確からしい。
それなら、滅多に見られないものだというし――どうせなら見ておこう。
そう思い直し、改めて遠くの死の砂嵐へ目を向ける。
先ほどは恐怖ばかりが先に立っていたが、落ち着いて眺めてみると、その光景は恐ろしいだけではなかった。
地上から天へ向かって砂が逆流するように吸い上げられ、巨大な壁となってゆっくりと移動している。
砂丘の輪郭が次々と呑み込まれ、その向こうの景色が茶褐色の霞へ消えていく。
遠く離れたここまで音は届いてこない。
それなのに、あの場所では途方もない風が吹き荒れているのだと、見ているだけで分かった。
リエリエッタの言う通り、その進路は僕たちの船から逸れている。
ほっと胸を撫で下ろしながらも、一つの言葉だけが頭から離れなかった。
――手はない訳じゃない。
先ほどリエリエッタが何気なく口にした言葉だ。
ほとんど助からない。
それでも、絶対に助からないわけではない。
なら、何をすれば生き残れるのだろう。
あれほど巨大な砂嵐を相手に、人間にできることがあるとは到底思えない。
やはり魔法だろうか。
風を押し返すのか。船ごと守るのか。それとも、僕には想像もつかないような方法があるのか。
考えてみても、答えらしいものは何一つ浮かばなかった。
そんなふうに遠くの砂嵐を眺めながら頭を悩ませていると、背後から梯子の軋む音が聞こえた。
しばらくして、見張り台の縁から船員がひょいと顔を覗かせる。
「船長、交代しますか?」
思わず空を見上げた。
太陽はまだ高い。
いつも交代する時間には、かなり早いように思える。
「いや、まだ大丈夫だ」
リエリエッタは砂嵐から目を離さないまま答えた。
「私はここでアレを見張ってる」
「こっちには来ませんよね。何か気になることでも?」
「いや、まぁ念のためだ」
あっさりとした返事だった。
けれど、先ほどまで物珍しい見世物でも眺めるようにしていたリエリエッタは、いつの間にか手すりへ両腕を預け、じっと遠方を見据えている。
「ナナシ」
リエリエッタがくるりとこちらを振り向く。
「はい」
「あとは私が見ておく。今日はもう休んでていいぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
少し拍子抜けしながらも頷いた。
普段なら、まだしばらく見張りを続けている時間だ。けれど本人がいいと言うのなら、わざわざ断る理由もない。
お言葉に甘えることにして、梯子へ向かう。
――決して、見張りが退屈だったとか、何時間も砂ばかり眺めるのに飽きたとか、そういう理由で喜んでいるわけではない。
そんな言い訳を心の中でしながら梯子へ足を掛け、ふと振り返った。
リエリエッタは、まだ同じ場所に立っていた。
先ほどまでの気楽な様子はどこにもなく、遠ざかっていく死の砂嵐をじっと見つめている。
何がそんなに気になるのだろうか。ちっとも分かる気がしなかった。




