6話
翌日から、僕の船員見習いとしての日々が始まった。
一日の始まりは、朝食を摂るところからだ。
船室と船長室の間にある、これまで何に使われているのか分からなかった一つの階層。そこは広い食堂と、その奥に調理場を備えた場所になっていた。
今まではマリアンヌが部屋まで食事を運んできてくれていたから知らなかったが、こうして一同が食堂に集まると、思っていた以上に人が多い。
長机がいくつも並び、そのあちこちで話し声や笑い声が飛び交っている。席順が決められているわけではないらしい。
ただ、毎日顔を合わせている者同士で自然とまとまりができるのだろう。船員たちはいくつかの集団に分かれ、それぞれ好き勝手に朝食を囲んでいた。
当然、そんな輪の中へ自分から入っていけるほどの勇気はない。
食事を受け取ると、できるだけ人目につかなそうな隅の席へおとなしく腰を下ろした。
プレートの上には、パンが二つと干し肉が一枚。それから野菜の入ったスープ。
マリアンヌがこれまで部屋へ持ってきてくれていたものと、ほとんど同じだ。
パンは少し硬い。
そのまま口に入れるより、小さく千切ってスープへ浸した方が食べやすいというのが、この数日で僕が編み出した技だ。
一口分を千切り、汁をたっぷり吸わせてから口へ放り込む。
「……うん」
悪くない。
スープ自体の味がしっかりしているので、硬いパンもこれなら十分食べられる。
そんなことを考えながら、今度は干し肉を齧った。
こちらは――。
「……硬い」
文句のつけようがないほど、見事に硬かった。
歯が負けるんじゃないかと思うくらいだ。
奥歯で必死に噛みちぎろうとしていると、不意に横から声をかけられた。
「少年。美人なお姉さんが隣に座ってもいいかい?」
視線を向ける。
そこには、プレートを片手に持ったリエリエッタが立っていた。
「…………」
お姉……さん?
思わず、その姿を上から下まで見てしまう。
精神年齢はともかくとして。
見た目だけなら、「お姉さん」と呼ぶにはかなり無理があるように思える。
僕が返事をするより早く、リエリエッタは当然のように隣へ腰を下ろした。
そしてパンを少し大きめに千切ると、そのまま口へ放り込む。
「私はな、エルフなんだ」
もぐもぐと咀嚼し、きちんと飲み込んでからこちらを見る。
「長命種だから、見た目がなかなか老いない。ナナシ、私は君の何倍も生きているんだぞ? なら、お姉さんで何の間違いもないだろう?」
妙に早口だった。
しかも、聞いてもいないのに説明し始めた。
まるで嘘を見抜かれた子どもが、慌てて言い訳を並べているように見える。
「エルフって、本当に綺麗な人が多いですよね。男性も女性も」
正面から声がした。
マリアンヌが両手でプレートを持ち、こちらの向かい側へ腰を下ろす。
「それに、なかなか歳も取らないですし。羨ましい限りです」
「歳を取らないわけじゃない」
リエリエッタが即座に訂正した。
「そんなだったら、私らはいつまで経っても赤ん坊のままじゃないか」
スプーンを指先でくるくると回しながら、少し口を尖らせる。
「機会があればエルフの里にでも行ってみろ。シワシワのじいさんばあさんが、そこら中にいるぞ?」
「リエリエッタ様」
「ん?」
「お行儀悪いですよ?」
くるくると回っていたスプーンが、ぴたりと止まった。
「……んぐ」
叱られた子どものように、リエリエッタはそっとスプーンを下ろした。
「マリアンヌさん、団長をイジメるのはその辺にしてやってくれ」
横から割って入ってきたのはアルバだった。
どうやら朝食はすでに済ませているらしく、その大きな手には何も持っていない。
「リエリエッタ様の反応が面白くて、つい」
マリアンヌは悪びれる様子もなく、口元へ手を添えてくすくすと笑った。
「まったく……ナナシ、こんな悪い大人に育っちゃダメだぞ」
先ほどまで弄られていた仕返しのつもりなのか、リエリエッタが僕の頭へ手を伸ばし、髪をくしゃくしゃと撫で回してくる。
せめてパン屑を払ってから触ってほしい。
そう思ったが、口には出さなかった。
言えば今度は僕まで何か言い返されそうな気がしたからだ。
朝食を終えると、いよいよ船員見習いとしての仕事が始まった。
まずはリエリエッタについて船長室へ戻り、その業務を手伝う。
手伝う、といっても、今の僕にできることはそれほど多くない。
リエリエッタは机に積み上げられた書類とほとんど睨み合うように向き合っているので、僕は書き終えたものを別の場所へ移したり、代わりに新しい書類を持ってきたりする。
それが途切れれば、今度は部屋の掃除だ。
最初にリエリエッタが木桶と布を用意してくれた。
水はどうするのかと思っていると、彼女が杖を軽く振る。
何も入っていなかった木桶の中へ水が生まれ、あっという間に満たされていった。
「これでいいだろ」
「……便利ですね」
「だろ?」
得意げに鼻を鳴らした。
その水に布を浸して固く絞り、まずは床を水拭きする。
汚れを落としたところでもう一度乾いた布をかけ、木目に残った水気を拭っていく。
地味な仕事ではある。
けれど、さっきリエリエッタが何気なく用意した水を見ていると、どうしても別のことを考えてしまった。
魔法は戦うためだけのものではない。
火を起こすこともできる。
水を作ることもできる。
きっと僕がまだ知らないだけで、生活の中でも様々な使い道があるのだろう。
知れば知るほど便利そうで――。
同時に、自分には使えないという事実が、昨日とはまた違った形で胸に引っ掛かった。
やっぱり、少し悔しい。
「ナナシ、ちょっとおいで」
「はい」
そんなふうに掃除をしている合間にも、何度かリエリエッタに呼び止められた。
近づくたび、机の上に広げられた書類を指差す。
「これは食料の残りについてだ。こっちは水。それで、こっちが――」
説明を受けながら覗き込む。
だが、すぐに別の問題へぶつかった。
「……リエリエッタさん」
「なんだ?」
「これ、なんて書いてあるんですか?」
「ん?」
僕が書類を指差すと、リエリエッタは不思議そうにそこを見た。
「食料だが」
「いえ、そうじゃなくて……文字が読めません」
「……文字が?」
リエリエッタの目が丸くなる。
ほんの一瞬だけこちらを見つめ、それから書類へ視線を戻した。
「あぁ、そうか。記憶がないなら、そういうこともあるか」
何かを考えるように顎へ指を当てたものの、それ以上深く追及することはなかった。
「なら、ついでに覚えていけばいい。これは――」
リエリエッタは机の上から紙を一枚引き寄せると、そこに並んだ文字を一つずつ指しながら読み方を教えてくれた。
どうやら僕は、言葉を聞き、話すことはできても、文字までは分からないらしい。
自分のことなのに、こうして一つずつ試してみなければ、何ができて、何ができないのかさえ分からない。
なんとも不便なものだった。
そうして掃除をしたり、物を運んだり、ときには文字を教わったりしているうちに、いつの間にか昼になっていた。
昼食も朝と同じ食堂で摂った。
献立は朝とそれほど変わらない。
パンとスープ。それから、あの凶器のような硬さを誇る干し肉が姿を消し、代わりに焼いた魚らしきものが添えられていた。
一口食べてみる。
身そのものは淡白だったが、塩と香辛料がよく効いている。少し癖のある香りはするものの、十分に美味しい。
「これ、なんの魚なんですか?」
何気なく尋ねた。
「ああ、それか」
近くにいた船員が事もなげに答える。
「この前倒した砂潜鮫だよ」
「…………」
口の中の動きが止まった。
ゆっくりと、皿の上に残っている白身へ目を落とす。
昨日、僕を喰おうとしていたもの。
それを今、僕が食べている。
理屈では別の個体だと分かっているのに、どうにも複雑な気分だった。
「食べる側になれてよかったな」
男は少し揶揄うように言う。
もう一口、魚を口へ運ぶ。
味は悪くない。
悪くないのが、余計になんとも言えなかった。
昼食を終えると、午後も引き続きリエリエッタの仕事を手伝う――つもりでいた。
だが、午後からは少し違うことをするらしい。
「ついてこい」
リエリエッタに促され、甲板へ出る。
強い陽射しと熱を含んだ風が、一気に身体へまとわりついた。
向かったのは船の後方。
そこにそびえるマストには梯子が備え付けられており、リエリエッタは慣れた様子で手を掛けると、そのままするすると登り始めた。
「……ここを?」
「落ちなきゃ大丈夫だ」
それは大丈夫と言うのだろうか。
少し不安になりながらも、後を追う。
高度が上がるにつれて甲板が小さくなり、吹きつける風も強くなる。
やがて梯子を登り切ると、そこには人が数人入れる程度の小さな見張り台が設けられていた。
「わ……」
思わず声が漏れる。
眼前に、黄金の世界が広がっていた。
甲板から見ていた景色と同じはずなのに、高さが変わっただけでまるで別の場所に来たようだった。
船の周囲を埋め尽くす砂は、風を受けて幾重もの波紋を刻み、その向こうまで果てしなく続いている。
遠くでは地平線が陽炎に揺らぐ。
白く焼けた空との境目が曖昧になり、砂と空は溶け合う。
この先に何があるのだろうか。
こうして見渡していると、本当にこの世界のすべてが砂に呑み込まれているのではないか。
そんな錯覚さえ覚える。
「ここでは天気に変わりがないかとか、他の船がいないかとか、敵がいないかとか。まぁ、そういうのを交代で見てるんだよ」
リエリエッタの声に、景色へ奪われていた意識が戻る。
「なるほど……」
振り向いた僕は、思わず眉を寄せた。
説明をしていた本人はというと、見張り台の床へごろんと片肘をつき横になっていた。
どう見ても見張りをする人間の姿ではない。
むしろ、このまま昼寝でも始めそうだった。
「リエリエッタさん」
「なんだ?」
「真面目にやらないんですか?」
「ナナシィ……」
リエリエッタが心底悲しそうな声を出す。
「お前までマリアみたいなことを言うのか?」
「どう見ても寝る体勢じゃないですか」
「あと、私のことはボスと呼べ」
「なんでですか」
「格好いいだろ」
理由になっていない。
しかも、そう言った本人は大きく欠伸をしていた。
やっぱり寝る気なのではないだろうか。
「私はちゃんと見張ってるよ」
疑いの目を向ける僕に、リエリエッタは横になったまま人差し指を立てた。
「音を聴いている。匂いを嗅いでいる。揺れを感じている。もちろん目で見るのも大事だが、それだけじゃ足りない」
先ほどまでのふざけた調子を僅かに引っ込める。
「砂潜鮫みたいに砂の中を進むヤツは、地上を眺めてたって見つけにくいからな。近づいてくる振動だったり、砂の擦れる音だったり――そういうものを身体全部で拾うんだ」
そう言いながら、リエリエッタは手のひらで床をぽんぽんと叩いた。
「ほら。座ってみろ」
「……ここにですか?」
「騙されたと思ってやってみろ」
いまいち納得はいかなかったが、言われるがまま隣へ腰を下ろす。
床板を通して船の振動が伝わってきた。
規則正しく、細かな揺れ。
耳を澄ませば、帆が風を孕む音や、木材の軋む音も聞こえてくる。
その奥には、砂を掻き分けながら船が進む低い音。
目を閉じてみる。
すると、不思議なことに、さっきまで一つの雑音にしか思えなかったものが、少しずつ分かれて聞こえるような気がした。
風。
帆。
船。
砂。
それから、遠くで誰かが話している声。
「どうだ?」
「……わかりません」
「ハハハッ、最初はそれでいい」
軽く笑うリエリエッタの声は、すでに眠たげだった。
横を見る。
目を閉じている。
「……リエリエッタさん?」
「…………」
「ボス?」
「…………」
返事がない。
寝てるじゃないか。
そう思ったが、不思議と起こす気にはならなかった。
言われた通り、僕も砂海へ耳を澄ませる。
それから、どのくらい時間が経ったのだろう。
真上にあった太陽が少し傾き始めた頃、梯子の下から音がした。
やがて、見慣れない男の顔がひょいと覗く。
「船長〜、交代の時間です」
「ああ、分かった」
「……起きてたんですか?」
リエリエッタは何事もなかったように目を開いた。
身体を起こし、眠気を追い払うように大きく伸びをする。
「当然だろ?」
「絶対寝てましたよね」
「見張りとは、目を開けていればいいというものではない」
「さっき聞きました、それ」
誤魔化された気がする。
結局、本当に寝ていたのかどうか分からないまま、交代の男へ見張り台を譲って梯子を下りた。
甲板まで戻ると、アルバの姿があった。
こちらに気づいた彼は、ようやく来たかと言いたげに眉を上げる。
「待ちくたびれたぞ」
「ハハ、すまないな。少し目を瞑ってたら、こんな時間だ」
「やっぱり寝てたじゃないですか」
「細かいことを気にするな」
リエリエッタは悪びれもせず笑う。
「それじゃあ、ナナシを頼んだぞ」
「はいよ」
短いやり取りを交わすと、リエリエッタはそのまま船内へ戻っていった。
残された僕とアルバ。
少しの沈黙のあと、アルバがこちらへ向き直る。
「さて」
その右手には、一本の木剣が握られていた。
アルバはその木剣を無造作に差し出した。
「まずは軽く素振りだ」
「素振りですか」
受け取ってみる。
木でできているとはいえ、思っていたよりずっしりと重い。
昨日持った魔剣とはまた違う重さだった。
「何回くらいやればいいですか?」
「そうだなぁ」
アルバはしばらく顎を撫でる。
そして、何か悪いことを思いついたように口元を吊り上げた。
「とりあえず、倒れるまでだな」
「え……」
思わず木剣とアルバを交互に見る。
アルバは笑っている。
どう見ても冗談を言っている顔ではない。
……途中でやめたら、怒られるだろうか。




