5話
甲板の端で、僕は膝を抱えるようにして小さく蹲っていた。
顔を上げる気にはなれなかった。
怖かった。
でも、それを恥ずかしさが上回った。
どうしてあんな思い上がりをしてしまったのだろう。
何度か攻撃を避けられた。ただ、それだけだった。
なのに僕は、あの化け物を倒せるのではないかと錯覚した。
結果はどうだ。
剣はまともに通らず、反対に叩き飛ばされて、最後には動くことすらできなくなった。
リエリエッタが間に合わなければ、今頃――。
「まぁ、なんだ。最初は誰だってそんなもんだ。気にするな」
膝の間にすっぽりとハマった頭の上から、声が降ってきた。
聞こえてきたのが、意外にもアルバの声だったので、僅かに顔を上げる。
「五体満足なだけでも上出来だ。この砂海じゃ、初めての戦闘で命を落とすヤツの方が多い。特に砂潜鮫は、慣れた奴でも手こずる相手だからな」
そう言って、アルバは失った左腕を軽く持ち上げてみせた。
「俺だって、この前片腕を持っていかれたばかりだ」
冗談めかした口調だった。
励ましてくれているのだろう。
けれど、そういうことに慣れていないのか、言い終えると少し気まずそうに視線を逸らし、頭をぽりぽりと掻いた。
その仕草が妙に不器用で、ほんの少しだけ胸のつかえが軽くなる。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃねぇよ」
アルバは短くそう返した。
彼が片腕を失ったのは、ほんの数日前のことだ。
それなのに、今回の戦闘で最も多く砂潜鮫を倒したのはアルバだった。
後々聞いた話では、砂潜鮫を相手にする場合、複数人で一匹を囲むのが定石らしい。
それをリエリエッタとアルバは、それぞれ一人で相手にしていた。
それほどの実力者でさえ、ほんの数日前には大怪我を負っている。
そんな相手だったということを、僕はすっかり忘れていた。
いや。
忘れていたんじゃない。何も分かっていなかったのだ。
自分がどれほど危険な場所にいるのか。戦うということが、どういうことなのか。
あの牙が目の前まで迫ったときの光景が、嫌でも脳裏に蘇る。
逃げられない。
身体が動かない。
そして、一歩ずつ近づいてきた砂潜鮫。
顔を上げ、遠くの景色を眺める。
砂が続くだけで何もないこの砂海。
空は雲ひとつ無い蒼。
――次こそは、死ぬ。
そう思った。
◇ ◇ ◇
翌日。
僕は再び船長室へ呼び出された。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、昨日の失敗が浮かんでくる。
剣が皮膚に弾かれた感触。
身体を吹き飛ばした尾の衝撃。
そして何より、こちらを見ながらゆっくりと歩いてきた砂潜鮫の顔が、まるで焼きついたように頭から離れなかった。
考えないようにすればするほど思考はそこへ戻り、同じところをぐるぐると巡り続ける。
気がつけば、窓の外が白み始めていた。
そんな中、リエリエッタが僕の部屋を訪れた。
とはいっても、中へ入ってきたわけではない。
扉の向こうから、
「起きているか? 船長室まで来てくれ」
と、それだけ告げて去っていった。
わざわざ部屋の前まで来たのに、ここでは話せないことなのだろうか。
そんなことを考えながら廊下を歩く。
足取りは重かった。
別に後ろめたいことがあるわけではない。
叱られるようなことをしたとも思っていない。
ただ――。
昨日、「死」というものに頬を撫でられた。
手を伸ばせば届きそうな距離まで迫ったそれが、思っていた以上に心へ深く爪を立てていた。
死ぬかもしれない。
そんな言葉なら、いくらでも口にできる。
けれど、本当に死ぬ瞬間を目の前にすると、それはまるで別物だった。
取り留めのないことを考え続けているうちに、いつの間にか船長室の前まで来ていた。
扉を見上げる。
腕が妙に重い。
鉛でも詰め込まれたような腕を持ち上げ、数度扉を叩いた。
「入ってくれ」
すぐに、短い返事が返ってきた。
「さて……酷い顔だな」
部屋へ入るなり、リエリエッタは開口一番そう言った。
「そんなに酷いですか」
「ああ。なかなかだぞ」
自分ではよく分からない。
目の下に隈ができているのか。
顔がやつれているのか。
鏡を見ていない以上、自覚のしようもない。
ただ、人から見て一目で分かるということは、それなりの顔をしているのだろう。
「アルバも言っていたが、生き残っただけで十分だ。今はそれだけでいい」
「……はい」
答えはしたものの、声は自分でも分かるほど沈んでいた。
リエリエッタは困ったように眉を下げる。
何か言葉を探すように視線を宙へ泳がせ、しばらくしてから諦めたように短く息を吐いた。
普段のリエリエッタは軽口や冗談を好む。
けれど、本当に落ち込んでいる人間を前にすると、それを茶化して笑い飛ばせる質ではないらしい。
となれば、彼女が切れる手札はあまり多くない。
「……ま、話を変えよう」
どうやら励ますこと自体を諦めたらしい。
リエリエッタは椅子へ座り直すと、仕切り直すように膝を軽く叩いた。
「本題だ。君をここへ呼び出した理由と、これからについて話そう」
僕が俯いたままでいるのを気にする様子もなく、リエリエッタは続ける。
「昨日も言ったが、この船は商船だ。遊覧船でもなければ、渡航船でもない」
そこで一度、指を立てる。
「働かざる者、食うべからずだ」
「……つまり僕を砂海に放り出して、サメたちの餌にする、と」
「なんでそうなる!?」
リエリエッタが勢いよく身を乗り出した。
「一言もそんなこと言ってないだろう!」
続けざまに、呆れたように額へ手を当てる。
その反応を見ていると、不思議とほんの少しだけ気分が軽くなった。
「君にも船の仕事を手伝ってもらう、ってことだよ。当面は私が面倒を見る。それから――」
リエリエッタがふと扉へ視線を向ける。
「そろそろか?」
その言葉を待っていたかのように、扉が数度叩かれた。
コン、コン。
「入ってくれ」
リエリエッタが声をかける。
扉が開き、その向こうから姿を現したのはアルバだった。
「団長、呼んだか?」
「ああ。ちょうどいいタイミングだな」
リエリエッタは満足げに頷くと、こちらを顎で示した。
「アルバ。ナナシに修行をつけてやってくれ」
「俺がか?」
アルバが僕とリエリエッタを交互に見る。
「構わないが……マリアンヌさんの護衛はどうする?」
「この子の修行は、私の業務が終わってからだ。その時間なら私の手が空く。お前と交代で、私がマリアを見るよ」
「なるほどな」
アルバは納得したように頷いた。
そしてこちらへ歩いてくる。
「ってことらしい。よろしくな、ボウズ」
「え、あ――」
返事をするより先に、大きな右手が頭へ乗せられた。
ぐしゃぐしゃと髪を掻き回すように、無造作に撫でられる。
「まずは、昨日みたいに簡単に死なねぇところからだな」
「……よろしくお願いします」
僕がそう答えると、アルバは満足そうに口元を緩めた。




