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砂の中のアストラ  作者: 絹笠 悠
第1章

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4話


 通常、魔素はすべての人間の体内に存在している。


 それは人に限った話ではない。獣も、鳥も、虫も――生き物であるならば、程度の差こそあれ、その身に魔素を宿しているのだという。


 そして魔法とは、体内を巡る魔素を各系統に応じた魔力へと変換し、術者の思い描いた現象として具現化することで行使される。


 リエリエッタの言っていた「素養」というのは、その変換を行えるかどうかを指しているらしい。


 火には火の、水には水の素養があり、適性のない系統へ魔素を変換することはできない。


 ただ、そんな仕組みよりも今の僕には、もっと根本的な問題があった。


 魔素というものは、人の身体を血が巡るように、生き物が息をするように、そこにあって当然のものと考えられている。


 意識せずとも心臓が脈打つのと同じ。


 生きていることと、ほとんど切り離せないもの。


 なのに僕の身体には、その当たり前が存在していない。


「だが、本当にごく稀に、魔素を持たない人間もいるとは聞いたことがある」


 リエリエッタはそう口にしたものの、その意識は僕ではなく、どこか別の場所へ向いているようだった。


 視線が定まらず、宙を彷徨っている。


 記憶の底に沈んだ何かを、手探りで拾い上げようとしているようにも見えた。


「そんなことがあるんですね……」


 マリアンヌが驚いたように呟く。


「俺も今まで一人も見たことはねぇな」


 アルバも意外そうに眉を上げた。


「いや。実際のところ、私は一人だけ知っているんだ」


 リエリエッタが静かに言う。


「魔素無しを」


 その一言に、マリアンヌとアルバの表情が揃って変わった。


 けれどリエリエッタだけは、変わらず浮かない顔をしている。


 その表情には、一抹の寂しさが滲んでいた。


「でしたらリエリエッタ様、あれは――」


 何かに思い至ったのか、マリアンヌが口を開きかけた、そのときだった。


 カン、カン、カン。


 頭上から、鐘を打ち鳴らす硬質な音が三度響いた。


 それまで漂っていた穏やかな空気が、見えない刃物で断ち切られたように消える。


「――敵襲!!」


 リエリエッタの鋭い声が飛んだ。


 その言葉だけで、身体がびくりと強張る。


 だが、三人は違った。


 アルバは実演で手にしていた魔剣を、すぐさま隣のマリアンヌへ押しつける。


「持ってろ」


「は、はい!」


 突然渡された剣をマリアンヌが胸元へ抱え込む。


 そして素早く、アルバは腰に下げていた自分の剣を右手で抜き放っていた。


 リエリエッタも細長い杖を構え、二人は申し合わせたわけでもないのに、自然とマリアンヌを守るようにその左右へ立つ。


 迷いのない動きだった。


 さっきまで魔剣を囲んで話していた人たちと、同じ人間とは思えないほどに。


 空気が変わった。


 その事実に僕が追いつくより先に、足元から微かな振動が伝わってくる。


 最初は船そのものの揺れかと思った。


 だが、違う。


 一定の調子で進む船の振動に混じって、もっと重く、不規則な何かが砂の下から響いている。


 それは次第に大きくなり、まるで砂海そのものが低く唸っているようだった。


「ナナシ、下が――」


 リエリエッタがこちらを振り向く。


 その声が最後まで届くより先に、ふっと視界が暗くなった。


 真っ暗になったわけではない。


 肌を焼いていた陽射しが、不意に遮られただけだ。


 頭上を何か巨大なものが覆ったような――。


 背筋を嫌な感覚が走る。


 振り返った。


「……え?」


 空に、サメがいた。


 一瞬、そうとしか認識できなかった。


 巨大な――サメ。


 砂の中から飛び上がったのだろう。陽光を背負った巨体が空中にあり、その輪郭だけが黒々と浮かび上がっている。


 そして、ソレは真っ直ぐ僕を目掛けて落ちてきていた。


 考える暇などなかった。


 身体が反射的に動き、手にしていた魔剣を盾にするように構える。


 次の瞬間、凄まじい衝撃が襲った。


「ぐっ――!」


 両腕が痺れ、骨まで軋む。


 受け止めるなど、最初から無理な話だった。


 彼我の体格差は、大人と子供どころではない。


 足が甲板から離れたと思ったときには、身体は木の葉のように宙へ弾き飛ばされていた。


 ほんの一瞬の浮遊感。


 そして背中から、船体へ叩きつけられる。


「カハッ――!」


「ナナシ!」


 肺の中の空気が無理やり絞り出され、呼吸が止まった。


 痛みより先に、息ができないことへの恐怖が襲ってくる。


 視界が揺れ、輪郭が滲む。


 それでも、ふらつく頭をどうにか持ち上げた。


 正面。


 すぐそこに、二つの目があった。


「……っ」


 横へ押し潰したような平たい頭部。


 その両端から突き出した、ぎょろりとした眼球が僕を見据えている。


 大きく裂けた口の奥では、無数の牙が折り重なるように並んでいた。


 見間違えるはずもない。


 目を覚ましたあの日、甲板に山のように積まれていた、あの化け物だ。


 違う点は、今度のコイツは生きている。


 死骸でさえ不気味だったものが、今は息をし、こちらを獲物として見ている。


 その違いだけで、同じ生き物とは思えないほどの恐怖があった。


 身体の芯へ氷を差し込まれたように、すっと熱が引いていく。


 助けを求めるように周囲へ目を走らせる。


 だが、リエリエッタもアルバも、すでに別のサメと応戦していた。


 船内から飛び出してきた男たちも武器を手に戦っている。砂海から次々と飛び込んでくるサメによって、甲板は瞬く間に乱戦へ変わっていた。


 すぐに助けを期待できる状況ではない。


 目の前のこいつは、自分でどうにかするしかなかった。


 剣を握り直す。


 指先が震えている。


 先ほど船体へ叩きつけられたせいで、治りかけていた傷まで目を覚ましたように疼き始めていた。胸も、背中も、腕も、呼吸に合わせて鈍い痛みを訴えてくる。


 それでも目だけは逸らさない。


 息を吸う。


 ゆっくり吐く。


 もう一度。


 ――やるしかない。


 サメが低く身体を沈めた。


 そこで初めて気づく。


 腹びれの左右から、太く短い脚のようなものが伸びている。


 僕の知っているサメには、当然そんなものはない。


 その脚が甲板を踏み締めた。


 巨体が弾けるように飛び出す。


「っ!」


 どん、どん、と重い足音が響くたび、甲板まで微かに震えた。


 恐怖で実際以上に速く見えているのかもしれない。


 けれど、よく見れば追えないほどではなかった。


 正面から受ければ、さっきと同じだ。


 なら。


 動きを見ろ。


 すくむ脚を無理やり動かし、横へ跳ぶ。


 巨体がすぐ脇を通り過ぎ、巻き起こした風が服を激しくはためかせた。


 サメはそのまま勢いを殺しきれず、船体へ激突する。


 木材が悲鳴のような軋みを上げた。


「……避けられた」


 自分でも驚くほど、呆けた声が漏れた。


 だが、サメは怯むことなく巨体を反転させると、再びこちらへ向き直った。


 そして同じように身を低くする。


 また来る。


 二度目の突進は、一度目よりもはっきりと見えた。


 引きつけて、横へ避ける。


 サメはまた船体へ突っ込んだ。


 三度目。


 これも避けられた。


 四度目も。


 繰り返すたび、最初は喉元までせり上がっていた恐怖が少しずつ薄れていく。


 代わりに、別の感情が頭をもたげた。


 ――いけるんじゃないか。


 見た目こそ恐ろしい。


 だが、攻撃は単調だ。


 真っ直ぐ突っ込んでくるだけで、途中から軌道を変えることもできない。


 避けられる。


 そして、避けた直後なら。


 反撃できる。


 いつの間にか、逃げることしか考えていなかった頭が、どう倒すかを考え始めていた。


 剣の柄を強く握り締める。


 チャンスは一瞬。


 慎重に。


 けれど、恐れるな。


 サメが再び身体を沈めた。


 来る。


 重く鈍い足音が近づいてくる。


 まだ。


 迫る巨体が、視界を埋めていく。


 まだだ。


 飛び出した眼球も、大きく開かれた口も。


 その奥に並ぶ牙の一本一本まで、鮮明に見える。


「今!」


 紙一重のタイミングで、身体を横へ滑らせる。


 巨体がすぐ脇を通り過ぎた。


 その勢いに背を押されるように一歩踏み込み、剣を大きく振り上げる。


「ハァッ!」


 狙うのは首元。


 渾身の力を込め、振り下ろした。


 刃が皮膚を捉える。


 肉を裂き、骨へ食い込む。


 そんな感触が返ってくるものだと、勝手に思っていた。


 実際に手へ返ってきたのは――鈍い衝撃だった。


「……え?」


 硬い。


 まるで剣ではなく、鉄の棒で分厚い革を殴りつけたような感触だった。


 刃は皮膚の表面で止まり、浅い跡を残しただけ。


 血の一滴すら流れていない。


 頭の中で思い描いていた結果と、目の前の現実が噛み合わない。


 ほんの一瞬。


 脳が理解することを拒んだ。


 その隙を、目の前の怪物は見逃さなかった。


「――っ」


 サメの巨体が沈む。


 何かが来る。


 そう気づいたときには、すでに遅かった。


 ぐるん、と。


 サメがその場で身を捻った。


 巨体に引きずられるように、太く長い尾が弧を描く。


 視界の端にそれを捉えた直後、脇腹へ凄まじい衝撃が叩き込まれた。


「がっ――!」


 何が起きたのか理解するより先に、身体が宙を舞った。


 甲板も、空も、砂海も。


 視界の中で何もかもがひっくり返る。


 そして次の瞬間、背中から船体へ叩きつけられた。


「カハッ――!」


 肺の中の空気が一息に押し出される。


 背中を中心に、焼けた鉄でも押しつけられたような痛みが全身へ駆け抜けた。


 握っていた剣が手からこぼれ、甲板の上を滑っていく。


 息ができない。


 起き上がらなければ。


 頭では分かっているのに、身体に力が入らなかった。


 腕を甲板について身体を起こそうとするが、肘が震え、そのまま崩れ落ちる。


「っ……く……」


 霞む視界の中、どうにか顔だけを上げた。


 サメは、追ってきていなかった。


 少し離れた場所に立ち、じっとこちらを見ている。


 ぎょろりと飛び出した二つの目。


 大きく裂けた口。


 何列にも並んだ、おぞましい牙。


 その顔は、さっきまでと何も変わらない。


 サメに表情なんてあるはずがない。


 それなのに。


 その口元が――にやりと歪んだように見えた。


 背筋を、冷たいものが這い上がる。


 その瞬間、それまでの攻防が頭の中で一本の線につながった。


 何度も同じように突進して。


 避けられると思わせて。


 その後には隙があると、そう思わせて。


 僕が自分から剣の届くところまで近づくのを、待っていた。


 こいつは。


 最初から――この時を待っていた。


「……誘われた」


 掠れた声が漏れる。


 まるでそれを肯定するように、サメが一歩踏み出した。


 ドン、と。


 重い脚が甲板を踏む。


 さっきまで何度も見せていた突進ではない。


 走りもしない。


 ただ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


 ドン。


 また一歩。


 逃げなければ。


 そう思って腕に力を込めるが、身体は言うことを聞かない。


 尾で打ち据えられた脇腹が呼吸のたびに軋み、背中には船体へ叩きつけられた痛みが焼けつくように残っている。


 それでも何とか脚を動かそうとする。


 動かない。


 サメは急がない。


 僕がもう逃げられないと分かっているかのように、一歩ずつ距離を詰めてくる。


 ドン。


 ドン。


 足音が近づくたび、心臓を直接叩かれているようだった。


 僕は甲板を這うように後ろへ下がる。


 けれど、すぐに背中が船体へぶつかった。


 もう下がれない。


 目の前では、サメがゆっくりと大口を開き始めていた。


 暗い口腔の奥に、幾重にも牙が並んでいる。


 死ぬ。


 その言葉が、不思議なほど静かに脳裏へと浮かんだ。


 さっきまで必死に動いていた身体から、急速に力が抜けていく。


 怖い。


 逃げたい。


 なのに、どうすることもできない。


 サメが最後の一歩を踏み出す。


 開かれた口が、目の前まで迫った。


「ウルド・ファイ!」


 聞き慣れた声と、聞き慣れない言葉が響いた。


 直後。


 赤い光が視界を横切る。


 それは僕のすぐ脇を駆け抜け、目前まで迫っていたサメの横顔へ突き刺さった。


 轟音。


 爆ぜた炎と熱風が、頬を強く撫でる。


 サメの頭部が炎に呑まれ、その巨体が大きく横へ揺らいだ。


 そして、支えを失った山が崩れるように、甲板へ倒れ込む。


 どすん、と。


 重い音とともに、足元まで震えた。


「……」


 僕は動けなかった。


 目の前に倒れたサメを、ただ呆然と見つめる。


 ほんの少し前まで僕を見下ろしていた二つの目は、もうこちらを見ていない。


 全身から力が抜けていく。


 助かった。


 そう理解した途端、それまで恐怖に押し込められていた痛みが一斉に戻ってきた。


「っ……」


 脇腹を押さえ、浅く息をする。


 指先が震えていた。


 いや、指だけじゃない。


 身体全部が、自分のものではないように震えている。


「ナナシ!」


 甲板を蹴る足音が近づいてくる。


「大丈夫か? 怪我は?」


 リエリエッタの声だった。


 顔を上げると、彼女がこちらへ駆け寄ってくる。その手に握られた杖の先からは、細い煙が一筋立ち上っていた。


 その向こうには、甲板のあちこちに倒れ伏したサメの姿がある。


 アルバも、船員たちも、それぞれ相手を仕留めたらしい。


 どうやら船上の敵を片づけ、ぎりぎりのところでこちらの加勢に間に合ったようだった。


 もう一度、目の前の巨体を見る。


 さっきまで、あれは僕が逃げられないことを知っているかのように、ゆっくりと歩いてきた。


 獲物を追い詰めたことを楽しむように。


 あの笑っているように見えた口元が、脳裏から離れない。


 もしリエリエッタの魔法が、ほんの一瞬でも遅れていたら。


 今ここに倒れていたのは――僕だった。

 

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