4話
通常、魔素はすべての人間の体内に存在している。
それは人に限った話ではない。獣も、鳥も、虫も――生き物であるならば、程度の差こそあれ、その身に魔素を宿しているのだという。
そして魔法とは、体内を巡る魔素を各系統に応じた魔力へと変換し、術者の思い描いた現象として具現化することで行使される。
リエリエッタの言っていた「素養」というのは、その変換を行えるかどうかを指しているらしい。
火には火の、水には水の素養があり、適性のない系統へ魔素を変換することはできない。
ただ、そんな仕組みよりも今の僕には、もっと根本的な問題があった。
魔素というものは、人の身体を血が巡るように、生き物が息をするように、そこにあって当然のものと考えられている。
意識せずとも心臓が脈打つのと同じ。
生きていることと、ほとんど切り離せないもの。
なのに僕の身体には、その当たり前が存在していない。
「だが、本当にごく稀に、魔素を持たない人間もいるとは聞いたことがある」
リエリエッタはそう口にしたものの、その意識は僕ではなく、どこか別の場所へ向いているようだった。
視線が定まらず、宙を彷徨っている。
記憶の底に沈んだ何かを、手探りで拾い上げようとしているようにも見えた。
「そんなことがあるんですね……」
マリアンヌが驚いたように呟く。
「俺も今まで一人も見たことはねぇな」
アルバも意外そうに眉を上げた。
「いや。実際のところ、私は一人だけ知っているんだ」
リエリエッタが静かに言う。
「魔素無しを」
その一言に、マリアンヌとアルバの表情が揃って変わった。
けれどリエリエッタだけは、変わらず浮かない顔をしている。
その表情には、一抹の寂しさが滲んでいた。
「でしたらリエリエッタ様、あれは――」
何かに思い至ったのか、マリアンヌが口を開きかけた、そのときだった。
カン、カン、カン。
頭上から、鐘を打ち鳴らす硬質な音が三度響いた。
それまで漂っていた穏やかな空気が、見えない刃物で断ち切られたように消える。
「――敵襲!!」
リエリエッタの鋭い声が飛んだ。
その言葉だけで、身体がびくりと強張る。
だが、三人は違った。
アルバは実演で手にしていた魔剣を、すぐさま隣のマリアンヌへ押しつける。
「持ってろ」
「は、はい!」
突然渡された剣をマリアンヌが胸元へ抱え込む。
そして素早く、アルバは腰に下げていた自分の剣を右手で抜き放っていた。
リエリエッタも細長い杖を構え、二人は申し合わせたわけでもないのに、自然とマリアンヌを守るようにその左右へ立つ。
迷いのない動きだった。
さっきまで魔剣を囲んで話していた人たちと、同じ人間とは思えないほどに。
空気が変わった。
その事実に僕が追いつくより先に、足元から微かな振動が伝わってくる。
最初は船そのものの揺れかと思った。
だが、違う。
一定の調子で進む船の振動に混じって、もっと重く、不規則な何かが砂の下から響いている。
それは次第に大きくなり、まるで砂海そのものが低く唸っているようだった。
「ナナシ、下が――」
リエリエッタがこちらを振り向く。
その声が最後まで届くより先に、ふっと視界が暗くなった。
真っ暗になったわけではない。
肌を焼いていた陽射しが、不意に遮られただけだ。
頭上を何か巨大なものが覆ったような――。
背筋を嫌な感覚が走る。
振り返った。
「……え?」
空に、サメがいた。
一瞬、そうとしか認識できなかった。
巨大な――サメ。
砂の中から飛び上がったのだろう。陽光を背負った巨体が空中にあり、その輪郭だけが黒々と浮かび上がっている。
そして、ソレは真っ直ぐ僕を目掛けて落ちてきていた。
考える暇などなかった。
身体が反射的に動き、手にしていた魔剣を盾にするように構える。
次の瞬間、凄まじい衝撃が襲った。
「ぐっ――!」
両腕が痺れ、骨まで軋む。
受け止めるなど、最初から無理な話だった。
彼我の体格差は、大人と子供どころではない。
足が甲板から離れたと思ったときには、身体は木の葉のように宙へ弾き飛ばされていた。
ほんの一瞬の浮遊感。
そして背中から、船体へ叩きつけられる。
「カハッ――!」
「ナナシ!」
肺の中の空気が無理やり絞り出され、呼吸が止まった。
痛みより先に、息ができないことへの恐怖が襲ってくる。
視界が揺れ、輪郭が滲む。
それでも、ふらつく頭をどうにか持ち上げた。
正面。
すぐそこに、二つの目があった。
「……っ」
横へ押し潰したような平たい頭部。
その両端から突き出した、ぎょろりとした眼球が僕を見据えている。
大きく裂けた口の奥では、無数の牙が折り重なるように並んでいた。
見間違えるはずもない。
目を覚ましたあの日、甲板に山のように積まれていた、あの化け物だ。
違う点は、今度のコイツは生きている。
死骸でさえ不気味だったものが、今は息をし、こちらを獲物として見ている。
その違いだけで、同じ生き物とは思えないほどの恐怖があった。
身体の芯へ氷を差し込まれたように、すっと熱が引いていく。
助けを求めるように周囲へ目を走らせる。
だが、リエリエッタもアルバも、すでに別のサメと応戦していた。
船内から飛び出してきた男たちも武器を手に戦っている。砂海から次々と飛び込んでくるサメによって、甲板は瞬く間に乱戦へ変わっていた。
すぐに助けを期待できる状況ではない。
目の前のこいつは、自分でどうにかするしかなかった。
剣を握り直す。
指先が震えている。
先ほど船体へ叩きつけられたせいで、治りかけていた傷まで目を覚ましたように疼き始めていた。胸も、背中も、腕も、呼吸に合わせて鈍い痛みを訴えてくる。
それでも目だけは逸らさない。
息を吸う。
ゆっくり吐く。
もう一度。
――やるしかない。
サメが低く身体を沈めた。
そこで初めて気づく。
腹びれの左右から、太く短い脚のようなものが伸びている。
僕の知っているサメには、当然そんなものはない。
その脚が甲板を踏み締めた。
巨体が弾けるように飛び出す。
「っ!」
どん、どん、と重い足音が響くたび、甲板まで微かに震えた。
恐怖で実際以上に速く見えているのかもしれない。
けれど、よく見れば追えないほどではなかった。
正面から受ければ、さっきと同じだ。
なら。
動きを見ろ。
すくむ脚を無理やり動かし、横へ跳ぶ。
巨体がすぐ脇を通り過ぎ、巻き起こした風が服を激しくはためかせた。
サメはそのまま勢いを殺しきれず、船体へ激突する。
木材が悲鳴のような軋みを上げた。
「……避けられた」
自分でも驚くほど、呆けた声が漏れた。
だが、サメは怯むことなく巨体を反転させると、再びこちらへ向き直った。
そして同じように身を低くする。
また来る。
二度目の突進は、一度目よりもはっきりと見えた。
引きつけて、横へ避ける。
サメはまた船体へ突っ込んだ。
三度目。
これも避けられた。
四度目も。
繰り返すたび、最初は喉元までせり上がっていた恐怖が少しずつ薄れていく。
代わりに、別の感情が頭をもたげた。
――いけるんじゃないか。
見た目こそ恐ろしい。
だが、攻撃は単調だ。
真っ直ぐ突っ込んでくるだけで、途中から軌道を変えることもできない。
避けられる。
そして、避けた直後なら。
反撃できる。
いつの間にか、逃げることしか考えていなかった頭が、どう倒すかを考え始めていた。
剣の柄を強く握り締める。
チャンスは一瞬。
慎重に。
けれど、恐れるな。
サメが再び身体を沈めた。
来る。
重く鈍い足音が近づいてくる。
まだ。
迫る巨体が、視界を埋めていく。
まだだ。
飛び出した眼球も、大きく開かれた口も。
その奥に並ぶ牙の一本一本まで、鮮明に見える。
「今!」
紙一重のタイミングで、身体を横へ滑らせる。
巨体がすぐ脇を通り過ぎた。
その勢いに背を押されるように一歩踏み込み、剣を大きく振り上げる。
「ハァッ!」
狙うのは首元。
渾身の力を込め、振り下ろした。
刃が皮膚を捉える。
肉を裂き、骨へ食い込む。
そんな感触が返ってくるものだと、勝手に思っていた。
実際に手へ返ってきたのは――鈍い衝撃だった。
「……え?」
硬い。
まるで剣ではなく、鉄の棒で分厚い革を殴りつけたような感触だった。
刃は皮膚の表面で止まり、浅い跡を残しただけ。
血の一滴すら流れていない。
頭の中で思い描いていた結果と、目の前の現実が噛み合わない。
ほんの一瞬。
脳が理解することを拒んだ。
その隙を、目の前の怪物は見逃さなかった。
「――っ」
サメの巨体が沈む。
何かが来る。
そう気づいたときには、すでに遅かった。
ぐるん、と。
サメがその場で身を捻った。
巨体に引きずられるように、太く長い尾が弧を描く。
視界の端にそれを捉えた直後、脇腹へ凄まじい衝撃が叩き込まれた。
「がっ――!」
何が起きたのか理解するより先に、身体が宙を舞った。
甲板も、空も、砂海も。
視界の中で何もかもがひっくり返る。
そして次の瞬間、背中から船体へ叩きつけられた。
「カハッ――!」
肺の中の空気が一息に押し出される。
背中を中心に、焼けた鉄でも押しつけられたような痛みが全身へ駆け抜けた。
握っていた剣が手からこぼれ、甲板の上を滑っていく。
息ができない。
起き上がらなければ。
頭では分かっているのに、身体に力が入らなかった。
腕を甲板について身体を起こそうとするが、肘が震え、そのまま崩れ落ちる。
「っ……く……」
霞む視界の中、どうにか顔だけを上げた。
サメは、追ってきていなかった。
少し離れた場所に立ち、じっとこちらを見ている。
ぎょろりと飛び出した二つの目。
大きく裂けた口。
何列にも並んだ、おぞましい牙。
その顔は、さっきまでと何も変わらない。
サメに表情なんてあるはずがない。
それなのに。
その口元が――にやりと歪んだように見えた。
背筋を、冷たいものが這い上がる。
その瞬間、それまでの攻防が頭の中で一本の線につながった。
何度も同じように突進して。
避けられると思わせて。
その後には隙があると、そう思わせて。
僕が自分から剣の届くところまで近づくのを、待っていた。
こいつは。
最初から――この時を待っていた。
「……誘われた」
掠れた声が漏れる。
まるでそれを肯定するように、サメが一歩踏み出した。
ドン、と。
重い脚が甲板を踏む。
さっきまで何度も見せていた突進ではない。
走りもしない。
ただ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
ドン。
また一歩。
逃げなければ。
そう思って腕に力を込めるが、身体は言うことを聞かない。
尾で打ち据えられた脇腹が呼吸のたびに軋み、背中には船体へ叩きつけられた痛みが焼けつくように残っている。
それでも何とか脚を動かそうとする。
動かない。
サメは急がない。
僕がもう逃げられないと分かっているかのように、一歩ずつ距離を詰めてくる。
ドン。
ドン。
足音が近づくたび、心臓を直接叩かれているようだった。
僕は甲板を這うように後ろへ下がる。
けれど、すぐに背中が船体へぶつかった。
もう下がれない。
目の前では、サメがゆっくりと大口を開き始めていた。
暗い口腔の奥に、幾重にも牙が並んでいる。
死ぬ。
その言葉が、不思議なほど静かに脳裏へと浮かんだ。
さっきまで必死に動いていた身体から、急速に力が抜けていく。
怖い。
逃げたい。
なのに、どうすることもできない。
サメが最後の一歩を踏み出す。
開かれた口が、目の前まで迫った。
「ウルド・ファイ!」
聞き慣れた声と、聞き慣れない言葉が響いた。
直後。
赤い光が視界を横切る。
それは僕のすぐ脇を駆け抜け、目前まで迫っていたサメの横顔へ突き刺さった。
轟音。
爆ぜた炎と熱風が、頬を強く撫でる。
サメの頭部が炎に呑まれ、その巨体が大きく横へ揺らいだ。
そして、支えを失った山が崩れるように、甲板へ倒れ込む。
どすん、と。
重い音とともに、足元まで震えた。
「……」
僕は動けなかった。
目の前に倒れたサメを、ただ呆然と見つめる。
ほんの少し前まで僕を見下ろしていた二つの目は、もうこちらを見ていない。
全身から力が抜けていく。
助かった。
そう理解した途端、それまで恐怖に押し込められていた痛みが一斉に戻ってきた。
「っ……」
脇腹を押さえ、浅く息をする。
指先が震えていた。
いや、指だけじゃない。
身体全部が、自分のものではないように震えている。
「ナナシ!」
甲板を蹴る足音が近づいてくる。
「大丈夫か? 怪我は?」
リエリエッタの声だった。
顔を上げると、彼女がこちらへ駆け寄ってくる。その手に握られた杖の先からは、細い煙が一筋立ち上っていた。
その向こうには、甲板のあちこちに倒れ伏したサメの姿がある。
アルバも、船員たちも、それぞれ相手を仕留めたらしい。
どうやら船上の敵を片づけ、ぎりぎりのところでこちらの加勢に間に合ったようだった。
もう一度、目の前の巨体を見る。
さっきまで、あれは僕が逃げられないことを知っているかのように、ゆっくりと歩いてきた。
獲物を追い詰めたことを楽しむように。
あの笑っているように見えた口元が、脳裏から離れない。
もしリエリエッタの魔法が、ほんの一瞬でも遅れていたら。
今ここに倒れていたのは――僕だった。




