2話
目を覚ましてから、数日が経った。
あの日、まともに声すら出せなかった僕の様子を見ると、リエリエッタは無理に話を聞こうとはせず、「今は休め」とだけ言って部屋まで送り届けてくれた。
それから彼女が顔を出すことはなかった。
代わりに、毎日のように世話をしに来てくれる少女がいる。
リエリエッタよりも少し背が高く、金の糸を丁寧に編み込んだような髪をした少女だ。
名前は、マリアンヌ。
彼女もまた僕の素性を探ろうとはせず、こちらから話さない限り、何かを聞いてくることはなかった。
食事を運んできたり、包帯を替えてくれたり。
必要なことは何も言わずともしてくれる。
ただ、ときおり困ったような顔をすることがあった。
何か話したほうがいいのか。
それとも、そっとしておいたほうがいいのか。
そんなことを考えているのだろう。
もっとも、僕だってどう接してほしいのか分からない。
だから結局、お互いに当たり障りのないやり取りをするだけで、何となく数日が過ぎていった。
その頃には、身体の痛みもかなり和らいでいた。
まだ無理をすれば痛む箇所はいくつかあるものの、歩き回る程度なら問題ない。今なら軽く走るくらいのこともできそうだった。
喉の調子も、ずいぶん戻っている。
マリアンヌは一日中この部屋にいるわけではない。
だから、彼女がいない時間を見計らって、僕は少しずつ声を出す練習をしていた。
「あー……あ……」
最初は息が漏れるばかりだった声も、日を追うごとに形を取り戻していった。
その甲斐もあってか、まだ多少掠れてはいるものの、今では普通に言葉を交わせるくらいまでには回復している。
――そろそろ、ちゃんと話をしないと。
ここ数日、ずっと考えていた。
考えて。
思い出そうとして。
それでも結局、自分については何ひとつ分からないままだった。
自分という存在の真ん中だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
そんな感覚がある。
何もかもを忘れてしまったわけではない。
言葉は分かる。
船が何なのかも、砂漠が何なのかも分かる。
あの甲板に積まれていた生き物を見たときには、知識の中から「サメ」という言葉だって出てきた。
それ以外にも、思い出せることと、思い出せないことがある。
けれど――同じ「思い出せない」でも、その感覚はまるで違った。
たとえば何かの名前が出てこないときは、頭の奥に薄い靄が掛かっているような感覚がある。
そこには確かに何かがある。
ただ、今は手が届かない。
きっかけさえあれば、不意に思い出せるのではないか。
そんな気がする。
でも、自分自身のこととなると違う。
靄すらない。
手を伸ばしても、その先には何もない。
僕は誰なのか。
どこから来たのか。
どうして、あんな場所にいたのか。
一体、何者なのか。
分からない。
何度考えても、答えが返ってくることはなかった。
こんな状況ではあるけれど、リエリエッタはたぶん、僕が話せるようになるのを待ってくれている。
あの日、何も聞かなかったのも、そのためなのだろう。
話せることなんて、ほとんどない。
むしろ「何も分からない」と伝えることになる。
それでも、声が戻ったことくらいは知らせるべきだ。
いつまでも世話になりながら黙っているわけにもいかない。
そう思い、ちょうど部屋に来ていたマリアンヌへ声を掛けた。
「あの、すみません」
「ひゃい!」
マリアンヌの肩がびくりと跳ねた。
こちらを振り返った彼女は、目を丸くしたまま固まっている。
僕も思わず固まった。
「……」
「……」
数秒ほど見つめ合う。
先に我に返ったのはマリアンヌだった。
「しゃ、喋れたんですね……」
「あ、はい。一応」
「そう、ですか……」
ほっとしたような、それでいて少し恥ずかしそうな顔をして、マリアンヌは胸元へ手を添えた。
どうやら、かなり驚かせてしまったらしい。
「それで……リエリエッタ様の部屋を教えてもらえませんか? 話がしたいんです」
「えっ……あ、はい。分かりました。ご案内しますね」
わずかな間で平静を取り戻すと、マリアンヌはいつもの落ち着いた笑みを浮かべた。
彼女に続いて部屋を出る。
外へ続く階段とは反対側――廊下を右へ進み、突き当たりを左に曲がる。
その先にある短い通路を抜けると、上階へ続く階段があった。
二階分ほど上っただろうか。
身体はもうほとんど問題なく動いたが、それでも長く階段を上ると、傷のあたりにわずかな疼きを感じる。
やがて、他の船室よりも一回り大きな扉の前へ辿り着いた。
マリアンヌが扉を数度叩く。
「リエリエッタ様、マリアンヌです。あの子がお話をしたいそうです」
少し間があって、
「入ってくれ」
扉越しに、ややくぐもった声が返ってきた。
「失礼します」
マリアンヌが扉を開く。
中へ入って、最初に思った。
広い。
僕が寝起きしている船室と比べれば、倍どころではないだろう。
ただ、広さに反して物は少なかった。
部屋の中央には低いテーブルが一つ。
それを挟むように、二脚のソファが置かれている。
壁には大きな地図が掛けられていた。
見たことのない地形が描かれ、その上にはいくつもの線や丸印、文字らしき書き込みが残されている。
そして部屋の奥には、大きな机と椅子が一組。
飾りらしい飾りは、ほとんど見当たらない。
船長の部屋と聞けば、もっと豪華なものを想像していたけれど、ずいぶんと実用一辺倒な部屋だった。
その部屋の主は、机に積み上げられた書類の山と一人で向き合っていた。
「すまない。適当に掛けて待っていてくれ」
顔を上げることもなく言われ、僕とマリアンヌは向かい合うソファへ腰を下ろした。
紙をめくる音。
ペン先が走る音。
それだけが、しばらく部屋の中に響いていた。
こうして黙っていると、これから話さなければならないことばかりが頭に浮かぶ。
何を言えばいい。
どこまで言えばいい。
いや、そもそも――何も分からないのだから、説明のしようがない。
そう考えているうちに、リエリエッタは最後の書類へ何かを書き込み、ペンを置いた。
「ふぅ……」
一つ息を吐き、肩を軽く回す。
それから、ようやくこちらへ顔を向けた。
「さて。待たせたね」
机から立ち上がる。
「少年、まずは回復おめでとう。もう体調は大丈夫かい?」
「ありがとうございます。大丈夫……だと思います」
「それならよかった」
リエリエッタは、あの日と変わらない穏やかな笑みを浮かべた。
そのままこちらへ歩いてくる途中で、隣にいるマリアンヌへ視線を移す。
「マリアもありがとう。本来なら、君に任せるようなことではなかったんだけどね。助かったよ」
「いえ、とんでもありません」
マリアンヌは小さく首を振った。
「私にできることは、これくらいしかありませんので」
「そんなことはないさ」
リエリエッタは、それ以上は言わず、ただ労うように微笑んだ。
マリアンヌも少しだけ表情を和らげる。
二人のやり取りは短いものだった。
けれど、妙に目を惹いた。
言葉遣いなのか。
仕草なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
二人とも年若い少女に見えるのに、ふとした振る舞いの端々に、育ちの良さを思わせる品がある。
特にリエリエッタは、あの日にも感じた不思議な存在感を、やはり纏っていた。
「さて」
リエリエッタはこちら側のソファへ腰を下ろすと、改めて僕へ身体を向けた。
「ちゃんと話すのは初めてだし、改めて自己紹介をしておこうか」
軽く自分の胸へ手を添える。
「私はリエリエッタ。ヤクモ商会の会長兼、この船、ヤクモマルの船長だ。よろしく」
「私はマリアンヌと申します」
続いて、向かいに座るマリアンヌが居住まいを正した。
「訳あって、こちらの船にお邪魔させていただいております。どうぞ、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる。
「……」
そして。
二人の視線が、ほとんど同時に僕へ向いた。
次は君の番だ。
言葉にされなくとも、そういうことなのだと分かった。
喉がひどく渇いた。
さっきまで普通に話せていたはずなのに、舌が上手く動かない。
ここまで来てしまったことを、ほんの少しだけ後悔する。
怖かった。
記憶がないことを伝えるのが。
名前すら分からないと言ったら、二人はどんな顔をするのだろう。
呆れるだろうか。
疑われるだろうか。
あるいは――何かを隠していると思われるかもしれない。
当然だと思う。
自分でも、自分が何者なのか分からないのだから。
けれど。
だからといって、存在しない答えを作ることなんてできない。
結局、事実をそのまま伝えるしかなかった。
膝の上で、知らず握り締めていた手をゆっくりと開く。
「僕は……」
一度、言葉が喉につかえた。
それでも、続きを押し出す。
「記憶が、ありません」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
沈黙が落ちる。
リエリエッタも、マリアンヌも、何も言わない。
もしかすると、続く言葉を待っているのかもしれない。
そう思い、俯きかけていた顔を少しだけ上げる。
いつの間にかリエリエッタは深く腰を落とし、先ほどまでの気楽そうな表情をわずかに引っ込めていた。
「自分の名前も、思い出せないのか?」
「……はい」
「出身も?」
「はい」
「じゃあ、どうして砂海のど真ん中にいたのかも?」
「……分かりません」
「なるほどね」
リエリエッタは腕を組み、片手を顎へ添えた。
何かを考えるように、しばらく視線を宙へ漂わせる。
「リエリエッタ様……」
隣から、マリアンヌの不安そうな声がした。
心臓が嫌な音を立てる。
やっぱり、何かまずかっただろうか。
何を考えているのか。
疑われているのか。
そんな考えばかりが、次々と頭を過ぎる。
そして――。
「んー……まぁ、いいか」
「……え?」
思わず顔を上げた。
リエリエッタは、まるで今日の昼食でも決めたかのような気軽さで腕を解いた。
「思い出せないものは仕方がない。そのうち、何かの拍子に思い出すこともあるだろう」
そう言って、からりと笑う。
あまりにもあっけらかんとした言葉だった。
僕がこの数日間、あれだけ悩んでいたことを、一息で吹き飛ばしてしまうくらいに。
「……それだけ、ですか?」
「それだけだが?」
きょとんとした顔で返される。
その反応がおかしくて――いや、おかしいというより、力が抜けた。
「……はぁ」
胸の奥に張りつめていたものが、ゆっくりとほどけていく。
息を吐いて初めて、自分がずっと身体に力を入れていたことに気づいた。
リエリエッタは、そんな僕を見て小さく笑う。
きっと最初から、こちらが何を怖がっていたのか分かっていたのだろう。
そう思えるくらい、その笑みには疑いの色が少しも浮かんでいなかった。
「とはいえ、だ」
リエリエッタはふと思い出したように、人差し指を立てた。
「君をなんと呼ぶかには困る。このまま『少年』と呼び続けるわけにもいかないしね。ひとまず、仮の名前でも決めておこう」
「名前、ですか」
「そう。一時的なものだよ」
そう言いながら、リエリエッタは指先で宙に小さな円を描く。
「ただ、生憎と私は名付けの類が得意じゃなくてね。マリア、何か案はあるかい?」
「わ、私ですか?」
突然話を振られ、マリアンヌはわずかに目を丸くした。
それでもすぐに腕を組み、真剣な顔で考え始める。
「そうですね……」
しばらく唸った末に、顔を上げた。
「ありきたりではありますが、ジョン……サム、などはいかがでしょう?」
「うん。却下」
「早いですね?」
リエリエッタは悪びれる様子もなく首を振った。
「それはあまりにも、ちゃんとした名前すぎるな」
「ちゃんとした名前……?」
「彼には本来、別の名前があるんだ。いつか思い出したときに、こちらで勝手につけた名前が馴染みすぎていたら、少々ややこしいだろう?」
「ああ……なるほど」
「だから、もっとこう……あだ名に近い方向でいこう」
どうやら二人の中では、僕の呼び名を決めることがすでに一つの議題として成立しているらしい。
口を挟もうかとも思った。
けれど、二人とも妙に楽しそうで、その勢いに押されて結局黙ってしまう。
「それでしたら……」
マリアンヌが何かを思いついたように顔を明るくした。
「ザング、というのはどうでしょう!」
「ザング?」
「はい!」
自信ありげに頷く。
「古い言葉で、『砂の少年』といった意味です」
「ほう」
リエリエッタは顎へ手を添え、しばらく考え込んだ。
「悪くない」
「本当ですか?」
「ああ。悪くはないが――」
そこで、口元がわずかに吊り上がる。
嫌な予感がした。
「私に、もっと良い案がある」
マリアンヌも、どこか警戒するような顔になる。
「……お聞きしましょう」
リエリエッタは待っていましたとばかりに胸を張った。
「名前がない」
一拍置いて。
「なら――ナナシ。どうだ」
「……」
「……」
部屋に、なんとも言えない沈黙が再び落ちる。
言った本人だけが、妙案を披露したとばかりの満足そうな顔をしている。
マリアンヌはしばらく無言でリエリエッタを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「リエリエッタ様」
「なんだい?」
「最初から、それに決めていませんでしたか?」
「さぁ。なんのことやら」
リエリエッタはあからさまに視線を逸らした。
そして誤魔化すように、自分の白髪の先を指へ巻きつけ、くるくると弄び始める。
……図星なのだろう。
マリアンヌもそれ以上追及する気はないようで、困ったように微笑んだ。
どうやら、議は決したらしい。
「というわけだ」
リエリエッタがこちらを見る。
「よろしくな、ナナシ」
「よろしくお願いしますね、ナナシさん」
二人から、ごく自然にその名を呼ばれた。
「……ナナシ」
自分でも、小さく口にしてみる。
妙な名前だと思う。
というより、名前ですらない。
異論なら、いくらでも挟めたはずだった。
もっと他にあるだろう、と言うことだってできた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――ほんの少しだけ、心地よかった。
これまで僕には、自分を示すものが何ひとつなかった。
名前も。
過去も。
帰る場所さえ分からない。
そんな僕に、たとえ仮初めでも、呼ばれるための言葉ができた。
二人が当たり前のようにその名を口にしてくれたことで、ようやく自分もこの場所にいていいのだと――そんなふうに思えたのかもしれない。
今日から僕は――ナナシだ。




