1話
目を覚ましたとき、最初に耳へ届いたのは、寄せては返す波のような音だった。
ざあ、と何かが船腹を擦り、遅れて鈍い振動が床板を伝ってくる。
一定ではないその響きに、彼はぼんやりと、自分が海の上にいるのだと思った。
重いまぶたをゆっくりと持ち上げ、傍らの小窓へ視線を向ける。
しかし、その先に広がっていたのは、想像していた紺碧の海とは似ても似つかない――黄金色の世界だった。
陽炎に揺らぐ地平線。白く焼けついた空。
風に削られた砂丘は幾重にも連なり、波濤にも似たうねりを描きながら、視界の果てまで続いている。
船は、砂の上を走っていた。
「……?」
理解が追いつかない。
砂を滑るように進む船底は、低く鈍い振動を絶えず床板へ伝えている。ときおり何かを乗り越えるたびに船体が大きく跳ね、木組みの骨格が苦しげな軋みを上げた。
揺れだけなら、荒波を越える船と何ら変わらない。
けれど、窓の外に海はない。
あるのはただ、どこまでも続く砂だけだった。
霞のかかった頭を振り、無理やり意識を覚醒させる。
その途端、待っていたかのように全身から激痛が押し寄せた。
「――っ」
息が詰まる。
指一本を動かすだけでも、筋肉の奥を引き裂かれるような痛みが走った。身体のあちこちが、自分の存在を訴えるように脈打っている。
何があった。
そう考えようとしても、頭の中には濃い霧が掛かっているようで、何ひとつ掴めない。
せめて気を紛らわせようと、痛みに顔をしかめながら室内へ目を巡らせる。
木製の机が二つ。椅子も二脚。
向かい合わせるように置かれた二つのベッドと、小ぶりな物入れが一つ。
外は想像していたものとは大きく異なっているが、ここは船。ここは正しく船室……なのだろう。
備え付けられているのは必要最低限の家具だけで、誰かが長く暮らしているような生活の痕跡はほとんど見当たらない。
改めて小窓へ目を向ければ、その向こうでは黄金色の砂漠が後方へと流れ続けている。
船は今この瞬間も、どこかを目指して砂の海を渡っているらしい。
少しずつ意識が鮮明になるにつれて、五感もまた本来の働きを取り戻し始めていた。
肌にまとわりつく熱気。
日に焼かれた乾いた木の匂い。
口の中は水分を失って粘つき、喉の奥はひりつくほどに渇いている。
そして――。
少し離れた場所から聞こえてくる、怒号と悲鳴。
何かが激しくぶつかり合う音。
「……?」
幸いにも、ベッドの傍らには水を張った桶があり、机の上にはコップが置かれていた。
彼は歯を食いしばり、時間をかけて上体を起こした。
胸元から脇腹、背中に至るまで、動かすたびに鈍い痛みが走る。それでもなんとか腕を伸ばし、机の上のコップを掴んだ。
桶から水を汲み、震える手で口元へ運ぶ。
一口含んだ瞬間、思わず喉が鳴った。
冷たい水が乾ききった口内を潤し、焼けるようだった喉を流れ落ちていく。
身体の内側から、ゆっくりと生き返っていくようだった。
一口。
もう一口。
気づけば夢中で飲み続けていた。
最後の一滴まで飲み干し、大きく息を吐く。
「……はぁ」
ほんの少しだけ、身体から余計な力が抜けた。
すると今度は、それまで遠く霞んでいた船内の喧騒が、妙にはっきりと耳へ届くようになった。
悲鳴。
怒鳴り声。
忙しなく床を踏み鳴らす足音。
そして、ときおり船全体を揺さぶるほどの衝撃。
どうやら、これらは無関係ではないらしい。
船の上で、何かが起きている。
一体、何が。
そう考えたときには、もう身体が動いていた。
痛みを堪えながらベッドを降り、木製の扉へ手を掛ける。
ゆっくりと押し開けると、その先には薄暗い廊下が伸びていた。
外からの光がほとんど届かないためか、先ほどまでいた部屋よりもずっと暗い。それでも、壁に一定の間隔で掛けられたランプが橙色の光を落としており、歩くぶんには困らない程度の明るさが保たれている。
廊下は一本の長い通路になっていた。
両側には、同じような木製の扉が等間隔に並んでいる。
部屋を出て左右を見渡す。
左手側の突き当たりに、上へ続く階段が見えた。
とりあえず、あちらへ行ってみよう。
壁へ片手をつき、まだ満足に力の入らない身体を支えながら、一歩ずつ進んでいく。
船が揺れるたびに足元が取られた。
床板の軋む音は、進むにつれて大きくなる怒声と足音に呑み込まれていく。
そして、階段まであとわずかというところで――。
「急げ!」
突然、数人の男たちが階段を駆け下りてきた。
六人がかりで、一人の男を運んでいる。
「そっち側、しっかり持て!」
「あんま揺らすんじゃねぇぞ!」
「すまねぇ、どいてくれ!」
あまりにも切迫した声に気圧され、慌てて廊下の端へ身を寄せた。
男たちはこちらを気に留める余裕さえないらしい。
荒い息を吐きながら脇を駆け抜け、そのまま廊下の途中にある一室へと消えていく。
すれ違いざま。
ほんの一瞬だけ、運ばれている男の姿が視界に入った。
「……っ」
腕がなかった。
肘から先が、ない。
血に濡れた布が乱雑に巻きつけられていたが、到底止血しきれてはいない。赤黒い血が布を染め、床へぽたり、ぽたりと落ちていく。
息を呑む。
鼻腔の奥に、微かな鉄の匂いが残った。
上では――何が起きている。
先ほどまで抱いていた単なる好奇心は、もう薄れていた。
代わりに胸の奥へ生まれたのは、得体の知れない不安だった。
それでも、引き返そうとは思わなかった。
階段へ辿り着き、一段、また一段と上っていく。
身体を動かすたびに痛みが走る。
手すりを掴む指にも、自然と力が入った。
やがて最後の一段を上りきる。
目の前には、外へ続いているらしい大きな扉があった。
向こう側から、風の唸る音が聞こえる。
彼は一瞬だけ躊躇い、それから取っ手に手を掛けた。
押し開ける。
瞬間――。
砂を孕んだ熱風が、真正面から叩きつけてきた。
「――っ!」
思わず目を固く閉じる。
細かな砂粒が頬を掠め、髪の間へ入り込んでくる。
熱風が通り過ぎるのを待ち、恐る恐る目を開いた。
外の世界が、一気に視界へ飛び込んでくる。
雲一つない蒼天。
肌を容赦なく焼く、じりじりとした陽射し。
頭上では、大きく張られた白い帆が風を孕んで膨らみ、その傍らでは、狐を思わせる模様の描かれた黒い旗が激しくはためいている。
そして、その先にあるのは一面の黄金。
小窓越しに眺めていたときとは、まるで違った。
視界を遮るものがなくなったことで、その異様な広さを嫌というほど思い知らされる。
見渡す限り、砂。
遠くの砂丘は熱に揺らぎ、空と大地の境界さえ曖昧になっている。
ここは、本当に海ではない。
なのに船は、帆いっぱいに風を受けながら、その砂の上を当たり前のように走っていた。
ただ――。
先ほどまで船内を満たしていた激しい喧騒は、すでに鳴りを潜めていた。
甲板を行き交う男たちは忙しなく動いているものの、誰もが口数は少ない。
武器を片づけている者。
破損した箇所を確認している者。
血のついた甲板を水で洗い流している者。
その顔には、戦いを終えたばかりの緊張がまだ色濃く残っていた。
そして、甲板の両脇。
そこには無数のナニかが、乱雑に積み上げられていた。
「……」
思わず足が止まる。
砂の色を思わせる、くすんだ黄褐色の胴体。
横に押し潰したような平たい頭の両側には、ぎょろりとした目がついている。
大きく裂けた口からは、何列にも並んだ鋭い歯。
身体の両脇と背中には、刃物を思わせる硬質なヒレが伸びていた。
しかも大きい。
比較的小さな個体でさえ、大の大人を優に上回るほどの巨体を持っている。
それが何体も重なり合い、甲板の上で折り重なるように死んでいた。
例えるならば――サメ、だろうか。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
だが、知識にあるサメとは、あまりにも違う。
そもそもサメというものは、砂の上を泳ぐ生き物だっただろうか。
積み上げられた死骸の中には、ひときわ目立つ個体もあった。
他のものの倍近い巨体。
硬そうな皮膚にはいくつもの傷が走り、その頭部には他の個体には見られない大きな突起まで生えている。
何なのだろう。
少なくとも、他の個体とは明らかに違って見えた。
その巨体を呆然と見上げていると――。
「お、目が覚めたか、少年」
不意に背後から声が掛かった。
「――」
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
背丈は、自分とちょうど目線が合うほど。
日に焼けた小麦色の肌。
肩口へ流れる白い髪は、陽射しを受けるたび銀にも似た輝きを返している。
その少女は片手を腰へ添え、こちらを興味深そうに眺めていた。
けれど――。
彼の視線は、少女の顔ではなく、その頭部へ吸い寄せられた。
長い。
耳が。
人間のそれとは明らかに異なり、頭の両脇から鋭く伸びている。
先ほど廊下ですれ違った男たちも、甲板にいる男たちも、耳の形は普通だった。
だからこそ、その特徴は否応なく目についた。
どうやら、その視線にはすぐ気づかれたらしい。
「ん? この耳が気になるのか。エルフを見るのは初めてか?」
少女は特に気を悪くした様子もなく、からりと笑った。
「……」
ただ、それだけだった。
ただ笑っただけなのに、なぜか目を逸らせなかった。
声が大きいわけでも、何かを主張しているわけでもない。
それなのに彼女がそこに立っているだけで、不思議と周囲の空気まで彼女を中心に動いているように思えた。
この人は、他の人たちとは何かが違う。
それが何なのかは、うまく言葉にできない。
けれど――人の目を惹きつける何かを、この少女は持っている。
そんな気がした。
「私はリエリエッタ。この船の船長だ」
少女――リエリエッタは、自分の胸元を軽く指で示した。
それから、今度はこちらへ向けて顎をしゃくる。
「君の名前は?」
穏やかな笑みを浮かべたまま、答えを待っている。
問いかけに応じようと、彼は口を開いた。
「お゙、う……あ゙……」
しかし、喉から漏れたのは、ひどく掠れた音だけだった。
言葉と呼ぶには、あまりにも覚束ない。
喉を痛めているのだろうか。
奥がひりつき、もう一度声を出そうとするだけで咳き込みそうになる。
けれど。
そんなことよりも。
彼は今、もっと重大なことに気づいてしまった。
名前を訊かれた。
なら、答えればいい。
自分の名前を。
そんなものは当然、自分が一番よく知っているはずだった。
なのに。
「……」
出てこない。
もう一度、思い出そうとする。
頭の奥へ手を伸ばすように、記憶を辿る。
しかし、何もない。
名前だけではなかった。
自分がどこから来たのか。
なぜ、ここにいるのか。
この身体がどうしてこれほど傷ついているのか。
探ろうとするたび、その先には白い霧のような空白しかなかった。
まるで、その部分だけを最初から切り取られてしまったかのように。
胸の奥が、冷たくなる。
そこでようやく理解した。
何一つ思い出せないということを。




