17話
「ところでさ、マリアンヌ」
二人並んで船内を歩きながら、僕は声を掛けた。
「こういうときって、どこが安全なのか分かる?」
「安全、ですか?」
マリアンヌは顎に手を添え、少し考え込む。
これまでにも、この船で危険な目に遭ったことはある。
けれど、僕が船内へ避難するという形を取ったことは、一度もなかった。
砂潜鮫が襲ってきたときには僕自身が甲板にいたし、そうでなくともリエリエッタと一緒にいることが多かった。
けれど、マリアンヌは違う。
思い返してみれば、最初の砂潜鮫に襲われて以降、奴らが現れたときに彼女の姿を甲板で見た覚えがない。
なら、こういうときに避難する場所を知っているのではないか。
そう思ったのだが。
「私もあまり詳しくはありませんが……思い当たるのは二箇所ですね。食堂か、武器庫です」
「食堂? 広くない?」
「広いというのが大事なんです。視界が開けていれば奇襲を受ける心配も減りますし、いざとなればテーブルや椅子を盾代わりにもできますから」
「なるほど」
言われてみれば、確かにそうだ。
狭い部屋に閉じ籠もって、逃げ道まで失ってしまうよりはいいのかもしれない。
そう話しているうちに、階段へ辿り着いた。
ここから左へ行けば食堂。
右手の階段を下りれば、武器庫のある下層へ続いている。
「じゃあ、食堂にする?」
「いえ。それよりも……」
マリアンヌの視線が、僕の腰元へ落ちた。
「ナナシさん、今持っている武器は、その木剣だけですか?」
「え?」
つられて腰へ手をやる。
そこに差してあるのは、いつもの鍛錬で使っている木剣が一振り。
「そう、だね。木剣だけ。朝食のあとに素振りしてたから、そのまま……」
「…………」
マリアンヌは一瞬だけ考え込む。
そして次の瞬間には、迷いなく僕の手を取った。
「武器庫へ行きましょう」
「え?」
「まずは武器を調達するのが先決です。それに、魔剣があれば私も多少なりとも援護できますし」
そう言いながら、僕の手を引いて階段を下りていく。
なるほど。
言われてみれば、その通りだ。
護衛を任されたというのに、木剣しか持っていないのではあまりにも心許ない。
それに――。
あわよくば、あの魔剣を。
「……分かった」
マリアンヌに手を引かれるまま、僕は階段を下っていった。
武器庫には、相変わらず箱が山のように積まれていた。
大小様々な木箱が所狭しと並び、部屋の奥まで埋め尽くしている。
「……勝手に使ったら、怒られるかな?」
一応、売り物だし。
ぽつりと漏らした言葉に、マリアンヌがすぐ反応した。
「問題ありませんよ。今は非常時ですから、なおさらです」
そう言ってから、胸を張る。
「もし怒られるようなことがあれば、私がリエリエッタ様を怒りますので安心してください!」
「でも、マリアンヌもボスの部下……なんでしょ? 大丈夫なの?」
「厳密に言えば、少し違うんですが……」
マリアンヌは困ったように眉を下げた。
「話せば長くなりますね。また今度、機会があれば説明します。それよりも――ほら!」
そう言って、部屋の奥へどんどん進んでいく。
その方向には覚えがあった。
僕の記憶が正しければ――。
やはり。
部屋の最奥。
そこには、先日僕自身の手でここまで運び戻した魔剣が置かれていた。
黒い刀身を隠すように、今は布が幾重にも巻かれている。
「ほら、ナナシさん。これ使ってください!」
「い、いや、でも……」
「いいんですよ。どうせここに置いていても、ナナシさん以外には使えないんですから」
あっけらかんと言い放つと、マリアンヌはもう僕には構わず、今度は自分が使う魔剣を探し始めた。
「…………」
こうして見ていると、不思議な人だと思う。
見た目だけなら、可憐な少女という言葉がよく似合う。
なのに、発言や行動は思いのほか大胆というか。
豪胆というか。
そんなことを考えながら、僕は刀身に巻かれていた布を解いていく。
艶のない黒紫色の刀身が、少しずつ露わになる。
最後の布を取り払ってから柄を握り直すと、以前と同じように不思議なほどすんなりと手に馴染んだ。
それからマリアンヌと一緒に、使えそうな魔剣をいくつか見繕っていた――そのときだった。
「――うわっ!」
ドンッ!
立て続けに、大きな衝撃が船を襲った。
壁が震える。
積み上げられた木箱がガタガタと音を立て、遅れて轟音が船内へ響いてきた。
「っ……!」
僕はなんとか踏ん張った。
けれど、マリアンヌは大きくよろめき、体勢を崩す。
「危ない!」
咄嗟に腕を伸ばした。
倒れかけた身体を、どうにか抱き止める。
「大丈夫?」
「……ありがとうございます。おかげさまで平気です」
マリアンヌは身体を起こしながら、天井を見上げた。
「しかし、今のは一体……」
「ここからじゃ外の様子が分からないし……見に行ってみる?」
「いえ」
僕の提案に、マリアンヌはすぐ首を横に振った。
「ひとまず、ここにいましょう」
「ここに?」
「賊の目的がこの船の貨物なら、いずれここへ来るはずです」
「え、それなら食堂の方が安全じゃない?」
「ええ、おそらく」
「だったら――」
「だからこそ、ここを守る必要があると思うんです」
マリアンヌの声は穏やかだった。
けれど、その目には迷いがない。
「ですが、私一人ではここを守れません」
そして僕を見る。
「ナナシさん。お願いしますね」
「うーん……分かったよ」
頷きはしたものの、どうにも納得しきれない。
ボスから言われたのは、
――マリアを守ってやってくれ。
だ。
なら、僕がするべきなのは、マリアンヌをより安全な場所へ連れていくことではないのか。
賊が真っ先に目指してくるかもしれない武器庫へ居座るのは、むしろ逆のような気がする。
けれど。
目の前のマリアンヌを見る限り、ここから動くつもりはなさそうだった。
それに、先ほどの大きな衝撃も気になる。
今から食堂へ戻る方が安全なのかどうかも、もう分からない。
迷っている暇はない。
なら――。
ここに残ると決めたのなら、そのためにできることを考えるしかない。
改めて武器庫を見回す。
あるのは武器と、それを詰めた大量の木箱。
窓はない。
出入りできる扉も、一つだけ。
「……マリアンヌ」
「どうしました?」
「ちょっと手伝ってほしいんだけど」
「はい?」
僕は入口の扉を指差した。
「周りの箱を使って、扉を塞がない?」
「箱で?」
「うん。もし本当に侵入者がここを狙ってるなら、少しでも入ってくるまでの時間を稼いだ方がいいと思う」
マリアンヌは扉と周囲の木箱を交互に見る。
すぐに頷いた。
「なるほど。分かりました。やりましょう!」
二人で手近な箱を動かし始める。
「せーのっ……!」
「んんっ……!」
押す。
動かない。
もう一度力を込める。
ほんの僅かに木箱が床を擦った。
「お、重い……!」
「中身が入ったままですからね……!」
さすがにこのまま運ぶのは無理だった。
一度蓋を開け、中身を外へ出す。
箱を移動させてから、また次。
そんなことを何度も繰り返し、どうにか扉の前へ箱を積み上げていく。
どれほど時間が経っただろう。
「ふぅ……」
額には汗が滲んでいた。
けれど、なんとか形にはなった。
僕とマリアンヌは積み上げた箱を見て、それから互いの顔を見る。
思わず、少しだけ笑った。
そのとき。
――ギシッ。
音がした。
「…………」
笑みが消える。
外。
通路の方からだ。
――ギシ。
また。
今度は、はっきり聞こえた。
誰かが階段を下りてきている。
ゆっくりと。
一段。
また一段。
階段を軋ませながら、確実にこちらへ近づいてくる。
――侵入者か。
マリアンヌと顔を見合わせる。
先ほどまでとは違う緊張が、一瞬で身体を強張らせた。
僕は彼女へ目配せし、部屋の奥を指差す。
――隠れて。
声には出さない。
マリアンヌも意図を察したのか、小さく頷いて奥へ下がっていった。
僕は扉の近くへ寄り、耳を澄ませる。
……足音は一つ。
ギシ。
ギシ。
廊下の床板が軋む音。
ゆっくりと。
けれど、間違いなくこちらへ向かってくる。
敵か。
味方か。
まだ、分からない。
僕は息を殺し、足音を立てないよう慎重に数歩下がった。
右手を柄へ添える。
握る。
手の中にある感触を確かめるように、強く。
――ギシッ。
また一つ。
足音が、近づいた。
そして。
武器庫の前で、ぴたりと止まった。
「…………」
汗が一筋、頬を伝う。
静寂。
扉一枚を隔てた向こうに、誰かがいる。
そう思った直後だった。
ガンッ!
「っ……!」
扉が激しく鳴った。
向こう側から乱暴に押し開けようとしている。
けれど、積み上げた箱に阻まれ、扉は僅かに軋んだだけで動かない。
「あぁ? んだここ。鍵掛かってんのか?」
苛立ちの滲んだ、荒々しい男の声。
聞き覚えは――ない。
やっぱり。
侵入者だ。
僕は音を立てないよう、身を低くし近くの箱の陰へ移動する。
どうする。
もし、バリケードを破られたら。
鍵が掛かっていると勘違いして諦めてくれれば、それが一番いい。
けれど――。
ガンッ!
もう一度、扉が鳴った。
そんな都合よくはいかないらしい。
「鍵が掛かってるっつうことは……」
男の声が止まる。
一瞬の静寂。
そして。
「ここが武器庫だぁ!!」
「――ッ!」
凄まじい衝撃。
扉が大きく撓んだ。
次の瞬間、積み上げていた箱ごと、強引に内側へ蹴り破られる。
木箱が倒れ、中身が床一面へ飛び散った。
その向こうから、一人の男が姿を現す。
目元を除く顔のほとんどを布で覆い、全身をすっぽりと隠すような外套を纏っている。
男は散乱した箱を跨ぎながら武器庫へ入り、露わになった目だけを動かして部屋を見渡した。
「あぁ、バリケードが張られてるっつうことはだ」
わざと聞かせるように、大きな声を出す。
「こん中に隠れてる奴がいるなぁ?」
ドクン。
鼓動が跳ねる。
考えろ。
次にどうする。
「男はみぃんな、皆殺しぃ♪」
先手を取るか。
「女とガキは、生け捕りさぁ♪」
いや。
まず相手の動きを見た方が――。
「さぁてと。狩りぃの時間の、はぁじまりだぁ〜♪」
違う。
時間を掛けすぎれば、マリアンヌが見つかる。
動くなら――先だ。
視線だけを動かす。
さっき箱の中身を出したせいで、床には何本もの剣が散らばっている。
すぐ手の届くところに一本。
僕は身を低くしたまま、そっと左手を伸ばした。
柄を掴む。
――カチャ。
「…………!」
小さな金属音。
しまった。
「そこか?」
男の顔が、ゆっくりとこちらへ向く。
けれど。
そのときには、もう遅い。
「っ!」
掴んだ剣を、力いっぱい投げつけた。
「うおっと!」
男が腰の魔剣を抜き放つ。
ギィンッ!
飛来した剣が弾かれ、金属音が武器庫いっぱいに鋭く響き渡った。
その音に紛れるように、僕は箱の陰から飛び出す。
思いきり床を蹴った。
右手には、あの魔剣。
「はぁっ!」
振り下ろす。
男は弾いたばかりの魔剣を返し、その一撃を受け止めた。
ギィンッ!
また金属音。
男が僅かに目を見開く。
けれど、それだけだった。
「おらぁ!」
「っ!」
すぐさま刃が返ってくる。
慌てて魔剣を合わせる。
ギンッ!
腕に衝撃が走った。
重い。
さらに一撃。
受ける。
また一撃。
今度は受け切れず、剣先を逸らすようにしてどうにか流した。
アルバとの鍛錬で何度も繰り返した動き。
それでも。
実戦で向けられる刃は、木剣とはまるで違う。
怖い。
速い。
そして何より――重い。
「くっ……!」
数度の攻防の末、たまらず後ろへ跳ぶ。
距離が開いた。
「ん〜〜?」
男が首を傾げる。
僕の姿を上から下まで眺め、それから妙に間延びした声を漏らした。
「ガキかぁ」
露わになった目が、愉快そうに細められる。
「殺したかったが……ん?」
男は何かを思い出したように、気怠そうに頭を掻いた。
「そういや、エルフの女以外は殺すなって言われてたっけかぁ?」
「…………」
「ま、いいか」
どうでもよさそうに魔剣を肩へ乗せる。
「ガキ一人増えたところで、んなもん誤差だろ」
男が歩き出す。
一歩。
また一歩。
僕との距離をゆっくりと詰めてくる。
急ぐ様子はない。
目の前にいるのが、自分より遥かに体格の劣る子供だからか。
それとも。
それだけ、自分の腕に自信があるのか。
まるで狩りを楽しんでいるように。
あるいは、子供の遊び相手でもするように。
男が魔剣を振るう。
「っ!」
刃を見る。
足を見る。
アルバに教えられたことを、必死に思い出す。
真正面から受け止めない。
剣を添えるようにし、軌道を逸らす。
「ぐっ……!」
それでも、腕が持っていかれそうになる。
力が違いすぎる。
身体の大きさも、経験も、何もかも。
受け流しているはずなのに、一撃ごとに身体ごと押されていく。
足が、一歩。
また一歩と、後ろへ下がる。
そして――。
不意に、足元が滑った。
「え――」
踵が床を捉え損ねる。
そのまま大きく体勢を崩し、背中から後ろへ倒れ込んだ。
何が。
視線だけを足元へ向ける。
散らばった剣。
その一本に、足を取られた。
まずい。
慌てて男へ視線を戻す。
その瞬間だった。
右頬に、強烈な衝撃。
「ッ……!」
視界が横へ弾けた。
一瞬遅れて、殴られたのだと理解する。
左拳を握り締めた男の目元が、愉快そうに歪んでいた。
「へへっ」
続けざまに男が片脚を持ち上げる。
狙いは――腹。
「――ッ!」
蹴り下ろされた。
腹の奥まで押し潰されるような衝撃。
息が消える。
声すら出ない。
「ぅ、ぇ……」
代わりに口から、唾液と胃液の混じったものが零れた。
痛い。
息ができない。
けれど、男は止まらなかった。
「ほらよ」
右手の魔剣が動く。
切っ先が腕を掠めた。
「ッ!」
浅い。
次は脚。
また腕。
致命傷にはならない。
だからこそ。
わざとだと分かった。
殺すためじゃない。
痛めつけるため。
熱い。
熱い。
熱い。
傷を増やされるたび、身体のあちこちに焼けるような痛みが走った。
頬、腹、腕、脚。
どこが一番痛いのかすら、分からなくなってくる。
頭がうまく働かない。
男が何かを探すように、僕の身体へ視線を這わせた。
腕から手、太腿、膝から下へ。
「ん〜……」
迷うように視線が行き来する。
やがて。
「あぁ、ここでいいか」
獲物を決めたように、魔剣がゆっくりと持ち上がった。
切っ先がこちらを向く。
避けなきゃ。
頭では分かっている。
なのに。
身体が、動かない。
魔剣が振り下ろされる。
――その瞬間。
男の頭が、炎に包まれた。
「ッ!?」
火が爆ぜる。
「がぁっ!」
男は慌てて後退し、燃え移った頭部の布を乱暴に剥ぎ取った。
床へ投げ捨てられた布から、僅かに煙が立ち上る。
その下から露わになった素顔。
日に焼けた肌。
短く切られた茶色の髪。
唇には、二つのピアス。
それ以外には、一目で覚えられるほど特徴的な顔でもない。
けれど。
今、その顔にははっきりと怒りが浮かんでいた。
「てめぇ……!」
怒り。
それだけではない。
一瞬、男の表情に焦りの色が混じった。
顔を見られたことに対するものなのだろうか。
男の視線の先。
部屋の奥に、マリアンヌが立っていた。
顔は引き攣っている。
腰も引けている。
魔剣を握る手は震えていた。
それでも。
切っ先だけは、男へ向けている。
「もう一人いやがったか……」
男の顔から笑みが消えた。
「もういい」
低い声。
「二人まとめて殺してやるッ!」
男がマリアンヌへ向かって歩き始める。
――駄目だ。
マリアンヌに。
マリアンヌのところへ行かせちゃ駄目だ。
動け。
動け。
痛みに霞む頭を、必死に働かせる。
右手には、まだ魔剣が握られていた。
でも、立てない。
なら――。
「うあぁっ!」
空いている左手を伸ばす。
男の脚へ。
そのまま身体ごと飛びついた。
「んだテメェ!」
腕を回す。
必死にしがみつく。
男が脚を振る。
「離せ!」
離さない。
マリアンヌの方へ行かせない。
それだけしか考えられなかった。
「ウゼェなぁ!!」
「ッ!」
男が力任せに脚を蹴り上げた。
身体が浮く。
一瞬の浮遊感。
次の瞬間には、積み上げられていた箱へ背中から叩きつけられていた。
「がっ……!」
衝撃で木箱が崩れる。
ガラガラと大きな音を立て、周囲へ散らばった。
背中が痛い。
息ができない。
「あぁ、イラつくぜ……」
男の声。
ゆっくり顔を上げる。
男はこちらへ魔剣を向けていた。
「――まずはお前から殺してやるよ」
刀身に埋め込まれた魔石へ、光が集まる。
何か来る。
切っ先の前に、土色の塊が生まれた。
それが急速に凝縮されていく。
鋭く、細く。
先端を尖らせた岩の弾丸へと姿を変える。
岩弾が回転を始める。
ゆっくりと。
それから、目で追うのも難しいほど速く。
まずい。
避けなきゃ。
でも。
身体を起こせない。
「っ……」
辛うじて動いた右腕。
その手に握った魔剣を、ほとんど無意識に身体の前へ構える。
盾にするように。
「死ねっ!」
岩の弾丸が撃ち出された。
速い。
避けられない。
せめてもの抵抗で、男を睨みつける。
――衝撃。
空間そのものが震えたように感じた。
普通であれば、放たれた岩弾は剣ごとナナシの身体を貫いていただろう。
そう、普通であれば。
だが、岩弾が魔剣に触れた、その瞬間。
その軌道は反転した。
まるで、来た道をそのまま戻るかのように。
岩弾は猛烈な勢いで、放った男のもとへ撃ち返された。
「ッ!」
男は反射的に身体を逸らす。
岩弾が頬を掠め、赤い線が走る。
そのまま背後の天井へ突き刺さり、乾いた破砕音を響かせた。
「………………は?」
何が起きた。
男の思考は、目の前で起きた現象をすぐには受け入れられなかった。
確かに、自分の魔剣から放った。
狙いも違えちゃいない。
ガキは避けることすらできていなかった。
なのに。
返ってきた。
自分の魔法が。
頬を伝う熱。
男はゆっくり左手を添えた。
指先についた血を、確かめるように眼前へ持ってくる。
「…………」
視線が、ナナシの持つ魔剣へ戻る。
ただのガキ。
つい先ほどまで、そう思っていた。
実際、剣の腕は大したことがない。
力もない。
速くもない。
だが。
あの魔剣はなんだ。
――こいつは、ここで殺さなければ。
男は再び魔剣を持ち上げる。
切っ先をナナシへ向け、魔力を込めようとした。
だが、手が止まる。
また返される。
その可能性が、一瞬頭を過ぎった。
ならば、近づいて斬るか。
それも――。
男の目が僅かに細まる。
さっきまでは問題なかった。
あの魔剣と打ち合っても、何も起きていない。
だからといって、この先も同じとは限らない。
得体が知れない。
「……チッ」
男は舌打ちした。
そして、すぐに考えを切り替える。
もう一人。
女。
あちらなら話は早い。
何より――。
顔を見られている。
二人とも、このまま生かしておくわけにはいかない。
男の視線が、マリアンヌへ向く。
「……っ!」
僕もそれに気づいた。
「マリアンヌ!」
男が駆け出そうとする。
しかし、マリアンヌもただ立っているだけではなかった。
「――っ!」
震える両手で魔剣を構える。
狙うのは、男の胴体。
切っ先から炎が迸った。
「ッ!」
火球が一直線に飛ぶ。
男の反応が僅かに遅れた。
手元で火球が爆ぜる。
「ぐっ!」
爆風。
男の魔剣が手から弾き飛ばされた。
金属音と共に床へ落ち、遠くへ滑っていく。
「今っ……!」
痛む身体を無理やり起こす。
脚が震えた。
それでも。
立つ。
魔剣を構える。
――マリアンヌのところへは行かせない。
「はぁっ!」
踏み込む。
斬る。
男が身体を逸らす。
もう一撃。
また避けられる。
魔剣を失った男は、今度は受けずにかわす。
「クソがッ!」
速い。
武器はなくなったが、動きが鈍ることはない。
僕が剣を振る。
かわす。
男が足元に散らばる別の剣へ手を伸ばそうとする。
その瞬間。
「させません!」
マリアンヌの魔剣から炎が飛ぶ。
「チッ!」
男が手を引き、身体を捻ってかわす。
そこへ僕が踏み込む。
斬る。
またかわされる。
僕が追う。
マリアンヌが狙う。
男が逃げる。
決定打にはならない。
でも。
さっきまでとは違う。
二人なら、時間を稼げる。
そのとき。
ドンッ!!
「うわっ!」
船全体が大きく揺れた。
壁が震え、天井から細かな埃が落ちてくる。
床に散らばった剣が一斉に鳴った。
「今の……」
上で何かが起きている。
僕だけじゃない。
マリアンヌも。
目の前の男も。
一瞬だけ同じように天井を見た。
けれど。
すぐに全員の視線が戻る。
今は――目の前。
考えることは同じだった。
「ッ!」
男が再び落とした魔剣へ走る。
「マリアンヌ!」
「はい!」
炎。
男がかわす。
足が止まる。
そこへ僕が斬り込む。
「邪魔だッ!」
かわされる。
それでも追う。
男が動けば、マリアンヌが狙う。
マリアンヌが魔法を撃てば、僕が踏み込む。
それを幾度か繰り返した。
どれだけ続いたのか分からない。
ほんの数十秒だったのか。
もっと長かったのか。
痛みと緊張で、時間の感覚がおかしくなっている。
そのときだった。
「…………!」
男の動きが、突然止まった。
僕も反射的に足を止める。
何だ?
男が僅かに首を傾けた。
まるで。
誰かの声を聞いているように。
「…………撤退?」
ぽつり。
「ふざけんな。こんなガキども相手に――」
言葉が途中で切れる。
「………………チッ!」
大きな舌打ち。
誰かと会話している?
そう思ったときには、男が大きく後方へ跳んでいた。
僕たちから距離を取る。
そして、床に落ちた自分の魔剣を見る。
「…………」
眉間に皺を寄せる。
また、舌打ち。
「どうしたんだ……?」
「分かりません」
マリアンヌは魔剣を構えたまま答えた。
「ですが、油断してはいけません」
「うん」
僕も構えを解かない。
男はこちらを睨んでいた。
けれど。
もう戦うことに意識が向いていない。
そんなふうに見えた。
「……今回はここで許してやる」
「…………」
「次会ったときは、ぜってぇにお前らを殺す」
吐き捨てる。
その直後。
「え……?」
男の身体が、薄くなった。
輪郭がぼやける。
向こう側が透けて見える。
「なっ――」
咄嗟に踏み込もうとする。
けれど、警戒して距離を取っていたせいで、一瞬遅れた。
手を伸ばしたときには――。
もう。
何もいなかった。
「…………」
武器庫に静寂が戻る。
「……逃げた?」
「まだです」
マリアンヌの声は硬い。
「まだ油断しないでください。そう見せかけているだけかもしれません」
「……うん」
二人で周囲を警戒する。
静寂が耳を刺す。
何も起こらない。
足音も。
呼吸音も。
気配すら。
やがて。
残されたものへ視線が落ちた。
床に転がる、男の魔剣。
「…………」
本当に。
いなくなったらしい。
「はぁぁぁぁ……」
全身から一気に力が抜けた。
その場へ尻をつく。
「助かったぁ……」
自分でも情けない声が出た。
「ふぅ……」
マリアンヌも近くの箱へ手をつき、大きく息を吐いている。
鼓動が打つ早鐘が、耳にうるさいほどに響く。
まだずっと速い。
身体中が痛む。
呼吸するだけでも、あちこちから痛みが返ってくる。
それでも。
「…………」
不思議だった。
胸の奥にあるものは、痛みや恐怖だけじゃない。
――やってやった。
そんな気持ちが、ほんの少しだけあった。
勝った。
なんて、とても言えない。
最後には向こうが勝手に逃げただけだ。
マリアンヌにも何度も助けてもらった。
あのとき。
マリアンヌが魔法を撃ってくれなかったら。
きっと、僕は――。
考えたくもない。
それでも身体は動いた。
今度はちゃんと、動いてくれた。
怖かった。
痛かった。
逃げたかった。
それでも。
マリアンヌを守らなきゃと思ったとき。
身体は、動いたんだ。
「…………」
次は。
もっと上手くやる。
もっと強くなる。
今度こそ、誰かに助けてもらうだけじゃなくて――。
僕が。
「ナナシさん」
顔を上げる。
マリアンヌが、こちらを見ていた。
目が合う。
すると。
にっこりと笑った。
「ちゃんと守ってくれましたね」
そして、少し楽しそうに。
「ありがとうございます。私の騎士様!」
「……ハハ」
乾いた笑いが漏れた。
騎士なんてものには。
まだまだ、程遠いなぁ。




