13話
13話と14話の投稿設定をミスしていました。現在は修正後となります。
瞼を焼くような強い光に、意識が浮かび上がる。
薄く目を開けると、沈んでいたはずの太陽が砂海の彼方から顔を覗かせ始めていた。
「……朝?」
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
結局、答えは見つからないまま。
甲板の上で一晩を明かしたせいか、身体の節々が固まっている。
「っ……」
軋む身体を起こすと、肩に掛かっていた何かが、はらりと膝の上へ落ちた。
薄手の毛布だった。
誰かが掛けてくれていたらしい。
誰だろう。
僕が甲板に残っていることを知っていたのは、ザックスとマーム。それからマリアンヌ。
マリアンヌ辺りだろうか。
そう思うと、昨夜から胸の内に居座っていた寂しさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
毛布を畳み、立ち上がる。
座っていようが、寝ていようが。
答えが出ていようが、いなかろうが。
一日は無情にも始まるのだ。
だったら僕も、いつまでもここで寝転がっているわけにはいかない。
昨日から着替えていない服を替えるため、一度自室へ戻ることにした。
部屋に戻れば、桶に張られた水も、そのそばに置かれたコップもいつも通りだった。
冷たい水で顔を洗う。
新しい服に着替え、最後に両頬をぱちんと叩いた。
「よし」
さあ、今日も一日を始めよう。
まずは朝食。
それが終わったら鍛錬だ。
「…………」
そこまで考えて、着替えたばかりの服を見る。
……だったら、着替える前に鍛錬を済ませた方が良かったんじゃないか?
まあ、いいか。
食堂にリエリエッタの姿は――もちろん、なかった。
それどころか、いつもに比べて人そのものが少ない。
今日は随分と早く目を覚ましたらしい。
ザックスやマームの姿も見当たらなかった。
まあ、そんな日もあるだろう。
深く考えずに朝食を受け取り、適当な席へ腰を下ろす。
並んでいるのは、いつもとそう変わらない朝食だ。
パンにスープ。
それから今日は、炙った砂潜鮫の干物が添えられていた。
一口齧る。
香ばしさのあとから、凝縮された塩気と旨味がじわりと広がった。
それを噛みながら、ふと思う。
こういうものも、街で降りたら食べる機会は減るのだろうか。
「……」
まただ。
昨日までは何も考えずに食べていたものまで、そんなふうに見えてしまう。
そのときだった。
視界の端。
食堂の入口を、白い何かが横切った。
「ん?」
長い耳。
透き通るような白い髪。
――だったような気がする。
思わず二度見する。
けれど、そこにはもう誰もいなかった。
「……まさか」
リエリエッタ?
いや、ないない。
こんな早い時間に、あのリエリエッタが起きているはずがない。
きっと見間違いだ。
昨日のことがあったせいで、変に意識してしまっているのだろう。
そう自分を納得させ、残った朝食を口へ運んだ。
朝食を終えたあと、甲板でいつも通り木剣を振った。
昨日ほど無茶はせず、一通りの鍛錬を終える。
さて。
このあとはどうしよう。
普段ならリエリエッタのところへ行く。
仕事を手伝ったり、文字や計算を教えてもらったり。
それが、ここ最近の僕の日課だった。
けれど。
「……今日は、いいかな」
昨日の今日で平然と顔を出せるほど、僕の心は強くないらしい。
少し迷った末、見張り台へ向かうことにした。
マストの梯子に足を掛け、一段ずつ登っていく。
吹き抜ける乾いた風が、妙に肌に冷たかった。
見張り台へ顔を覗かせる。
誰かはいるだろうと思っていた。
だから、人影が見えたこと自体には驚かなかった。
ただ。
そこにいたのは、まったく予想していなかった人だった。
「……なんで」
思わず声が漏れる。
陽に焼けた細い手足。
朝日を浴びて白銀に煌めく長い髪。
その隙間から覗く、細長い耳。
こちらへ背を向け、見張り台の縁に身体を預けるように寝そべっている。
見間違えるはずがなかった。
リエリエッタだ。
――なんで。
なんで、今ここにいるんですか。
いつもなら、まだ寝ている時間じゃないですか。
よりによって。
今、一番会いたくないのに。
胸の奥がきゅっと縮む。
昨日のことを思い出せば腹が立つ。
顔を合わせるのは気まずい。
何を話せばいいのかも分からない。
……見張りはやめよう。
リエリエッタがいるなら、僕がいなくても問題ない。
そう自分に言い聞かせ、梯子へ足を戻そうとした。
「ん」
短い声が飛んできた。
びくりと身体が止まる。
リエリエッタは振り返らない。
ただ、まるで僕が逃げようとすることまで分かっていたかのように片手を上げると、
ぽん、ぽん。
自分の隣を二度叩いた。
――こっちにおいで。
言葉にはしていない。
それなのに。
僕には、そう言われているように聞こえた。
促されるまま、リエリエッタの隣に腰を下ろす。
何か言われるのだろうか。
そう身構えていたが、リエリエッタは何も言わない。
こちらから何か言った方がいいのだろうとも思った。
けれど、言葉が浮かんでこなかった。
結局、僕たちは黙ったまま砂海を眺める。
聞こえてくるのは、船が砂を掻き分けて進む音だけだった。
時折、見張り台よりもさらに高いところを鳥が飛んでいく。
以前はほとんど見かけなかったはずだ。
遠くを行き交う船の姿も、ここ数日で少しずつ増えてきた。
街が近づいているのだろう。
そういえば、ここ数日は砂潜鮫をはじめ、魔物からの襲撃も受けていない。
砂嵐も、あの一件以来目にすることはなく、平穏な日々が続いていた。
これなら、見張りがいてもいなくても変わらないんじゃないか。
一瞬そんなことを考えて、すぐに打ち消す。
こういうときに限って、何かが起こるものだ。
いつも通り五感を研ぎ澄ませ、仕事に集中する。
隣にいるリエリエッタのことは――なるべく考えないことにした。
そうして何時間かが経った。
太陽はすっかり高く昇り、頭上近くから砂海を照らしている。
その間、僕とリエリエッタは一言も交わしていない。
最初こそ気まずかった沈黙も、いつしか少しだけ気にならなくなっていた。
代わりに、行き交う船の数が明らかに増えている。
今も、二隻の船が僕たちの乗る船の両脇をすり抜けていった。
「近いな……」
思わず呟く。
ぶつかるほどではない。
けれど、これまで見かけた船に比べると随分と距離が近い。
リエリエッタが何の反応も示さないところを見るに、珍しいことではないのだろう。
二隻の船が並んで進んでいて、その間を僕たちがすり抜けただけなのかもしれない。
そんなこともあるのか。
そう思っていると――。
「ナナシ、見てみろ」
不意に、隣から声がした。
何時間ぶりだろう。
少し驚いてリエリエッタを見る。
彼女は僕ではなく、砂海の彼方を指差していた。
「アヌトゥスが見えてきたぞ」
「えっ」
指の先へ視線を向ける。
砂と空。
これまで、どれだけ目を凝らしてもそれしかなかった地平線。
その境界が、陽炎の向こうでわずかに揺らいでいる。
目を凝らす。
ぼやけていた何かが、少しずつ輪郭を形作っていく。
まだ遠い。
はっきりとは見えない。
それでも、分かる。
砂しかなかった世界の果てに、確かに何かがある。
「あれが……」
声が漏れた。
「あれが、アヌトゥス……」
まだ、ぼんやりとした影にしか見えない。
それでも、初めて見る街に胸が弾んだ。
あの街には、一体何があるんだろう。
どんな人たちが暮らしているのだろう。
どんな景色が待っているのだろう。
そして。
あの街に着いたら、僕は決めなければいけないのだろうか。
この船に残るのか。
それとも、降りるのか。
あの街で、僕は――。
手すりを握る指に、無意識に力がこもる。
身体の奥で、心臓が大きく跳ねた。
それが高揚なのか。
緊張なのか。
それとも、別の何かなのか。
自分でも分からない。
ただ今は、遠くに浮かび上がった街の輪郭から目を離すことができなかった。
そんなナナシの背中を、リエリエッタは少し困ったような顔で見つめていた。
やがて、その表情をふっと緩める。
ナナシは、それに気づかない。
ただ、初めて目にする街をいつまでも見つめていた。
しばらくして、アヌトゥスの手前に小さな影が見えた。
一隻の船だ。
こちらへ向かってきている。
操舵士も気づいたのだろう。
舵が切られ、こちらの船が緩やかに進路を変え始める。
正面から来る船を避けるためだろう。
ところが。
「……ん?」
向こうの船も、同じ方向へ進路を変えた。
このままでは、互いの進路が重なる。
人とすれ違おうとして、互いに同じ方向へ避けてしまう。
船内の廊下でもたまにある、あれだろうか。
少しして、こちらの船が再び舵を切った。
これで避けられる。
そう思った。
けれど――。
向こうも、曲がった。
「……?」
まただ。
こちらが進路を変えるたび、向こうも同じように進路を変えてくる。
偶然にしては、妙だった。
その間にも、二隻の距離はどんどん縮まっていく。
「……チッ!」
下から操舵士の舌打ちが聞こえた。
今度は大きく舵が切られる。
船体がわずかに傾き、進路が大きく逸れる。
これなら――。
そう思った直後。
正面の船も、
まるでこの船の動きに合わせるように。
再び、進路を変えた。
「……おかしい」
口から漏れたときには、もう人の姿まで見えるほど近づいていた。
向こうの船の先端。
そこに、一人の人影が立っている。
何をして――。
そう認識した瞬間。
光った。
「――っ?」
人影の前で、眩い光が弾ける。
次の瞬間には、何かが空中を迸っていた。
一直線に。
こちらへ。
いや。
見張り台へ。
飛んでくる。
速い。
迫ってくる光を、目では追えている。
なのに。
身体が動かない。
以前にもあった。
似たようなことが。
頭では分かっているのに。
身体が追いつかない。
光が迫る。
――当たる。
恐怖に押され、辛うじて動いた瞼が閉じかける。
その瞬間。
「――ウルド・ファイ!」
鋭い声が響いた。
リエリエッタ。
いつ抜いたのか、その手には杖が握られている。
先端から炎が迸った。
放たれた火球が、こちらへ牙を剥いていた雷光と正面から衝突する。
轟音。
炎と雷が大きく爆ぜた。
「っ……!」
弾けた熱と爆風が見張り台を叩き、頬を撫でていく。
まただ。
また、僕は動けなかった。
思考がその事実へ引きずられそうになる。
けれど――。
「ナナシッ!」
リエリエッタの声が飛んだ。
その瞬間には、もう身体が動いていた。
見張り台の端。
異常を知らせるために備え付けられた金属の鐘へ駆け寄る。
槌を掴み、力いっぱいに三度打ちつける。
カンッ! カンッ! カンッ!
甲高い鐘の音が、砂海へ響き渡った。
大きく息を吸い込む。
「敵襲!」
腹の底から声を張り上げる。
「――敵襲ぅぅッ!!」
鐘の音と僕の声が、船中へ響き渡った。
合図と同時に、船内へ続く扉が乱暴に開け放たれた。
「敵襲だ!」
「どこだ!」
アルバを先頭に、ザックスやマーム、他の冒険者たちが次々と甲板へ飛び出してくる。
僕も急いでマストの梯子を駆け降りる。
その途中で、改めて周囲をぐるりと見渡した。
正面。
こちらへ向かってくる大型船が一隻。
大きさは、ヤクモ商会の船とほとんど変わらない。
そして――背後。
「……あれ」
さらに二隻。
正面の船より一回り小さい、中型の船だ。
こちらとの距離を徐々に詰めてきている。
さっき、すれ違った船か……?
あの二隻まで敵だとは、まだ決まっていない。
けれど、違うとも言い切れない。
梯子を最後まで降りるより先に、甲板へ向かって声を張り上げた。
「正面、大型一隻! 背後から中型二隻!」
甲板にいた者たちの視線が、一斉にそれぞれの方角へ向く。
「囲まれてんのかよ……!」
「海賊か……厄介だな」
誰かの呟きが聞こえた。
直後。
頭上から影が落ちる。
リエリエッタが見張り台から直接飛び降りてきた。
「えっ」
かなりの高さがある。
けれど、リエリエッタは危なげなく甲板へ着地すると、何事もなかったように立ち上がった。
「魔剣を持ってる奴は応戦しろ! 持ってない奴らは弓と矢の準備だ!」
迷いのない声が甲板を走る。
「運べ運べ!」
「こっちだ!」
指示を受け、船員たちが一斉に動き出す。
さっきまで僕の隣で何時間も黙っていたリエリエッタとは、まるで別人だった。
「アルバ、やれるか?」
「あぁ、問題ねぇ」
「よしきた」
短いやり取りを終えると、リエリエッタがくるりとこちらを振り返った。
「ナナシ」
「はい!」
「お前はマリアを連れて船内に隠れてろ」
「……っ!」
反射的に言葉が出かかった。
「なんで――」
そこまで言って、止まる。
脳裏に浮かんだのは、つい先ほどの光景だった。
迫ってくる雷。
見えていた。
何が起きているのかも分かっていた。
それなのに、僕は動けなかった。
リエリエッタがいなければ、今頃どうなっていたか分からない。
そんな僕がここに残ったところで――。
足手纏いになる。
分かっている。
頭では、ちゃんと分かっている。
それでも。
「マリアを守ってやってくれ」
「……え?」
顔を上げる。
リエリエッタは真っ直ぐに僕を見ていた。
「頼んだぞ」
言い聞かせるような、静かな声だった。
「…………」
唇を真一文字に引き結ぶ。
「……了解です」
それだけ返し、船内へ向かって駆け出した。
扉を抜け、そのまま中へ飛び込む。
◇ ◇ ◇
ナナシの背中が船内へ消えていく。
リエリエッタはそれを最後まで見届けてから、正面へ向き直った。
その瞬間、表情が変わる。
先ほどまでナナシに向けていた柔らかさは、もうどこにもない。
正面から迫る大型船。
背後から距離を詰めてくる二隻。
それらを睨み据える瞳は、ヤクモ商会を率いる船長のものだった。
リエリエッタは大きく息を吸い込む。
「さぁ、野郎ども!!」
その声が、甲板を震わせた。
「生きて帰るぞ!! 一人たりとも死ぬんじゃねぇぞぉ!!!」
「「おう!!」」
怒号にも似た声が、一斉に返った。




